22.第4話➁ 無職探偵と読めないだけのグリモア
使いが大神殿へ向かっている間、ヴェロニカは一人で書庫を歩いた。
星環書庫の通路は、読む者の考えへ反応する。答えを探す者の前では書架が近づき、忘れたい者の前では同じ道が何度も繰り返されるという。
三度、同じ青い扉の前へ戻ってきた。
扉には金文字で、
『謝罪と弁明の違い』
と刻まれている。
「余計なお世話よ」
取っ手へ触れると、扉は内側から鍵をかけた。
別の道へ入ると、足元へ返却箱が滑ってきた。蓋が開き、中から一冊の薄い本を吐き出す。
表紙には題名がない。勝手に開いた頁へ、金色の文章が浮かんだ。
『相手のために黙ることと、自分のために黙ることは、見た目がよく似ている』
「哲学書でしょう」
返却箱の側面へ、新しい分類札が浮かぶ。
『自己欺瞞』
「分類が細かすぎるわ」
本を閉じ、箱へ戻した。
箱は一度蓋を閉じたあと、もう一度開き、同じ本をヴェロニカの靴の上へ載せた。
『未返却』
「借りた覚えはないのだけれど」
返却箱はそれだけ示し、廊下の奥へ滑っていった。
ヴェロニカは薄い本を拾い上げた。
足元へ止まった目録蛾の羽には、
『一人で正しく間違える方法』
という題名が浮かんでいた。
踏みそうになり、やめる。
ナターリヤなら、虫に罪はないと言うだろう。
壁際の長椅子へ腰を下ろした。隣には依頼人も騎士も、皮肉を返す相手もいない。星環書庫はひどく広く、事務所も同じだった。
椅子が壊れているから静かなのではない。小刀が研がれていないからでも、二人分のパンが余るからでもなかった。
ナターリヤがいない。
理由を細かく分けても、最後にはそれだけが残る。
外套の内側から、折り畳んだ紙を取り出した。
『ナターリヤへ』
その下は空白のままである。
羽根ペンを持ってきていない。たとえ持っていたとしても、ここで書けたかはわからない。
遠くから階段の軋む音が響いた。誰かが硝子橋を渡ってくる。
ヴェロニカは紙をしまい、薄い本を持ったまま正門へ向かった。
* * *
「ナターリヤ、頼みがある」
客舎まで来たスヴャトスラフは、私へ書面を差し出した。
「彼女の名ではなく、騎士団の仕事として頼む」
「ヴェロニカが呼んだんじゃないの?」
「断っても構わない。ヴェロニカがそう言った」
「そう」
「金属の鑑定が必要だ」
仕事は手伝うことにした。
養生院のことが終わったわけではない。それでも、ヴェロニカが私の選択を先に残したことは、受け取ってよいと思った。
* * *
私が星環書庫へ着いたとき、ヴェロニカは正門の少し内側に立っていた。
迎えに来たようにも、偶然そこにいたようにも見える位置だった。外套の襟はいつも通り整っている。けれど目の下には薄い影があり、右手の指先へ乾いた墨が残っていた。片手には、事件と関係があるようには見えない薄い本を持っている。
「来たのね」
「スヴャトスラフに呼ばれたから」
「そう」
「仕事は手伝う」
「ええ」
「でも、養生院のことが終わったわけじゃないから」
ヴェロニカは一度だけ頷いた。
「わかっているわ」
言い訳も冗談もなかった。
その方が、かえって何を言えばいいのかわからなくなる。
スヴャトスラフから事件の概要を聞き、閲覧室へ向かった。二人でなければ開かない本。密室へ入ったのは一人。外部から魔力が使われた記録もない。
「留め金を見てほしい」
扉の前で、ヴェロニカが言った。
「左右で音が違う。材質か構造に差があると思う。ただし、開いたページには呪文が残っている可能性があるわ。タチアナによれば、接続中の読者を無理に切れば、周囲の呼吸が奪われる」
「わかった」
「手袋は?」
「持ってる」
「石化した方の手は、もう痛まない?」
左手へ視線が向けられ、反射的に袖を引いた。
「仕事には問題ない」
「問題が出たら、すぐ止めて。続けるかどうかはあなたが決めて」
ヴェロニカは扉を開け、こちらが入るまで待っている。
キリルの遺体には布が掛けられ、閲覧室の壁際へ移されていた。黒い文字だけが床や机の周囲を漂い、ときどき人の息に似た音を立てている。
中央の机へ《双月のグリモア》が開かれたまま置かれていた。
「これが?」
「ええ。一人では読めないはずの本よ」
左右の留め金へ顔を近づける。
