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23.第4話③ 無職探偵と読めないだけのグリモア

タチアナの指示で、黒い文字を封じる鏡布と鎖が用意された。開いた本は動かさず、ヴェロニカが死銀側の留め金を布越しに押さえる。


「私がここにいる必要はないよ」


「暴れたとき、本が閉じる方向へ力をかける人間が要る」


「息を取られるかもしれない」


「あなたが離せと言ったら離す」


「本当に?」


「約束する」


私は左の留め金へ弓を当て、ゆっくり引いた。月銀の音が七つの書架を巡り、鎖や留め具をかすかに震わせながら薄れていく。


消える寸前、イリーナの左手から音が返った。革手袋の下から響いたのは、留め金とまったく同じ音だ。


イリーナは反射的に左手を背中へ隠した。騎士たちが動く。


「そのまま」


私は動きかけた騎士たちを制した。


「手は離さないで。何を持ってるかだけ見る」


スヴャトスラフが頷き、騎士がイリーナの手首を押さえた。革手袋だけを縦に切り開く。


指には銀製の修復用指貫がはめられ、その内側へ半月形の金属片が埋め込まれていた。


月銀は皮膚へ食い込み、指の付け根へ赤い輪を残している。


「文字を本へ返さないためね」


ヴェロニカが指貫を見つめた。


「片割れを手放せば、あなたに見えていた半分がページへ戻り始める。キリル側の断片と揃えば、《息奪いの一節》が残る。殺し方まで分かってしまう。遠くへ捨てれば、本そのものが暴れる。だから昨夜からずっと、皮膚へ触れさせていた」


「修復塔の保管箱へ入れたと言ったわね」


「誰かに入れ替えられたのよ」


イリーナが、手首を押さえられたまま否定した。


「指の傷まで?」


「私が見つけ、回収しただけです」


「それなら、すぐ報告できたでしょう」


タチアナが、その右手を見た。


「黒い染みがついているわ」


爪の間へ、銀粉を含んだ黒い塗料が入り込んでいた。修復塔で文字を映す黒漆と同じものだった。


「修復塔を調べろ」


スヴャトスラフが騎士を走らせる。


戻ってきた騎士が持っていたのは、黒漆板だった。表面には半月形の押し跡が残り、その周囲へ銀色の文字が凍りついている。


『――声を捨てよ』


『――息は書となる』


キリルの前へ現れなかった、もう半分の文章だった。


タチアナは修復用の薄い転写紙を板へ重ね、文字を写し取った。それをグリモアに残るキリル側の文字列と同じ行へ合わせる。


紙を横へずらすと、頁の空白へ転写された文字が収まり、左右に分かれていた一節が一つにつながった。


「《息奪いの一節》になる」


タチアナが、重ねた転写紙を押さえながら続けた。


「キリルが死んだあとも、欠片から指を離さず、板から指貫へ移した。だから半分が本へ戻らなかった」


「でも、イリーナも同じ本を読んでいたんだよね」


ヴェロニカが転写紙を指した。


「読んでいただけよ」


「《息奪い》が奪うのは、断片を読んだ人間ではない。左右をつないだ完成文を声にした人間の呼吸。イリーナは自分側の半分を読めるし、キリルへ伝えることもできる」


「伝えたら、自分も声にしてることにならない?」


「半分だけなら発動しません」


タチアナが、つながった一節を指で示して答えた。


「完成した一節を声にした者だけです」


「あなたは部屋の外から二人目の読者になり、キリルと真実を一つずつ告げた。そのあと、本当に見えた半分をキリルへ伝えた」


ヴェロニカはイリーナへ向き直った。


「あなたが偽ったのは、文章じゃない」


イリーナの右手がわずかに強張った。


「黒漆板に出た本物の半分を、そのまま月銀越しにキリルへ伝えた。ただし、それをつないで声にしても安全だと嘘をついた」


「完成すれば《息奪いの一節》になると、分かっていたの?」


私が訊くと、イリーナは黒漆板へ目を落とした。


「修復師です」


「この頁が文章をどう左右へ分けるかは、修復と実験で何度も見ています。キリル側へ出る断片も知っていた。昨夜、自分側にこの半分が出た時点で、つなげれば《息奪いの一節》になると分かりました」


「それでも伝えた」


「彼が命じたのよ」


声はかすれていた。


「一人で開ける方法を作れと。禁書の複製紙を無断で抜き取ったことを王家へ話されたくなければ、従えと言われた」


「三枚?」


ヴェロニカが訊くと、イリーナは一度目を閉じた。


「十三枚です。キリルは三枚だと思っていた。それを、本へ差し出す私の真実にした」


さっき見た台帳を思い出した。正式な複製紙は三枚。それだけでは、使った紙と墨の量が合わなかった。


「キリルは何を差し出した?」


「タチアナの名を研究から消したことです」


タチアナの指が、転写紙の上で止まった。


「仕掛けが完成すれば、終わる約束だった?」


「そう思っていました。でも昨夜、次の禁書にも使うと言われた。成功しても、あの人は私を手放すつもりがなかった」


「だから、完成文が危険だと知りながら、安全だと伝えた」


イリーナは頷いた。


「それだけじゃない。本を壊す人間だけが名を残す。直した人間は台帳の端へ名前を置かれるだけ」


視線が、夜蚕の糸で綴じられた背へ向かう。


「この本の背を直したのは私です。三度、糸を選び直しました。それでも年報へ載るのはキリルの名前。タチアナの研究も、私の仕事も、あの男は自分の頁へ綴じるつもりだった」


