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26.第4話後日譚➁ 星環書庫にまた行きたい


「星環書庫へ行くわよ」


 椅子の修理を終えたその日の昼前、ヴェロニカは私に薄い本を突きつけた。


 見覚えがある。星環書庫の事件で、書庫から押しつけられた本だった。


 表紙には題名がない。頁には、読む者に都合の悪い文章ばかり現れる。


「まだ返してなかったの?」


「返却箱が受け取らなかったのよ」


「いつ返しに行ったの?」


「行ってはいないわ」


「じゃあ、受け取らないか分からないでしょう」


「事件のとき、返却箱へ入れようとして拒否されたもの」


「あれは事件の途中だったからじゃない?」


「だから、正式に返しに行くのよ」


 ヴェロニカは本を外套の内側へしまった。


「一人で行けばいいでしょう」


「《双月のグリモア》は二人で読んだでしょう。同じ事件で押しつけられた本なら、返却にも二人必要かもしれないわ」


「そんな規則、書いてあった?」


「書かれていない規則が多い場所だったでしょう」


 ずいぶん都合のいい推理だった。けれど私は、それ以上断らなかった。


 星環書庫へ続く硝子橋を渡った。足元には雲が流れ、その下で王都の屋根が小さく光っている。橋の周囲には金色の文字が泳ぎ、入館者へ規則を告げていた。


【火気厳禁】


【大声禁止】


【未登録の魔導具を持ち込まないこと】


【飲食物の持ち込み禁止】


 最後の一文を読んだヴェロニカが、私を見た。


「何?」


「何か持っているでしょう」


「持ってないよ」


「いま、鞄を身体の後ろへ隠したわね」


「鑑定道具が入ってるだけ」


「なら見せて」


「私物検査は依頼に含まれていません」


「同行鑑定士が反抗的だわ」


「依頼された覚えもないけどね」


 金色の文字が私の鞄の周囲を一周した。


【蜂蜜菓子 二個】


「二個も持っているじゃない」


「朝、帰りに食べようと思って買ったの」


「一つは私の分ね」


「没収されなかったらね」


 入口の保管箱へ紙包みを預けると、ヴェロニカは名残惜しそうに二度振り返った。


 星環書庫の内部は、前に来たときと変わらず静かだった。天井の見えない書架、空中を泳ぐ索引札、誰も触れていないのに頁をめくる本。その間を、白い廊下が何本も伸びていた。


 星環書庫の廊下は、目的地を強く思い浮かべれば、そこへ最短でつながる。少なくとも、司書はそう説明していた。


「返却室を考えて」


 ヴェロニカが言った。


「考えてるよ」


「私も考えるわ」


 二人で廊下へ足を踏み入れると、白い壁に灯った文字がゆっくりと後ろへ流れていった。数十歩進んだところで前方に扉が現れ、ヴェロニカが迷いなく開けた。


 中には二人掛けの机が一つあり、壁一面の窓から硝子橋が見えた。机の上には読書灯が二つ並び、棚には魔獣の生態図鑑と古代武具の目録、それから未解決事件の記録集が収められていた。