一見すれば、どちらも古い銀だった。けれど表面の曇り方が違う。右は鈍く曇り、左は月明かりを細く押し返していた。
手袋越しに右を弾く。
音はすぐ消える。
左へ同じことをすると、甲高い余韻が指の骨まで残った。縁を鑑定針で軽くこすると、白い粉が少しだけ落ちる。月光へかざすと、水滴のように丸まり、針の先で震え始めた。
「右は《死銀》。左は《共鳴月銀》だと思う」
「共鳴月銀?」
「同じ塊から割った二片が、離れていても互いの音や触れた感覚を伝える銀。死銀は魔力を通さず、振動もすぐ吸うけど、こっちは逆に伝える」
ヴェロニカが左の留め金を見た。
「片割れに触れれば、こっちの留め金にも触れたことになる?」
「少なくとも、金属はそう振る舞う」
開いたグリモアへ、ヴェロニカの視線が移る。
「本がその接触を二人目として数えたなら――」
「部屋に入らなくても、読者になれる」
「結界へ記録されなかった理由は?」
「月銀同士が伝えてるだけだから。外から魔力を飛ばしてるわけじゃない」
「なら、結界が数える外部魔力には残らない」
記録は正しい。解釈する側が、二つに分かれた金属を別物だと思い込んでいた。
「二人目は、部屋の外にいた」
「その可能性が高いと思う」
「文章はどうやって読んだの?」
「留め金へ出た文字の光も伝わる。片割れを黒い板へ押し当てれば、向こう側の文字が板へ浮かぶはず」
「声も送れる?」
「月銀の片割れを薄い板にしてあれば」
「つまり、本の右側にはキリル。左側には、部屋の外にいる誰か。月銀が、その間だけをつないでいたのね。本から見れば、左の留め金の向こう側に二人目がいる」
「そういうこと」
「ほかに確かめることは?」
「対の欠片がどこにあるか。左の留め金がいつ交換されたか。誰が片割れへ触れられたか。そこまで見ないと決められない」
「わかった」
素直に返され、思わず顔を見た。
「何?」
「前なら、『それ以外にないわ』って言ってたから」
「前の私なら、そう言ったかもしれない」
「いまは?」
「あなたの鑑定が終わるまで待つ」
左の留め金の付け根には、古い傷に重なる新しい鑢跡が残っていた。削り口の銀はまだ白い。
「交換されたのは最近。三日前くらいかな」
「最後に修復したのはイリーナね」
「交換した人と、殺しに使った人が同じとは限らないよ」
「ええ」
ヴェロニカは、それ以上イリーナの名を口にしなかった。
* * *
第七禁書閲覧室へ、タチアナ、オレグ、イリーナと騎士たちが集められた。
天井の代わりに、満ち欠けの違う七つの月が浮かんでいる。そのさらに上を巨大な書架が環状に巡り、頁のめくれる音が遠い波のように降ってきた。
「部屋の外にいた二人目を探す。昨夜、三人が何をしていたか、もう一度確認するわ」
タチアナが持ち出した研究頁を机へ並べる。
同じ頁の余白に二人分の筆跡が入り、片方の訂正へもう片方が書き足している。共同で研究していたことは、署名を見なくても分かった。ところが、発表用に清書された頁では、タチアナの名前だけが削られていた。
ヴェロニカが、そのうちの一枚を持ち上げた。
「昨夜、持ち出したのはこれ?」
「自分の頁を取り戻しただけです」
「昨夜、廊下であなたの声を聞いた者がいるわ」
ヴェロニカは書庫番の証言書を開いた。
「『私の名を消すなら、あなたの名も本から消す』」
タチアナは書類へ目を落としたまま答えない。
「殺すという意味だった?」
「研究史から消すという意味です」
「キリルには、そう伝えた?」
「説明する前に扉を閉められました」
「なら、彼がどう受け取ったかはわからないわね」
「ええ」
オレグが封印を弱めた時刻も、記録板には残っていた。月鐘八つ半、閲覧室の外壁だけが、音を通す状態へ変えられている。
「何を聞くつもりだった?」
スヴャトスラフが問い詰めた。
「死者の声だ」
オレグはようやく鍵束から手を離した。
「私の弟は、三年前に北境で死んだ。キリルは、この本を使えば、弟の声を文字として呼び戻せると言った」
「それで封印を緩めた?」
「彼と一緒に開く約束だった。だが直前になって、研究にならない感傷へ付き合う暇はないと断られた」
オレグは、二つの月が浮かぶグリモアを見た。
「けれど、この本は一人では開かない。生きている誰かと向かい合って、互いに知らない真実を差し出さなければならない。キリルは引き受けてくれた。だから彼と開くつもりだった」
