29.第5話③ 無職探偵と嘘をつけないナターリヤ
私は長机の空いた端へ白布を広げ、否定符を置いた。横から光を当てると、潰れた箇所だけが平らに照り返す。何に挟まれたのかを調べているあいだに、ヴェロニカとスヴャトスラフは、審査前の出入りを確認し始めた。
前日に鐘と証言環を調整したニーナ。当日朝、組合側の席を確認したボリス。質問書と進行書類を持ち込んだマルファ。部屋や書類へ触れる機会のあった三人が、順に証言環へ入った。事件についての問いは、ニーナが審査とは別に登録した。
「ニーナ。審査直前に点検したとき、この金片は青銅文の上にあった?」
「ありませんでした。押さえ板を開いた状態で、四文を確認しました。そのあとに質問書が登録されています」
鐘が澄んで鳴る。ニーナは点検の手順を告げると、自分で証言を終了した。床が正常だった時点を、これで一つ確かめられた。
次に中央へ立ったボリスへ、ヴェロニカはニーナの点検後に触れた物を尋ねた。
「私の意見書と、この指輪だけだ。床にも登録枠にも触れていない」
大きな手が、指にはめた職印を示す。鐘は濁らなかった。
「公認への反対意見は、書面で出した。床を書き換える必要はない」
「意見書は預かる」
スヴャトスラフが受け取ると、ボリスは証言を終え、元の席へ戻った。
マルファは台帳を長机へ置いてから、環へ入った。
「あなたが審査前にしたことで、あの四文は変わった?」
「私は床には触れていません」
澄んだ鐘が鳴った。ヴェロニカは頷かなかった。
「床に触れたかどうかは訊いていないわ」
「それ以上の証言は控えます。以上で終了します」
マルファの言葉は、それで止まった。部屋は、答えなかった部分まで追いかけてはくれない。
「嘘ではないんだね」
私が言うと、ヴェロニカはマルファではなく、白布の金片を見た。
「ええ。だから、物の方を確かめましょう」
否定符には、何かに挟まれた圧痕だけでなく、細い連結部が切れたような半円形の欠けもあった。初めからばらばらの金片だったのではない。
その縁を指でなぞっているうちに、審査前にガヴリイルが裂いた金色の封が浮かんだ。
「最初の質問書」
長机のマルファの席へ回り、受け皿に回収されていた表側の封片を取る。否定符の欠けへ裂け目を寄せてみたが、形は合わない。
「受け皿の方じゃない」
ガヴリイルが封を裂いたあと、質問書そのものは証言環の青銅枠へ差し込まれ、まだ登録されたまま残っている。私は境界の外側へしゃがみ、固定された紙の下端を覗いた。下面に、細い金色が残っている。
「ニーナ。この紙を外して調べたい」
「質問は壁に保存されています。書類を外しても、あなたの証言が消えることはありません。先に、いまの状態を記録します」
スヴャトスラフが立ち会い、ニーナは紙の位置と金色の縁を描き留めた。それから押さえ板を持ち上げる。私は外側から差し出された質問書を受け取り、白布へ伏せた。
鑑定針で紙の端をわずかに起こすと、下面に残った金色の裂け目には、小さな半円形の突起があった。床から剥がした否定符を寄せる。
欠けと突起が、ぴたり重なった。
「封の一部だったんだ」
金色の薄膜は、最初から床に置かれていたわけではない。
私は否定符の押し潰された痕へ鑑定針を当て、そのまま登録枠の押さえ板へ目を移した。痕の幅と、板の幅が同じだった。
「ガヴリイルが質問書を差し込んだとき、下面に残っていたこの部分が枠へ引っかかった。細いところだけ切れて、押さえ板に挟まれた」
ニーナが内側から青銅枠を押さえてくれた。私は外側にしゃがんだまま、道具入れから何も刻まれていない薄い当て金を取り出す。元の質問書と同じ位置に別の紙を置き、当て金を下面から突き出させた。
板を途中まで下ろすと、縁に引っかかった金属片だけが、紙から離れる向きに曲がる。
「ここで切れて、その先へ落ちる。板が閉じきれば、床との間に挟まれる」
「質問書を青銅文へつないで登録するための板です。その真下に、三つ目の文がある」
ニーナの指す先を見た。審査前に見ていた、押さえ板と床が重なる場所だった。
「だから、《秘匿を許す》へ押しつけられた。薄い縁が文字の溝へ噛んで、紙を動かしてもこっちだけ残る」
確かめるのはそこまでにして、紙と金属片を引き抜いた。再現のあいだ、否定符そのものは白布の上に置いたままだった。
「仕込んだ人は、床へ触る必要がない」