「返却室ではないね」


「廊下が間違えたのよ」


「便利な書庫なのに?」


「便利であることと、正確であることは別でしょう」


 どこかで聞いた理屈だった。


 部屋を出て、もう一度廊下へ入った。今度は声に出して確認した。


「返却室」


「返却室よ」


「本を返す場所」


「本を手放す場所」


「少し言い方が不穏だね」


 廊下の先に別の扉が現れた。開けると、小さな休憩室だった。


 丸い卓を挟んで椅子が二脚置かれていた。卓上には湯気を立てる茶が二杯あり、壁には外へ預けた蜂蜜菓子を描いた絵が掛かっている。


 ヴェロニカが絵へ近づいた。


「嫌がらせかしら」


「考えてたんじゃない?」


「返却室のことしか考えていないわ」


 壁の絵から、金色の文字が浮かんだ。


【虚偽の申告は推奨されません】


「書庫のくせに、利用者へ無礼ね」


「前からそうだったでしょう」


 茶には手をつけず、休憩室を出た。三度目の廊下は階段へつながり、上った先には恋愛詩と恋愛指南書だけを集めた細長い書架があった。


 ヴェロニカが立ち止まった。


「これはあなたのせいね」


「どうして?」


「私は返却室を考えているもの」


「私だって考えてるよ」


 近くの本が一冊、勝手に棚から滑り出した。


『遠回しな誘いを成功させる十二の方法』


 ヴェロニカは表紙を伏せて棚へ戻した。


「内容が浅そうだわ」


「まだ開いてないでしょう」


「題名で分かるのよ」


 再び廊下へ戻った。四度目に着いたのは、最初の二人掛けの閲覧室だった。机も窓も二つの読書灯も同じで、違うのは机の中央に紙が一枚置かれていることだけだった。


【目的地が一致していません】


「一致しているわ」


 ヴェロニカが紙へ言うと、文字が書き換わった。


【申告された目的地と、希望する目的地が一致していません】


「希望も返却室よ」


【虚偽の申告は推奨されません】


 ヴェロニカは紙を裏返した。裏側にも同じ文章があった。


「燃やしていい?」


「火気厳禁だよ」


「では、破るわ」


「書庫の備品でしょう」


「誰の味方なの?」


「規則の味方」


「つまらない人ね」


 そう言いながらも、ヴェロニカは紙を破らなかった。私たちは二人掛けの机へ向かい合って座った。


 本を返すだけなら、これほど迷うはずがない。


 廊下は間違っていなかった。


 私たちが、目的地を正しく伝えていないだけだ。


「ヴェロニカ」


「何?」


「本を返したあと、どうするつもりだったの?」


「事務所へ戻るわ」


 机の紙に文字が浮かんだ。


【虚偽】


「書庫へ質問した覚えはないわ」


「じゃあ、本当は?」


「一般閲覧区を確認する必要はあるでしょう。事件のときは、調査対象しか見られなかったもの」


「何を見るの?」


「未解決事件の記録。禁制魔導具の目録。失われた職業についての文献もあるかもしれないわ」


「さっきの魔獣図鑑は?」


「あなたが読むかと思っただけよ」


「私のため?」


「同行者が退屈すると、調査効率が落ちるでしょう」


 紙に文字は出なかった。嘘ではないらしい。ただし、全部でもなさそうだった。


「私はね」


 ヴェロニカが警戒するように目を細めた。


「本を返したあと、普通に書庫を見て回りたい」


「普通に?」


「事件を調べるんじゃなくて、読みたい本を探したり、知らない部屋へ行ったりするの」


「時間の浪費ね」


「じゃあ帰る?」


 返事はなかった。


 窓の外では、硝子橋の周囲を金色の文字が流れていた。ヴェロニカは机の上へ指を置き、意味もなく木目をなぞった。


「……帰る必要はないわ」


「どうして?」


「ここまで来たのだから、書庫の構造を把握しておくべきでしょう」


「それだけ?」


「質問が多いわね」


「答えてないからでしょう」


 ヴェロニカは顔を上げた。逃げ道を探すように視線が動いたけれど、今回は私の襟を引かなかった。


「事件ではないときに」


 声が少しだけ小さくなった。


「あなたと、もう一度来てみたかったの」


 机の上の紙から文字が消え、代わりに部屋の奥の壁へ新しい扉が現れた。扉には、銀色の文字で【返却室】と書かれていた。


「最初からそう言えばよかったのに」


「断られる可能性があったでしょう」


「返却を理由にしても、断るときは断るよ」


「では、今回は?」


「もう来てるでしょう」


 ヴェロニカは少し考えた。


「論理的ではないわね」


「ヴェロニカに言われたくないよ」


 返却室には、壁と同じ高さの返却箱が一つあるだけだった。ヴェロニカが薄い本を差し入れると、一度、箱の中から押し戻された。


「まだ何かあるの?」


 箱の表面へ文字が浮かんだ。


【返却理由を選択してください】


【不要になった】


【読了した】


【内容に同意できない】


【再読の必要がなくなった】


 ヴェロニカは迷わず、【内容に同意できない】へ触れた。


 本は今度こそ箱の中へ吸い込まれた。


【返却完了】


「読了ではないんだ」


「最後まで読んだことと、納得したことは別よ」


「何が書いてあったの?」


「忘れたわ」


 返却箱に文字が浮かんだ。


【虚偽の申告は推奨されません】


 ヴェロニカは箱へ背を向けた。


「本は返したわ。行きましょう」


「どこへ?」


「魔獣図鑑の閲覧室」


「未解決事件の記録じゃなくて?」


「先にあなたの用事を済ませた方が効率的でしょう」


 部屋を出ると、廊下は一度も迷わなかった。魔獣図鑑の書架へ行き、古代武具の目録も開いた。帰ろうとした頃には、書庫の窓の向こうが夕焼けに染まっていた。


 入口へ続く廊下へ入った。今度はまっすぐ帰れると思ったが、途中の壁に見覚えのない扉が一つ増えていた。開けると、その向こうにあったのは、最初に何度も着いた二人掛けの閲覧室だった。


 机の上には、新しい予約票が置かれていた。


【二名閲覧室】


【次回予約可】


 私が予約票を取った。


「持って帰るの?」


「次に予約するため」


「いつ?」


「また行きたくなったとき」


「ずいぶん曖昧な予定ね」


 そう言いながら、ヴェロニカは予約票を私の鞄へしまった。


 二名閲覧室を出たあと、入口の保管箱から蜂蜜菓子を受け取った。


 本を返すことには成功した。


 次に星環書庫へ来る理由まで、返す必要はないらしかった。

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