「ほかの人では駄目だった?」
オレグはしばらく答えなかった。
「そんな相手がいるなら、最初から死者へ話しかけようとはしなかった」
誰もすぐには返さなかった。
「それでも、音を通したままにした」
ヴェロニカが言った。
「キリルが、一人で開く方法を見つけたと言ったからだ。最後に完成した文章を声にするなら、壁越しでも成功したかは分かる。成功したら、私にも使わせると」
「信じたの?」
「信じたかった」
オレグが変えたのは、外壁が音を通すかどうかだけだった。月銀の片割れへ触れたかどうかは、まだ別に調べる必要がある。
次に、イリーナが修復台帳を開いた。
「左の留め金を月銀へ交換したのは私です」
「先ほどは、両方とも死銀で直したと言ったわね」
「正式な手続きを通していない実験だったからです」
「キリルの指示は?」
イリーナは台帳の間から一枚の紙を抜き、机へ置いた。末尾にキリルの署名がある。
「ありました。遠隔筆写の実験だと説明されました」
「遠隔筆写?」
「離れた場所から、片側の文章を写すための実験です。終われば、留め金は死銀へ戻す予定でした」
指示書の端には、キリル自身の字で追記がある。
『閲覧者は室内の一名のみとする。外部操作者は読者ではなく、開封機構の一部として扱うこと』
「機構の一部」
私が読み上げると、ヴェロニカの目が細くなった。イリーナの指も、台帳の端で止まった。
「本にとっては二人目の読者でも、キリルの書類では『機構の一部』。月銀の向こうにいる人間を、自分が一人で本を開くための道具として扱ったのね」
イリーナは返事をしなかった。
「遠隔筆写なら、写した紙の記録も残るでしょう」
ヴェロニカが修復台帳へ目を戻した。
「同じ実験で作った複製紙は三枚?」
「記録では、そうなっています」
「紙と墨の使用量は?」
ヴェロニカが頁を一枚戻した。使用量の欄だけを見ると、三枚分より少し多い。
「試し刷りや失敗分もあります」
「なら、追加で何枚作られたかまでは決められないわね」
ヴェロニカは使用量の欄へ指を置いた。
「でも、三枚の完成品だけでは、この紙と墨は使い切らない。そこは残るわ」
ヴェロニカは台帳をイリーナへ戻した。
「対になる片割れは?」
「修復塔の保管箱へ入れました。共用の鍵です」
「入れる者は?」
スヴャトスラフが訊いた。
「私のほか、タチアナとオレグです」
「つまり、三人ともか」
「ずいぶん公平な保管箱ね」
「感心するな」
「していないわ」
スヴャトスラフが記録を確かめた。タチアナは資料の拓本を取るため、事件前日の午後に修復塔へ入っている。オレグも事件の夜、塔を通る結界線を点検していた。
私は開いた《双月のグリモア》を見た。欠けた側の文章は、最初に見たときから頁へ戻っていない。
「この欠けた半分、まだ外の読者側に残ってるってこと?」
「そうです。対片へ触れなくなれば、向こう側へ引かれていた文字は少しずつ頁へ戻ります」
タチアナが答えた。
「でも、戻ってない」
「ええ。対片を急に遠ざけたり、接続を完全に切ったりすれば、本が不足した読者を補おうとする危険もあります」
「じゃあ、片割れはまだ近くにあるだけじゃない。誰かが触れ続けてる可能性が高い」
ヴェロニカが三人を見渡した。
「手放せば文字が戻る。遠くへ捨てれば、本が暴れる」
「つまり、使った人はまだ持ってる?」
「持っているだけじゃない。触れ続けている可能性が高いわ」
スヴャトスラフが三人へ向き直った。
「なら、所持品を調べる」
「待って」
私は先に止めた。
「いま誰かが触ってるなら、無理に離させたら本が暴れるんでしょ」
「その危険があります」
タチアナが答えた。
「じゃあ、触らずに確かめる」
私は共鳴月銀の留め金へ細い弓を当てた。
「同じ塊から割った片割れなら、全く同じ音で答える。いま誰かが身につけてるなら、探さなくても向こうから答えるよ」
「危険は?」
ヴェロニカが訊いた。
「接続を切らず、弱く鳴らすだけなら大丈夫だと思う。ただ、本が反応する可能性はある」
「やめる?」
「対の欠片を一つずつ探すより早い」
「早さを訊いているのではないわ」
皆の前でも、ヴェロニカは待った。
「やる」
「わかった」
以前と同じ言葉でも、今度は私が選んだあとに続いた。




