24.第4話④ 無職探偵と読めないだけのグリモア
ヴェロニカの声に反応して、銀の内側で固い物が外れる音がした。
ページの右半分へ鮮明な文字が浮かぶ。
次は私だった。
大神殿の客舎で過ごした四日間を思い返す。左手が痛むたび腹が立った。ヴェロニカの顔を思い出せば、もっと腹が立つ。それなのに夕食の時間になると、二人分の皿を出しそうになった。
事務所へ戻りたかった。
謝られたいとも思っていた。
けれど、謝られたら簡単に許してしまいそうで、それが怖かった。
「私も、戻りたかった」
指の下で、左の留め金が温度を持つ。
「でも、何もなかったみたいに戻ったら、また同じことになると思った。あなたが説明して、私が納得できないまま諦めて、それで終わるのが嫌だった」
月の光が手袋の周囲へ集まった。
「謝ってほしかった。でも、謝られたら許したくなる自分も嫌だった。だから、会わない方がいいと思った」
「いまは?」
「まだ全部は許してない」
「ええ」
「これから同じことをしないかも、私が見て決める」
「ええ」
ヴェロニカは言い直さなかった。
「それでも、一緒にいたい」
左の留め金が開く。
二つの月がページの上で重なり、欠けていた文章が一つになった。
『二つの声が重なるとき、奪われた息は戻る。ひとりで得た言葉を捨て、相手の言葉をそのまま受け取れ』
「読むわよ」
ヴェロニカが言った。
「一緒に?」
「あなたがいいなら」
「読む」
二人で同じ文章を声にする。
最初の一語が重なった瞬間、閲覧室を覆っていた黒い文字が止まった。羽虫の形を失い、墨の雨となってページへ吸い込まれていく。
騎士たちの口元から奪われた白い息が戻り、天井の月も再び輝き始めた。環状書架をつないでいた光鎖が低く鳴り、最後の文字を飲み込んだグリモアは、自分で表紙を閉じる。
留め金から手が離れた。
「読めたね」
「ええ。一人分しか読んでいなかっただけよ」
* * *
イリーナの修復塔からは、本人が話したとおり、禁書より抜き取った複製紙が十三枚見つかった。
黒漆板と共鳴月銀の片割れは犯行の証拠として封じられ、転写紙へ写した文字も記録として保管された。
タチアナの研究頁は本人へ返され、発表には二人の名が記されることになった。オレグも封印を私的に弱めた責任を問われたが、殺人への関与はない。
弟の声を呼ぶ試みについて、彼はもう一度申請を出すと言った。今度は、生きている二人目の読者を探してから。
《双月のグリモア》は、左右の留め金を死銀へ戻すまで、七本の鎖で封じられた。
「今回こそ完全な封印だ」
スヴャトスラフが言う。
「その台詞、以前も聞いた気がするわ」
「今回は書庫の専門家が確認した」
「前回は神殿の専門家が確認していたわね」
「黙れ」
ヴェロニカは言い返しかけ、こちらを見て一度止まった。
「何?」
「いまのは、言っても問題のない場面か確認しただけ」
「私に毎回許可を取らなくていいよ」
「基準がまだ不明確なの」
「普通に考えて」
「最も難しい指示ね」
久しぶりに少しだけ笑った。
ヴェロニカも口元を緩めたが、それ以上は続けなかった。
* * *
事件が片づいたあと、私たちは星環書庫の正門へ向かった。
謝罪を聞き、本も閉じた。それでも、四日前までと同じ場所へ戻ったわけではない。
「謝ったから、すぐ元に戻れると思わないで」
「思っていないわ」
「事件の中で言わされたから、謝ったとも思いたくない」
「ええ」
ヴェロニカは歩みを止めた。
正門の先では、夜の硝子橋が風に揺れている。踏み出す者がいなければ、硝子色の足場も現れない。
「本がなくても、もう一度言うわ」
彼女の手には、何の留め金も触れていない。黒い文字も、真実を要求する二つの月もなかった。
「ごめんなさい。あなたへ説明せず、危険を選ぶ権利を奪ったことを、私は間違っていたと思っている」
今度は、銀の音も光も返らない。
それでもヴェロニカは続けた。
「紙にも書くの?」
「書くわ。今度は報告書ではなく」
「別紙は?」
「必要なら」
「十二枚は多いよ」
「まだ枚数を言っていないわ」
「顔に書いてある」
ヴェロニカは反論しかけ、やめた。
「紙鳥が最初に『死者一名』と言ったとき、あなたの顔が浮かんだ。客舎にいるとわかっていたのに、別の名前を聞くまで息ができなかった」
「私だと思ったの?」
「思ったのではないわ。考えるより先に、そう感じた」
言い直してから、彼女は首を振った。
「これも意味を細くしているわね。怖かった。あなたが死んだのかもしれないと思って、怖かった」
「まだ全部は許してないよ」
「わかっている」
「でも、本の中で言ったことは嘘じゃない」
「戻りたいということ?」
「それも」
ヴェロニカは一度息を吸った。言葉を選んではいるが、都合のいい定義を探している顔ではなかった。
「事務所へ戻ってきてほしい」
「助手として?」
「違うわ」
「椅子が壊れたから?」
「それも困っているけれど、違う」
右側だけ研がれた小刀も、木片を挟んだままの椅子も、事務所で途中の続きを待っている。
「恋人として戻ってきてほしい」
橋の下で、光鎖が低く鳴る。
すぐには答えなかった。
「勝手に私の予定を決めないこと」
「ええ」
「危険なことは、先に全部言うこと」
「ええ」
「私が嫌だと言ったら、別の方法を探すこと」
「探すわ」
「言葉の意味を細くしないこと」
「努力ではなく、約束するわ」
「じゃあ、戻る」
「事務所へ?」
「恋人として」
ヴェロニカは口を開いたまま、しばらく息さえ継がなかった。
「何か言わないの?」
「いま、最適な返事を――」
「考えなくていいよ」
外套の襟を引き、こちらから唇を重ねる。
今回は黙らせるためではない。
離れたあとも、ヴェロニカは珍しく一度も言葉を挟まなかった。
硝子橋へ踏み出そうとした私へ、しばらくして声がかかる。
「隣を歩いても?」
「いいよ」
二人で並ぶと、硝子の足場は一人分より少し広くなった。
帰り着くまで、その幅が狭まることはなかった。




