28.第5話➁ 無職探偵と嘘をつけないナターリヤ
「審査を止めなさい」
ヴェロニカが証言環へ近づく。
「入ってはいけません!」
ニーナが両腕を広げた。
「魔法が証人へ過剰に結びついています。いま環へ入れば、あなたまで証人として登録される」
「なぜナターリヤだけが、訊かれていないことまで話すの?」
「わかりません。通常なら、問いに対する故意の虚言を止めるだけです」
「通常ではないことは見ればわかるわ」
「私も、言い方を少し柔らかくしてほしいと思っています。でも、こういうときのヴェロニカは頼もしいです」
また声が出た。
「質問書には?」
ヴェロニカが長机を見ると、マルファはすぐに登録中の質問書へ目を落とした。
「追加質問はありません。いま有効なのは『審査対象者との関係』です」
「質問が増えたわけではない」
「ええ」
答えたニーナは私ではなく、足元の光を見ていた。
「しかも正常なら、同じ問いでも、どこまで答えるかは証言者が決められます。いま異常なのは虚言の判定ではありません。秘匿の方です」
透明な鐘は、何も言わずに澄んでいた。嘘を見つける機能は動いている。
壊れているのは、黙る方だった。
「ナターリヤ、こちらへ。環の外まで来られる?」
差し出された手へ向かって歩いた。口はまだ何かを言おうとしていたが、青銅の線をまたいだ途端、喉の奥の圧力が消える。最後まで言わずに済んだ言葉を飲み込み、ヴェロニカの手を握った。
「もう大丈夫?」
「……少なくとも、いまは黙れる」
ヴェロニカは私を自分の後ろへ下がらせ、ガヴリイルへ向き直った。
「審査を止めて。ナターリヤは外へ出たけれど、壁の質問が消えていないわ」
「私は何も訊いていない!」
「あなたが黙っても、部屋には問いが残っているのよ」
ガヴリイルが席を立つ。
「主査権限で審査を停止する。証言環は私が切る」
「主査でも、いまは入らないでください。原因が分かるまで――」
「証人として入るのではない。管理のためだ」
ニーナを遮り、ガヴリイルは補佐官へ手を出した。マルファが、すぐに停止手順書を開く。
「主査停止は通常の証人尋問とは別の管理手続です。停止判断に必要のない非公開事項まで申告する必要はありません」
ページへ指を置いたまま、マルファが続ける。
「中央の青銅文へ右手を置き、名と職、公正な審査を続けられない事由を申告し、停止を命じてください」
「わかっている。安全だと保証した私が、止められないはずがない」
典録院長はニーナの横を抜け、私が立っていた中央へ進んだ。青銅文へ右手を置き、低い声で名乗る。
「王立職業典録院長ガヴリイル。私が公正な審査を続けられない事由は――」
言葉が途切れ、足元の輪が先ほどより強く輝き始める。
「私は七つの公的職印を売った」
ガヴリイルの口が、本人の意思を置き去りにして動いた。
「治癒師の職印を貴族の三男へ、魔導具師の職印を商会へ、鉱脈鑑定士の職印を北部鉱山主へ売った。女神の職能紋を持つ本来の候補者を、典録上は無資格として扱った」
補佐官の顔から血の気が引く。
「止めろ」
ガヴリイルは自分の喉をつかんだ。
「記録を改め、金を受け取った。異議を申し立てた者の証言を退けた。真実の間で――」
首筋へ黒い文字が浮かび上がる。喉を一周した契約文が締まり、ガヴリイルは境界へよろめいた。スヴャトスラフが外側から肩を掴み、環の外へ引き出す。そのあいだも口は動いていた。
「職印を買った者へ偽の記録を信じ込ませ、真実として証言させた。部屋の鐘が澄んだことを、記録そのものが正しい証明として――」
青銅の線を越えると、言葉は途切れた。だが、首の黒い文字は消えなかった。
「《沈黙契約》です!」
