21.第4話① 無職探偵と読めないだけのグリモア
ナターリヤが事務所へ戻らなくなって四日目の夕刻、王立獣舎から戻ったヴェロニカは、外套の襟を直しながら言った。
「出るわよ」
返事がないことへ気づくまで、三歩かかった。窓際の机には、研ぎかけの食事用小刀が一本残されている。右側だけ刃が整い、左側には細かな欠けが並んだままだった。
背もたれの緩んだ椅子も、片方の脚へ木片を挟んだところで止まっている。いなくなってから二度転びかけ、三度目には蜂蜜菓子まで床へ落としたが、ヴェロニカはまだ自分で直していなかった。
ナターリヤの仕事を勝手に取れば、また怒られるかもしれない。
そう考えて残してある。
少なくとも、そういうことにしていた。
机の中央には、書き損じた紙が重なっている。
『旧治療区画における判断について』
『囮作戦に伴う危険評価の訂正』
『今後の共同捜査における情報共有手順』
どの紙にも、判断の根拠と再発防止策は細かく記されていた。肝心の一言だけ、どこにもない。
新しい紙を引き寄せ、羽根ペンへ墨を含ませる。
『ナターリヤへ』
そこまで書いたところで、指が止まった。
ごめんなさい。
たった六文字である。古代北方語より短く、神殿の祝詞より発音しやすい。意味も使い方も知っている。
なのに、紙へ置こうとすると、その六文字だけがどの言葉より重くなる。
「非合理的ね」
向かいの椅子へ言ってから、返事を待っている自分に気づいた。
ナターリヤは養生院を出たあと、左腕の療養を理由に大神殿の客舎へ移っている。怪我が治れば戻るとは言わず、戻らないとも言わなかった。
『今日は一人にして』
最後に聞いた言葉を、ヴェロニカは守っていた。
一人にしてほしい相手を追いかけ、話を聞けと迫るのは、相手の選択を奪う行為だ。だから、客舎の扉は叩かなかった。以前の失敗を繰り返さないための慎重さであり、配慮であり、正しい判断だった。
謝って拒まれるのが怖かったからではない。
書きかけの紙を裏返したところで、窓硝子を叩く音が響いた。
黒い紙で折られた鳥が、嘴を窓枠へ打ちつけている。片目には青い封蝋、もう片方には星環書庫の印が押されていた。
窓を開けた途端、紙鳥は室内へ飛び込み、机の上へ着地する。
「死者一名」
ナターリヤの顔が浮かんだ。
指先から血の気が引き、羽根ペンが机へ落ちる。
大神殿の客舎にいる。左腕の傷も命に関わるものではない。紙鳥が運んできた知らせと、ナターリヤを結びつける理由など一つもなかった。
それでも、別の名前を告げられるまでは息が戻らない。
「禁書一冊。読者一人。至急、探偵を求む」
紙鳥は何事もなかったように続けた。
「場所は?」
「《星環書庫》、第七禁書閲覧室」
ヴェロニカの胸へ、遅れて空気が入ってくる。
「依頼料は?」
「至急、探偵を求む」
「質問へ答える能力が低いわね」
「死者一名。禁書一冊。読者一人」
「値段の話をしているの」
同じ言葉を繰り返していた紙鳥は、やがて机の上で煙を上げ始めた。窓から放ると、火の粉を散らしながら王都の空へ消えていく。
事務所の鍵を閉め、通りへ出た。
机から落ちた羽根ペンは、拾わなかった。
いつもなら、角を曲がったところで忘れ物へ気づく。ナターリヤが後ろから呼び止め、鍵か手袋か、ひどいときには依頼書そのものを差し出してきた。
今日は誰も来ない。
一度だけ閉じた窓を見上げ、ヴェロニカは歩き出した。
「帰ったら、続きを書くわ」
何の続きかは、口にしなかった。
* * *
《星環書庫》は、王都を流れる大河の上空に浮かんでいた。
巨大な環状建築を七本の光鎖が吊っていた。その周囲を、月の満ち欠けに従って書架がゆっくり巡っている。開いた窓からは、鷹ほどの大きさの竜が出入りしていた。
書庫へ渡る硝子橋に欄干はない。踏み出すたび足元へ硝子色の板が現れ、通り過ぎれば雲へ溶ける仕組みである。
橋の途中で、文字の群れが泳いできた。
『未返却』
『濡れた本』
『飲食禁止』
書庫で破られた決まりが、小魚の姿で空を巡っているらしい。
『蜂蜜菓子』
その一匹だけがヴェロニカの顔の周囲をしつこく回った。
「持っていないわ」
外套の内側で、紙包みが鳴った。文字魚はぴたりと止まった。
「事実と規則違反は別でしょう」
聞き入れられなかった。外套へ『要注意』の印を残し、文字魚は群れへ戻っていった。
正門では、スヴャトスラフが鏡面の兜をかぶった騎士たちと待っていた。禁書の中には、顔を覚えるだけで呪う物もあるためだ。
「一人か」
挨拶より先に、騎士団長が尋ねた。
「人数を数える技能まで身につけたのね」
「ナターリヤはどうした」
「今回の依頼と関係がある?」
「前回のあと、お前たちが別々に帰ったという話は聞いている」
