第1話① 無職探偵と死なないはずの聖者
聖者候補ミハイルが死体で見つかったその部屋で、私の幼なじみであるヴェロニカは、卓上にあった蜂蜜菓子を当然のように食べていた。
「調べる前に食べないで」
「ミハイルはもう食べないでしょう。残す方が不敬よ」
「その理屈なら、神殿中の供物を食べられることになるよ」
「場所を教えて」
私は答えず、乳白色の糸に覆われた室内を見回した。
ここは大神殿の奥に設けられた《女神の繭》。聖者候補が奇跡を示すための儀式場で、天井から垂れる糸が内外の人間と魔力を遮断する。入口の記録水晶には、昨夜から今朝までの出入りが青い文字で残されていた。
【入室者:ミハイル】
【装備品:聖者候補儀礼服】
【装備品:鳳凰石】
【装備品:短剣】
【退室者:なし】
【魔力行使:なし】
記録水晶は、入室時の人間と装備を、その時点の形と神殿へ届け出られた性質で刻む。材質や傷までは見分けないらしい。
「神殿の専門家によれば、ここは女神が保証する完全密室だ」
近衛騎士団長スヴャトスラフが言った。
武具鑑定士として私を呼んだ本人である。灰色の外套の下には王家の紋章を刻んだ胸甲を着け、すでに二度ほどヴェロニカの手から蜂蜜菓子を取り上げようとして失敗していた。
「女神本人に確認したの?」
「神殿の専門家が確認している」
「では、女神より先に専門家を疑いましょう」
「まず死体を調べろ」
封印を解いた神官と騎士たちが発見したとき、ミハイルは中央の祭壇で胸を刺されていた。
遺体の周囲には銀の水盤と祝福用の花が置かれ、壁際の観覧席には高位神官や貴族の名札が並んでいる。聖歌隊席には、復活を讃える歌の譜面まで用意されていた。
死ぬ予定はあったらしい。
死んだままでいる予定だけがなかった。
「鑑定士は私が呼んだ」
スヴャトスラフは私の隣にいるヴェロニカへ視線を移した。
「お前は何者だ」
「探偵よ」
ヴェロニカが二つ目の蜂蜜菓子へ手を伸ばす。
「登録職を訊いている」
「同じ答えよ」
「典録上は無職です」
私が補足すると、ヴェロニカは菓子を持ったまま振り返った。
「依頼人の前で、不必要な情報を増やさないで」
「私が依頼したのはナターリヤだけだ」
「では、事件を解決したあとで依頼人になるといいわ」
「勝手に契約を成立させるな」
「探偵として働いている無職よ。矛盾はないでしょう」
スヴャトスラフは矛盾しかないという顔をしたが、遺体の検分を優先した。
ミハイルの胸には、細身の短剣が深く刺さっている。
柄頭に青い石。握りには銀糸。鍔には三枚の葉を模した彫刻。
見間違えようがなかった。
三日前から見つからなかった、私の短剣だった。
ここまで親切に疑われる条件を揃えられると、怒るより先に感心してしまう。
「ナターリヤ。この短剣はお前の物か」
「三日前になくした物と同じです」
騎士たちの視線が一斉に集まった。
スヴャトスラフが私へ近づく。その右手は剣の柄に置かれていた。
「触らないで」
ヴェロニカが私たちの間へ身体を滑り込ませた。
「事情を聞くだけだ」
「剣の柄へ手を置いたまま近づく必要はないでしょう」
その声は低く、いつもの毒も飾りもなかった。
「ナターリヤには無理よ。誰かを殺そうと思っても、相手の事情を三日考え、四日目に自分にも落ち度があったのではないかと悩み、五日目には謝罪用の菓子を買いに行く。暗殺者としては致命的な性格だわ」
「性格の話はしていない」
「では、能力の話をしましょう。ナターリヤが刺したなら、刃は肋骨の間を正確に通る。これは少し外れているわ」
「私を何だと思ってるの?」
「殺人に向いていない善人。褒めているのよ」
私のために彼女が余裕を失った。そのことが、守られた安堵よりも長く胸へ残った。
スヴャトスラフは剣から手を離し、こめかみへ指を当てた。
「凶器は押収する。ただし、先に鑑定させる」
傷口の形を神官に記録させたあと、スヴャトスラフは白布を巻いた手で凶器をゆっくり引き抜いた。刃へ触れないよう私の鑑定布へ載せ、自分は一歩下がる。