ニーナが叫んだ。
「禁じられた選考の経緯を話してしまった。もう契約が発動しています!」
スヴャトスラフの腕の中で、黒い輪が一度、大きく縮んだ。ガヴリイルの身体から力が抜ける。騎士団長が床へ寝かせ、名を呼んで頬を叩いても、呼吸は戻らなかった。
透明な鐘へ亀裂が走り、ひどく濁った音が部屋を震わせた。
『審問中断』
『証言者死亡』
『虚言未検出』
誰も嘘をついていないのに、人が一人死んだ。
ニーナが膝をつき、首に残った契約文字を確かめた。スヴャトスラフは脈を取っていた手を離し、近くの騎士へ扉の警戒を命じる。騎士が取っ手へ手をかけるより先に、金色の封印が扉を覆った。
「誰も証言環へ入れないでください」
ニーナは床から立ち上がり、壁の文字へ杖を向けた。
「審問中に証言者が不自然に死亡した場合の封鎖です。外部からの干渉を防ぎ、記録を保存します」
「解除するには?」
スヴャトスラフが問う。
「死因と魔法の異常を検分して記録し、途中になった証言の扱いを確定させます。亡くなった方の分は、死亡による中断として閉じます。生きている証言者の分を、私が勝手に閉じることはできません」
壁では、ガヴリイルの名の下に死亡を示す文字が添えられた。その隣で、私への『審査対象者との関係』だけが光り続けている。
「そういう機能まであるなら、最初に言いなさい」
ヴェロニカが真実官を睨む。
「通常の審査で、この封鎖を使うことはありません」
「今回は内部から干渉されているようだけれど」
ニーナは答える前に、騎士がガヴリイルの身体へ布を掛けるのを待った。
「それを調べるのが、あなたの仕事でしょう」
「まだ認定されていないわ」
「いまだけは自称でも構いません」
ヴェロニカの手を離し、私は自分の喉へ触れた。環の外へ出てから、余計な言葉は一つも出ていない。
「いま、あなたの証言は中断しています」
ニーナが壁の質問を示す。
「ただし、もう一度入れば、未終了の証言へ再接続する可能性があります」
「ナターリヤへ事件と無関係な質問をした者は、部屋を出たあと個別に処理します」
ヴェロニカが全員へ告げた。
「処理とは?」
組合総代が尋ねる。
「説明が必要?」
「必要ない」
ヴェロニカは証言環から半歩離れた位置で止まった。
「床の青銅文を調べたい」
それからニーナを見る。
「ナターリヤが環へ戻った場合の危険は?」
「先ほどの接続が強く戻る可能性があります。隠したことをまた勝手に話すだけで済む保証はありません。接続が深くなれば、声を失う危険も否定できません」
ヴェロニカはそこで初めて私へ向き直った。
「聞いたわね。嫌なら、別の方法を探す」
「ほかの鑑定士を呼べる?」
「緊急通報は外へ出せます。ただし封鎖中は、人も物も扉を通せません」
ニーナが扉を示す。
「外の専門家から助言を受けることはできます。でも、床そのものを触って確かめることはできません」
「武具鑑定士なら、登録印に使う金属も扱うのか」
ボリスが私を見る。
「製作者印や検査印なら、毎日のように」
「なら、現物を見る職分としてはお前が一番近い」
探偵という職業には反対するのに、武具鑑定士の職分は疑わないらしい。
「別の鑑定士を中へ入れられるまで、どれくらい?」
私はニーナに尋ねた。
「わかりません。まず異常を止め、何が起きたかを検分しなければ。無理に扉を壊せば、今日の証言記録まで失われる可能性があります。外へ連絡して、安全に開ける方法も調べさせます」
ニーナは扉へ向き、緊急通報で外へ事故を知らせた。真実官と治療師を呼ぶよう頼み、返事を待ってから戻ってくる。
ガヴリイルが今ここで残した、不正を自分の口で認める証言。消してよいものではなかった。
「調べる」