私が言うと、ヴェロニカがマルファを見る。
補佐官の証言は、本当に嘘ではなかった。
私はヴェロニカを見る。
「あなたがよく使う種類の真実だね」
「答えたことにはならないわ」
「うん。今日は、私が決める前に、危険の話を全部聞かせてくれた」
「事件の途中で評価を更新されるとは思わなかったわ」
「褒めてるよ」
鐘は鳴らなかった。いまは誰も証言していない。
「封材を用意したのは?」
スヴャトスラフが事件へ話を戻した。
「典録院の封印係です」
マルファは、さっき置いた台帳を開いた。
「番号と院章を入れた正規の《記名金》を発行します。否定符は通常の封にはありません。当日の最終質問書へ封を施したのは私です。封をしたあとは、院長へ渡すまで手元に置いていました」
「質問内容と順番を準備したのも?」
「私です」
「停止手順も?」
「既存の正式手順書を、当日の書類として用意しました。手順そのものを作ったのは私ではありません」
訂正するところは、こんなときでも正確だった。
「ガヴリイルが異常時にどう動くかは知っていた」
「補佐官として知っています」
「《沈黙契約》の記録を閲覧できる者は?」
「院長と、契約管理を任された補佐官です」
「あなたも?」
「はい。契約を結んでいるのは院長ですが、私は対象記録を管理しています。七件の職印の選考経緯も、封印指定に含まれています」
封の裏側へ細工できた。質問内容と順番を知っていた。その中には、「審査対象者との関係を、隠さず述べよ」という広い問いがあった。正常なら、どこまで答えるかは証言者が決められる。けれど否定符があれば、誰かが秘匿しようとした時点で異常が表に出る。
ヴェロニカは停止手順書を開き、『公正な審査を続けられない事由』の行へ指を置いた。
「この申告なら、魔法の異常だけを話して終えられる。正常な部屋ならね。でも秘匿を許さなければ、主査自身が隠している、公正でない審査の話まで出てしまう」
ガヴリイルは職印を売り、本人も偽りだと知っている選考を行っていた。それを隠してはならないと部屋に命じられ、話してはならないと契約に命じられた。
「私が何を隠すかまで、知っていたわけじゃないんだ」
「ええ。あの広い問いなら、どこかで答えを控えたくなる。異常が起きれば、主査が停止手続を使おうとする。それを待っていたのでしょう」
床を書き換える手段だけではない。質問書を預かり、主査の手続を準備し、封印指定の内容を読める。マルファの仕事として当たり前にできたことが、目の前の細工につながっていた。
スヴャトスラフが証言環を指した。
「マルファ。犯行について環へ入り、証言しろ」
「拒否します」
「拒否する権利はある」
スヴャトスラフより先に、ヴェロニカが答えた。
「すでに物証はあるわ。入らなくても連行される。説明するなら、環の外でも構わない。どちらでも聞くわ」
マルファは答えなかった。長机の上で、開いたままだった典録台帳を閉じる。
しばらくして、それをいつものように胸へ抱く代わりに、机の中央へ置いた。巻末には、台帳より古い、折り目のついた紙が挟まっている。
「あとで、その紙も見てください」
マルファはスヴャトスラフへ告げてから、証言環へ入り、名と職を告げる。
青銅文が足元から光を放ち、透明な鐘の亀裂へ淡い輝きが戻った。
ヴェロニカは、白布に並べた質問書と否定符へ一度目をやった。
「今日の封へ否定符を仕込んだ?」
「はい」
鐘が澄んで鳴る。
「ガヴリイルが証言環へ入り、職印の売買を告白すると予想していた?」
「はい」
「沈黙契約によって死ぬことも?」
マルファは目を閉じた。
「知っていました」
部屋に響いた鐘は、美しいままだった。
「兄にも、鉱脈を読む職能紋がありました」
マルファが台帳を見た。スヴャトスラフは巻末の紙を抜き、私たちにも見えるように開く。鉱脈鑑定士の試験結果と、職印を交付しないという通知だった。試験には合格している。それでも、通知の末尾には無資格と記されていた。
「ガヴリイルは、兄が受けるはずの職印を、北部鉱山の所有者へ売りました」
「それを、いつ知った」
「補佐官として過去の選考記録を調べたあとです。兄が生きていたころは、なぜ職印が出ないのかも分かりませんでした」
スヴャトスラフが、書かれた日付を確かめた。