布へ包まれた短剣を受け取った瞬間、私は眉を寄せた。
「これ、私のじゃない」
「傷まで同じだぞ」
「重すぎる」
手のひらで水平に支える。外見も長さも、柄の巻き方まで同じ。それでも重心は鍔より少し先へ寄り、全体も私の短剣より重かった。
「どのくらいだ」
「小さな林檎一つ分くらい。でも、金属を足した重さじゃない。刃の奥に、何か固い芯がある」
死体の胸へ一晩刺さっていた金属なら、冷え切っているはずだった。それなのに柄には微かな温もりが残り、指の腹へ弱い震えまで伝わってくる。
血の脈ではない。刃そのものが、息を潜めているような振動だった。
ヴェロニカは短剣ではなく、私の顔を見ていた。
「私へ言われる前に気づいたわね」
「私の仕事だから」
「成長したものだわ」
「昔からできたよ」
「では、私の観察力が成長したのね」
「根拠は?」
背後から男の声がした。
儀礼用の白い外套をまとった勇者アレクサンドルが、繭の入口に立っている。ミハイルが所属していた勇者隊を率いる男で、昨夜は祈りの支度をすると言い、白銀の盾を抱えたまま内控室へ下がっていた。
「普通の鋼ではありません。温度と振動が残りすぎています」
「見た目だけを模した魔導具か」
「魔導具とも限らないよ」
鑑定用の細い打音棒で柄頭の青石を弾く。青石なら返すはずの澄んだ音ではなく、肉の奥を叩いたような鈍い響きが返ってきた。
もう一度弾くと、青石の表面へ髪ほど細い亀裂が走った。隙間から白い煙が漏れ、鑑定布の上で短剣が小さく震え始める。
「元へ戻らないなら、床へ当てて割るよ」
「待て、証拠を壊すな」
スヴャトスラフが手を伸ばす。
「壊すかどうかは、向こうに決めてもらいます」
実際に床へ叩きつけるつもりはなかった。
けれど布ごと持ち上げ、振り下ろす素振りを見せた瞬間、刃全体へひびが広がった。白い煙が膨らみ、短剣の重さが腕から消える。
次の瞬間、私の足元には灰色の衣をまとった若い女性がうずくまっていた。首筋には、鎖を編んだような黒い契約痕が浮かんでいる。
騎士たちが息を呑んだ。
「《生体聖装》か」
アレクサンドルが低く呟く。
女性――エカテリーナは、触れた武器の形を自分の身体へ写し取れる。神殿の典録では人間ではなく、所有者の命令で形を変える聖なる武器として登録されていた。
「記録水晶は嘘をついていないわ」
ヴェロニカは入口の青い文字を見上げた。
「姿を変えた者は、そのときの形で記録される。短剣として入ったエカテリーナを、人間の入室者には数えなかっただけよ」
「正しい記録が、完全密室を保証していたということか」
スヴャトスラフの声が低くなる。
「ええ。記録が正しいことと、あなたたちの解釈が正しいことは別なの」
「私が……刺しました」
エカテリーナは床へ膝をついたまま言った。
「誰の命令で?」
ヴェロニカが尋ねた途端、首筋の鎖が皮膚へ食い込んだ。
エカテリーナは喉を押さえ、息を詰まらせる。
「無理に話さなくていい」
私が肩を支えると、彼女は苦しそうに首を振った。
「私が、ミハイル様の胸へ……」
「そこまでは言える。でも、命令者の名は口にできないのね」
ヴェロニカの声から、いつもの軽さが消えた。
「生体聖装には、所有者の命令を秘匿する義務がある」
アレクサンドルが答える。
「神殿の財産を守るためだ」
「財産ではなく、人間でしょう」
「典録上の分類を話している」
「その分類が間違っていると言っているのよ」
返事はなかった。
公開儀式の準備を調べれば、ミハイルの計画はすぐに見えた。
観覧席、復活を讃える聖歌、蘇生直後の血を奇跡の証として受ける銀の水盤。祭壇の脇には、復活したミハイルが読み上げる予定だった慈悲の宣言まで用意されている。
彼は人前で致命傷を受け、《鳳凰石》の力によって蘇るつもりだった。
自分を刺す役には、命令へ逆らえないエカテリーナを選んだ。刃の形を私の短剣へ似せたのは、暗殺者を許す慈悲深い聖者を演じるためだろう。
実際には誰も暗殺していない。私も、エカテリーナも、奇跡を飾るための役へ勝手に置かれただけだった。