「本当に?」
「うん」
ヴェロニカは、それ以上止めなかった。ニーナへ境界の監視を頼み、自分は私が戻ってくる側で待つ。
「声が掠れたり、息が苦しくなったら、すぐ戻って」
「分かった」
証言環へ足を戻した瞬間、喉の奥へ細い糸を通されたような感覚が蘇る。
「先に全部説明してくれたのが嬉しいから、少しくらい無理をしてもいいと思っています」
口を押さえるのが遅れた。私はヴェロニカを見る。
「いまのは事件に関係ある?」
「私たちにはあるわ」
「そういう返しをされると、もっと嬉しいです」
「ナターリヤ」
「あとで言葉の意味を細くして忘れて」
「約束したから、できないわ」
証言環へしゃがみ込み、床へ埋め込まれた四つの文を追う。
『虚言を禁ず。真実を妨げず。秘匿を許す。証言は証言者に属す。』
登録枠の内側から覗き込むと、三つ目の文にだけ、押さえ板の縁からはみ出した金色が見えた。薄膜の端が、青銅文の溝へ食い込んでいる。
腰の道具入れから鑑定針を抜き、《秘匿を許す》の縁へ差し込む。青銅の上から、爪より薄い金色の膜が持ち上がった。
膜には、肯定を否定へ変える小さな古代符が刻まれている。
「《秘匿を許す》の上へ、否定符を重ねてる」
「それで《秘匿を許さず》に変わった」
ヴェロニカが環の外から答える。
嘘を禁じる部分は壊れていなかった。私が黙ろうとしたときだけ、許されるはずの秘匿を魔法が拒んだ。
「剥がしていい?」
ニーナが床の文と薄膜を見比べる。
「青銅文そのものを傷つけないように。板を少し浮かせて、改竄物だけを除去してください。質問書はまだ動かさずに」
私は片手で押さえ板を支え、鑑定針をもう少し深く入れた。薄膜を端から剥がすと、その下から元の《秘匿を許す》が現れる。紙の位置を変えないように板を戻し、金色の否定符を持ち上げた。
ニーナは四文を端から確認し、最後に鐘を見上げた。
「現在、四文とも正常です。これ以後に始める新しい証言なら、通常どおり秘匿も沈黙もできます」
ニーナに促され、金色の薄膜を持ったまま環の外へ戻った。壁の質問も、扉の封印も消えていない。
「私のは?」
「『関係を述べよ』という問いへの証言が、古い条件を持ったまま残っています。床を直しても、すでに始まった証言の記録までは書き換わりません」
ニーナは四つ目の文へ杖の先を向けた。
「あなたの同意を得て、正常な四文の下で開き直します。そこで、先ほどの返答を撤回するか、言い直して残すかを決めて、終了してください」
どうやら、私だけ宿題が残ったらしい。何を残すかは、まだ考えられそうになかった。
「その前に、これを確かめてもいい?」
剥がした薄膜を指先へ乗せる。
「《記名金》です」
「知っているの?」
ヴェロニカが尋ねる。
「武具の製作者印や登録印にも使うから。薄くしても細かい刻印が残る金属だよ」
裏返すと、表面にまっすぐ押し潰された痕があった。端の切断面だけは新しく、細い連結部が切れたような半円形の欠けも残っている。
「ずっと床にあった物じゃない。切断面はまだ新しいし、強く押しつけられてる」
「貼られた痕では?」
スヴャトスラフが尋ねる。
「違うと思う。指や道具で上から押したというより、何かに挟まれて平らに潰れてる」
ヴェロニカがニーナを見る。
「あなたは審査前に四文を確認した」
「はい。その時点では異常ありませんでした」
「なら、これが床へ来たのは、そのあと」
それでも、誰かが証言環へしゃがみ込み、金色の薄膜を貼ったところを見た者はいなかった。
「いまなら、新しい証言は安全なのね」
「通常仕様へ戻っています」
「では、確かめましょう」
ヴェロニカが、亀裂の走った透明な鐘を見上げた。