「騎士団は人間関係の記録まで取るの?」
「お前の近くでは、後から事件へ関係する可能性が高い」
「失礼ね。まだ三回しか起きていないわ」
「十分だ」
それ以上は踏み込まず、スヴャトスラフは正門へ手を向けた。
書庫の内部では、階段が壁に沿って流れている。古代語の本を持つ者が乗れば上へ、詩集なら横へ、料理書を開いていれば、なぜか地下の薬草園へ運ばれるという。
「歩いた方が早そうね」
「その判断だけは正しい」
「一日に一度は褒める規則でも作った?」
「いま取り消した」
第七禁書閲覧室は、環状書庫の最も内側にあった。
扉には三重の封印が施されている。最初の封印は入室者の名を記録し、二つ目は境界を越えた魔力を数え、最後の一つは本が開かれた時刻を刻む。
どの封印にも破れはない。書庫では時を告げる鐘を《月鐘》と呼び、鳴る回数で時刻を数える。
【入室者:キリル】
【入室人数:一名】
【外部魔力干渉:なし】
【禁書開封:月鐘九つ】
閲覧室の中央で、禁書管理官キリルは机へ突っ伏していた。
身体には傷一つない。口元からは黒い文字が細い帯となって溢れ、床へ落ちる前に羽虫へ変わって天井へ昇っていく。
死体の前には、分厚い魔導書が開かれていた。
夜空のような革で覆われた表紙には、角度を変えるたび二つの月が浮かぶ。左右の端には銀色の留め金。開いたページには、単語の半分だけを並べたような文字が交互に続いている。
『我――夜――息――月――』
形は読めても、意味のある文章にはならない。
「《双月のグリモア》です」
死体の向かいにいた女性が、開いた頁から目を上げた。黒髪を長く編み、指先まで墨に染まっている。
「古代文字官のタチアナです。キリルとは十年以上、この本を研究していました」
「一人では開かない禁書です」
「死体の前では、ずいぶん開いて見えるわね」
「だから呼んだのでしょう」
悲しみより、苛立ちを強く含んだ声だった。
タチアナはヴェロニカではなく、開いた頁を見ていた。欠けた文字列、左右の留め金、余白の警告。その順に目を移し、最後にもう一度、キリルの口からこぼれる黒い文字を確かめる。
「仕組みは?」
「二人の読者が向かい合い、左右の留め金へ一人ずつ触れます。そのうえで、それぞれが自分から、相手の知らない真実を一つ差し出さなければならない。条件が満たされれば本が開き、一人には文章の半分、もう一人には残りの半分が見えます」
「相手の半分を聞かなければ読めない」
ヴェロニカが欠けた文字列を指した。
「どうやって答え合わせするの?」
「互いの半分を伝え合い、最後に片方が完成した文章を声に出して確認します」
タチアナは続けた。
「二人の魔女が、どちらか一人に知識を独占されないよう作ったと言われています」
「作者に人を見る目があったのね」
タチアナは開いたページの余白を指した。擦れた古代文字で、小さな警告が刻まれている。
「接続中に片方の読者を無理に切り離してはならない、とあります。完成しなかった文章は、本の外へ続きを求めるそうです」
「続きを?」
「近くにいる人間の呼吸を文字へ変え、不足した部分を埋める。正確な規模は不明ですが、記録に残る失敗例では、一室分の読者が声を失っています」
「死者が出ても、本を閉じなかった理由はそれね」
「キリルが死んでも、もう一人との接続は残っている可能性があります。無理に本を閉じたり、留め金を外したりすれば、近くの人間を巻き込むかもしれません」
ヴェロニカは伸ばしかけた手を止めた。
「危険を教えてくれたの?」
「死者を増やされたくないだけです」
「親切の理由としては十分ね」
キリルの口元を漂う黒い文字を、手袋越しに一つ払う。文字は小さな咳を残して消えた。
「死因は?」
「《息奪いの一節》です」
開いたページへ向けられたタチアナの目が険しくなる。
「完成した一節を声に出した者の呼吸を文字へ変え、本の中へ吸い込む禁呪。さっきの接続切断とは別です。口元から出ているのは、キリルの最後の息でしょう」
「あなたなら読めるの?」
「欠けた半分を補えば」
「実際に補える?」
「何通りかは」
タチアナは即答したが、続きを埋めようとはしなかった。欠けた文字の並びを最初から見直し、そこで口を閉じる。
「彼と争っていたそうね」
タチアナの視線がヴェロニカへ戻る。
「研究の帰属について意見が違っただけです」
「昨夜、研究室から何枚か持ち出したとも聞いたわ」
「私が書いた頁です」
「あとで調べるわ」
「好きになさい」
扉の外には、封印の状態を時刻ごとに残す記録板が広げられていた。板には月鐘の刻印に沿って封印の強さが光の線で記され、八つ目と九つ目の間だけ、その線が細く薄れていた。
記録板の前では、一人の男が腰の鍵束を押さえている。痩せた長身に、星の刺繍を施した外套をまとっていた。