誰もすぐには答えなかった。スヴャトスラフが先に息を吐く。


「月銀は証拠として外す。だが、急に接続は切れないんだったな」


「はい」


タチアナは開いた本を見ながら答えた。


「まず左右を安定させて、対片から少しずつ皮膚を離してください」


ヴェロニカは右の死銀側を布越しに押さえたまま、私は左の共鳴月銀側へ立つ。


「私がこっち?」


「改造された方でしょう。あなたの仕事よ」


「それなら分かる」


左の留め金を布越しに押さえる。さっき弓で鳴らしたときより、銀は冷たかった。


騎士がイリーナの左手を固定し、切り開いた手袋をさらに広げる。


「指貫の中で、かなりきつく噛んでる」


私は横から覗き込んだ。


「無理に引かないで。少しずつ」


左の留め金を片手で押さえたまま、もう片方の手で細い工具を指貫の縁へ入れた。


月銀の半月が、ほんの少しだけ皮膚から浮いた。


開いた頁で、欠けていた文字が一つ戻る。


「本当に戻った」


「そのまま」


ヴェロニカが右の留め金を押さえたまま言った。


もう少し。


半月片が指貫から半分ほど抜けたところで、縁に白い筋が見えた。


「止めて」


言い終わる前に、細い音がした。


白い筋が伸びる。


半月形の月銀が、二つに割れた。


「書庫中を巻き込むつもりはなかった!」


イリーナ自身も、広がった光を見て息を呑んだ。


耳を刺す音が書庫全体へ走る。


欠けていた文章が一気にページへ戻った。


「読まないで!」


タチアナが叫ぶ。


《双月のグリモア》のページが、風もないのに激しくめくれ始めた。戻った文字は文章の形を保てずに溢れ出し、人の指ほどの羽虫へ姿を変える。


最初の一匹が騎士の兜へぶつかった。


鏡面へ『息』の文字が広がり、兜の内側から苦しげな声が漏れる。


「全員、口を覆って!」


「古い接続が切れた! 本が、終わっていない読書を周りの呼吸で補おうとしています!」


黒い文字が室内を飛び交い、触れた者の口元から白い息を引き抜いていく。書架の本まで悲鳴を上げ、鎖につながれた禁書が一斉に表紙を閉じた。


右の留め金を押さえていたヴェロニカの手が動かない。


私も左から手を離そうとしたが、手袋が銀へ貼りついていた。


「離れられない」


「こちらもよ」


ページの中央へ、二つの月が浮かび上がる。


『互いに知らぬ真実を』


片方の月に文字が現れ、もう片方へ続いた。


『一つずつ捧げよ』


「新しい読者にされた」


私が言うと、タチアナが口元を布で覆ったまま頷いた。


「左右へ触れていた二人です。これは《息奪い》ではありません。接続を立て直すための文章です。条件を満たしてください!」


イリーナは騎士に押さえられていた。動機も方法も明らかになっている。


それでも、本は閉じない。


左のページへ文章の半分が浮かび、残りは空白のままだった。


『二つの――重なるとき』


「こっちは『二つの』と『重なるとき』」


向かいから、ヴェロニカが答える。


「私には『声が』と『奪われた息は戻る』」


「合わせれば、『二つの声が重なるとき、奪われた息は戻る』」


さらに下へ新しい文字が現れた。


『先に真実を』


黒い文字の群れは天井を覆い、七つの月を半分以上隠している。騎士たちの息は短くなり、タチアナも立っているのがやっとだった。


「適当な秘密でもいい?」


「本が、私の知らない真実だと認めれば」


「昨日、神殿の食堂で甘いパンを二つ食べた」


留め金は動かない。


「知っているわ」


「どうして?」


「神殿の食堂へ行ったから」


「会いに来たの?」


「客舎の入口まで行って、引き返した」


「どうして入らなかったの」


「一人にしてと言われたから」


「それは四日前の話でしょう」


「期限を言われていないもの」


「こういうときだけ言葉をそのまま守るの?」


留め金は震えなかった。問いに答えただけでは、自分から差し出した真実とは認められないらしい。


「守ったのではないわ」


ヴェロニカの指が、右の留め金へ強く食い込む。


黒い文字が肩へ触れ、白い息を細く引き抜いた。顔色が変わっても、彼女は目を逸らさない。


「拒まれるのが怖くて、守っていることにした」


右の月へ、淡い輪郭が戻る。


「あなたがいなくなって、寂しかった」


まだ留め金は開かない。


「事務所が静かだったからではない。仕事が進まなかったからでも、食事が余ったからでもないわ」


いつもなら、このあたりで何かを誤魔化したはずだった。


ヴェロニカは続ける。


「あなたがいなかったから、寂しかった」


月の光が強くなる。


「地下であなたの腕を見たとき、初めて間違えたと思ったわけではない。もっと前から、何かを間違えているとはわかっていた。でも、謝れば自分が悪かったと認めることになるから、説明で済ませようとした」


黒い文字が外套の裾を夜の色へ染めていく。


「あなたが傷ついたことを、事件が解けたという結果で小さく扱った。あなたなら避けられると決め、危険を受け入れるかどうかまで私が選んだ」


右の留め金が震える。


「ごめんなさい、ナターリヤ」

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