第1話② 無職探偵と死なないはずの聖者
「ミハイルの命令だったのね」
私が言うと、エカテリーナは答えられないまま目を伏せた。それでも契約痕は締まらない。
「自分は蘇ると信じていた。だから、あなたへ刺せと命じた」
エカテリーナは自分の両手を見下ろした。
「抵抗は?」
「できませんでした」
「ミハイルを憎んでいた?」
「憎んでいました」
今度は迷わなかった。
「でも、殺したかったわけではありません」
「生き返り、聖者として認定されたら、契約を解く申請が有効になると約束されました。信じてはいませんでした。それでも、命令には従うしかなかったんです」
命令者を失ったためか、首筋の契約痕は薄くなっていた。それでも鎖の形は消えず、効力が沈黙しているだけに見える。
「三日前、私の短剣を見た?」
「ミハイル様が持ってきました。触れて形を覚えるよう命じられました」
「そのあと、短剣は?」
「内控室の机へ隠すよう命じられました。底が二重になっています」
スヴャトスラフが部下へ内控室の捜索を命じた。
ヴェロニカは遺体の首元から、ひびの入った赤い石を拾い上げた。
「問題は、なぜ蘇らなかったかよ」
《鳳凰石》は、聖者候補へ一つだけ貸し与えられる秘宝である。致命傷を受けたとき、一度だけ持ち主の生命を燃え上がらせる。
しかし、ミハイルの胸元に残っていた石は、赤く染めた硝子にすぎなかった。
窓から差す光へ透かすと、内部に細い金色の筋が見える。気泡の並びにも見覚えがあった。繭の外にある戦勝廊では、赤い礼拝窓の一部が透明な硝子で仮留めされている。
「偽物は、あの窓の硝子から削った物です」
私が言うと、アレクサンドルが眉を寄せた。
「古い礼拝窓など、どこにでもある」
「この金色の筋は、戦勝廊の窓だけに使われている箔よ」
ヴェロニカは偽石を布へ包み、戦勝廊の補修用硝子を加工した神殿工房の記録も調べるよう、スヴャトスラフへ求めた。
「昨夜、封印前に私が本物を確認した」
アレクサンドルも後を追う。
「繭が閉じたあとで交換されたのなら、意味がないでしょう」
「中へ手を入れる方法はない」
「あなたにはあるわ」
アレクサンドルの右手には、大粒の青石をはめた《指揮者の指輪》がある。登録された仲間や祭具の装備を、思念だけで一つずつ交換できる職業具だ。戦場で私の盾が砕けたとき、遠くにいた彼が予備の盾へ交換したこともある。
「儀式中に事故が起きた場合、登録した祭具を交換するための物だ」
「昨夜は?」
「使っていない。使用すれば水晶へ残る」
「では、確認しましょう」
スヴャトスラフに促され、アレクサンドルが記録水晶の深層へ手をかざすと、新たな文字が浮かび上がった。
【装備品:鳳凰石】
【外部からの装備交換:一回】
繭の中へ偽物が入り、本物が外へ出ている。
《指揮者の指輪》は物を消せない。交換先として登録された祭具のどこかに、本物の《鳳凰石》が残っているはずだった。
繭の外には、聖杯、冠、香炉、剣、そして勇者隊の紋章を刻んだ大きな儀礼盾が並んでいる。騎士が盾の位置を直したとき、中央の留め具だけが低く軋んだ。
「待って」
騎士の腕を押しのけ、私は盾へ向かった。
「その盾を下ろしてください」
アレクサンドルが行く手へ立つ。
「勇者隊の儀礼具だ。鑑定士が勝手に触れる物ではない」
「まだ触ってもいないよ」
「触れさせたくない理由があるように聞こえるわね」
ヴェロニカの言葉に、スヴャトスラフが騎士へ盾を下ろさせた。
持ち上げた瞬間、腕へ返ってきた重みに息が止まる。
「前に見たときより重い」
誰かに確かめる必要はなかった。私はこの盾を知っている。遠征の前にも、戦いから戻ったあとにも、傷と重心を何度も調べてきた。
「中央飾りには、姿勢を安定させる鉛が入っているはずよ」
太陽をかたどった意匠を眺め、ヴェロニカが言った。
「その重さではないの?」
「違う」
口にしてから、自分でも少し驚いた。ヴェロニカの推理を遮り、はっきり否定したのは初めてだった。
「鉛なら、重みは飾りの縁へ均等に散るよう詰める。この重さは中央へ寄りすぎてる。それに、増えた分は鉛より軽くて硬い」
傷は太陽飾りの鍵穴へ集中していた。
「無理に開けようとした跡がある」
「開けられる?」
ヴェロニカが尋ねた。
「武具鑑定士を誰だと思ってるの」
腰袋から専用の鍵を取り出す。
「この盾の調整室を開ける鍵は、担当の私しか持ってない」
鍵は途中でわずかに引っかかった。傷ついた蓋を押さえながら回すと、太陽飾りが乾いた音を立てて外れる。
内部に隠されていたのは、鉛ではなかった。
赤い光が、私の指を照らした。
「鳳凰石……」
誰も、すぐには声を出さなかった。
「訂正するわ」
ヴェロニカは鳳凰石ではなく、私を見ていた。
「この盾については、あなたの方が正しかった」
「盾については?」
「いまのところは」
「素直に認めると死ぬの?」
「三回以上認めると危険だという説があるわ」
少しだけ笑ったものの、その目はまだ私から離れなかった。
儀式が始まったあと、アレクサンドルは祈りの支度を口実に、この盾を内控室へ持ち込んでいた。指輪で鳳凰石を交換し、手元へ移った本物を隠すには十分な時間がある。
調整室の鍵を私に頼めば、中身を見られる。だから無理にこじ開け、傷を残したのだ。
「ミハイル本人の指示だ」
アレクサンドルは石を見つめたまま言った。
「儀式前に盗難の危険があると訴えられ、本物を預かった。偽物はミハイルから渡された。刺される直前に本物へ戻す予定だった」
「戻す前に死んだ?」
「エカテリーナが命令以上に深く刺した可能性もある。鳳凰石が偽物だと知った別人が、計画を利用した可能性も――」
そのとき、捜索に出ていた騎士たちが戻ってきた。
持ち帰ったのは三つ。内控室の机の二重底から見つかった私の短剣。古い戦果帳と大神官宛ての封書。そして、戦勝廊の補修用硝子を切り出した神殿工房の注文帳だった。
私は数日前、神殿の回廊でミハイルとアレクサンドルが言い争っていたことを思い出した。ミハイルは厚い書類束を抱えていた。
「今夜の儀式には協力してもらう。断れば、これを大神官へ渡す」
「終われば返すのか」
「働き次第だ」
その場では、勇者と聖者候補の権力争いだと思った。私たちの旅では珍しくもない光景だったからだ。
ただ、以前から妙なことはあった。どれほど戦っても、私や仲間たちの職業技能はなかなか育たない。その一方で、アレクサンドルだけが目に見えて強くなっていく。魔物を倒した記録も、村を救った功績も、王都へ届く頃には「勇者アレクサンドルの戦果」へ書き換えられていた。
「ミハイルが持っていたのは、この戦果帳だったんだ」