兄はほかに雇い先を得られず、典録院が斡旋した同じ鉱山へ入ったという。危険な地層と地下水の流れを訴えても、職印を持たない者の意見として退けられた。
スヴャトスラフが次に開いた控えには、《真実の間》で行われた安全審査の記録があった。鉱山主の証言欄へ『虚言なし』と記されている。
「その審査で使われた地図を渡したのも、ガヴリイルです。鉱山主は本物だと信じて、安全だと証言しました」
「鐘が澄んでも、地図が正しいことにはならない」
ニーナが記録へ目を落とした。
「兄も、そう言いました。地層も水の流れも違うと。それでも、この下を読んでください」
鑑定資格を持つ者の証言を採用する、とあった。兄の意見は、資格のない労働者の異議として退けられている。
その翌月、坑道が崩れた。
「兄は中にいました。亡くなったという知らせにも、鉱脈鑑定士とは書かれていませんでした」
最後の紙の端だけが、何度も開かれたせいで柔らかくなっていた。
「兄は真実を話しました」
証言環の中央で、マルファは言った。
「それでも制度は、偽の記録を信じた者の方を真実として扱った。ガヴリイルは鐘の音を、自分の記録が正しい証明に使ったのです」
スヴャトスラフは紙を重ね、日付と記録番号を書き留めた。
「これは預かる。原本と鉱山側の記録も調べる」
マルファは頷いた。ヴェロニカが彼女へ向き直る。
「だから同じ部屋で告白させた」
「自分の口で不正を語り、契約に殺されるように」
「はい」
「ほかの方法はなかった?」
「ありました。集めた記録で告発する方法も、ほかの被害者を探す方法もあった」
マルファは言い訳を探さなかった。
「それでも、私は殺す方法を選びました」
「以上で、私の証言を終了します」
環を出てきたマルファの両手へ、スヴャトスラフが拘束具をかける。
ニーナとスヴャトスラフは、否定符の取りつけ方、発動した契約、ガヴリイルが死に至った経緯を検分記録へ残した。ニーナが杖で登録すると、扉の封印の一部が消える。
壁では、さっきから残っていた私の名前と質問が、まだ光っていた。
「私の証言も、いま終えていい?」
「はい。開き直す前に確認します。先ほどの返答を、審査の証言として残さないこともできます」
ニーナは環の外で、私へ説明した。
「その場合は撤回すると告げ、証言を終えるだけです。何も言い直す必要はありません」
「事件の記録まで消えるの?」
「いいえ。強制発話が起きた事実は残します。ただ、奪われた言葉を、あなたが正式に提出した証言にはしません」
私は壁の質問を見た。あれへ答えるために、寝顔の話までする必要はなかった。
「言い直すなら、仕事の関係だけでもいい?」
「もちろんです。話す範囲はあなたが決めます」
ヴェロニカが私を見たが、どちらがいいとは言わなかった。
足元には、四つ目の青銅文がある。
『証言は証言者に属す。』
「言い直す。今度は、自分で答えたい」
「何を言うか、私にも知らせなくていいわ」
ヴェロニカは証言環から離れた。
「あなたが選ぶことだから」
ニーナは私の同意を確かめ、壁に保存された質問へ現在の四文を適用した。古い条件を示す光が消えるのを確認してから、私はもう一度、中央へ立った。喉には何も触れてこない。
ニーナが、壁の質問を読み上げる。
「審査対象者との関係を、隠さず述べよ」
先ほどまでは、隠したい言葉まで奪われた。いまは違う。言わなくてもいい。どこまで答えるかも、自分で決められる。
重臣たちも、騎士も、真実官も、拘束された犯人もいる。人前で言うのは恥ずかしい。
けれど、隠されるのはもっと嫌だった。
「私は、武具鑑定士ナターリヤです」
「ヴェロニカの補助者でも、助手でもありません。一緒に証拠を探し、間違っていたら止めて、同じ事件の責任を負う相棒です」
「王宮がヴェロニカを正式な職業へ認めたら、私は置いていかれるかもしれないと思っていました。彼女が私を相棒だと言っても、制度の言葉に合わせて一人で先へ行くのではないかと、まだ少し疑っていました」
ヴェロニカは何も挟まない。
「でも、今日、審査の形が間違っていると先に言いました。私を補助者ではないと、私が頼む前に言ってくれました」
「私も、嫌なことを黙って我慢する癖を直せていません。全部を信じきれたわけでもありません。それでも、一緒に仕事をしたい。生活もしたい」
一度、息を吸う。
「私はヴェロニカの相棒で、恋人です」