封印の記録板を調べていたのはオレグだった。第七禁書閲覧室の結界管理を任されている。薄れた光の線と月鐘の刻印を見比べ、指先で記録をなぞってから、板をヴェロニカの方へ向ける。
「昨夜、封印を弱めたでしょう」
「開けてはいない」
「訊いていないわ」
「人も魔力も通していない。音だけだ」
「何のために?」
「事件とは関係がない」
「関係がないかは、こちらで決めるわ」
オレグの指が鍵束へ食い込む。
「それでも、いまは話さない」
「では、隠している事実があると記録しておく」
「好きにしろ」
オレグは記録板を伏せず、薄れた光の線へもう一度目を落とした。
死体より《双月のグリモア》を気にしている女が、もう一人いた。
淡い金髪を短く切り、革の前掛けへ銀の針や小槌を差した女が、表紙の角度を確かめ、切れかけた背の糸へ視線を走らせている。
「背は無事です。表紙にも血はついていない。閉じられれば、修復庫へ移せます」
「人が死んだ直後に、本の状態が気になる?」
「禁書修復師ですから。それが仕事です」
ヴェロニカは、複雑に編まれた背綴じを覗き込んだ。
「ずいぶん見事な修復ね」
「キリルが考案した《星骨綴じ》です」
タチアナが先に答えた。
「星環書庫の年報にも、彼の名で載る予定でした」
「直したのは私です」
女が短く訂正した。
「イリーナです」
誰からも返事はない。
イリーナは背綴じへ手を伸ばしかけ、途中で指を曲げた。
「三度、糸を選び直しました。月光を吸いすぎる糸は使えません」
「台帳には?」
「修復記録の末尾にあります」
「あなたの名も?」
「作業者の欄に」
キリルの名は、《星骨綴じ》の考案者として表題へ記される。イリーナの名は、誰も開かない台帳の末尾に残るらしい。
「昨夜は?」
「修復塔にいました。助手が二人います」
「この本へ最後に触れたのは?」
「三日前です。傷んでいた左右の留め金を死銀へ交換しました」
「魔力を通さない銀ね」
「はい」
「左も?」
「死銀です」
「確認したのは?」
「私です」
左が死銀だという根拠は、いまのところイリーナの説明だけだった。
「金具へ力をかけないでください」
イリーナはヴェロニカの手ではなく、留め金と蝶番を見ていた。
「呪文が残っている状態で留め金を壊せば、何が起きるかわかりません」
「タチアナと意見が一致したわね」
「本を守る点だけは」
文字を読めるタチアナ。
封印を弱め、記録へ触れられるオレグ。
本そのものを作り替えられるイリーナ。
開いたグリモアへ視線を戻したヴェロニカは、左右の留め金を眺めた。右は細かな傷で曇り、左は月光を細く押し返している。違いはあるが、何が違うのかまではわからない。
「キリルは一人で入った」
スヴャトスラフが封印記録の『一名』を指で叩いた。
「ええ」
「だが、本を開くには二人いる」
「ええ」
「どちらが間違っている」
ヴェロニカは、開いた本と扉の記録を順に見た。
「まだ、どちらも」
「どういう意味だ」
「記録が正しく、本の規則も正しいなら、私たちが何か一つ読み違えている」
「具体的には?」
「これから考えるわ」
いつもなら、そのあとに余計な一言を加えていた。騎士団へ難題を渡し、困った顔を眺めるために。
今日は続かなかった。
銀の違いを見抜ける人間を、ヴェロニカは一人しか知らない。
「ナターリヤを呼ぶか」
スヴャトスラフがまっすぐ尋ねた。
「必要ないわ」
答えが早すぎた。
「留め金に細工があるなら、武具鑑定士の目が要る」
「書庫にも金属を見られる者はいるでしょう」
「禁書修復師なら、そこにいる」
犯人候補へ調査を任せるほど、追い詰められてはいなかった。
「私が見るわ」
ヴェロニカは布越しに右の留め金をつまんだ。銀は銀にしか見えない。爪で軽く弾くと、低い音がすぐ消えた。
左も同じように弾くと、こちらは少し長く響いた気がする。けれど、書庫を巡る書架の軋む音が重なり、材質までは判断できなかった。
「違いは?」
スヴャトスラフも左右の留め金を見比べた。
「あるわ」
「何が違う」
「片方の方が長く鳴る」
「材質は?」
「銀でしょう」
「両方とも銀だ」
「質問が多いわね」
「わからないなら、そう言え」
留め金から手を離す。
わからない、と口にするだけなら難しくない。ナターリヤへごめんなさいと言うより、ずっと簡単なはずだった。
「金属の種類までは、私には判断できない」
喉の奥へ小さな棘が残った。スヴャトスラフは笑わなかった。
「彼女へ依頼するか」
ヴェロニカはしばらく開いた本を見ていた。
「私の名ではなく、騎士団の仕事として頼んで。断るなら、それでいいわ」
「わかった」
これで、選ぶのはナターリヤだ。それでも、少しも安心出来なかった。




