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18.第3話⑥ 無職探偵と解けないはずの石化

 鏡布の下から、幼体が低く鳴いた。


 ミロスラヴァが地下へ呼ばれ、騎士から事情を聞くなり、布の端へ膝をつく。正面へ回らないまま首の後ろを押さえ、別の治療師が鏡布の内側で片目ずつ革覆いを掛けてから、細い採涙管を差し入れた。


「少しだけ我慢して」


 幼体には通じていないらしい。嘴が布の内側を二度つついた。


 透明な雫が管を伝って小瓶へ落ちる。必要な量が溜まると、治療師が栓をした。


「ヴァレリヤンへ。急げ」


 小瓶を受け取った騎士が本館へ走る。


 採涙管の先に、もう一滴が膨らんだ。


 それが私の左手へ使われた。


 石になった指の表面へ細かな亀裂が走り、感覚が戻る。冷たさの次に来たのは痛みだった。指先から手首、腕の内側へ、しびれが一気に駆け上がる。


「動かせますか」


 治療師に言われ、ゆっくり指を曲げる。途中で止まりそうになったが、五本とも動いた。


 ヴェロニカが私の前へしゃがんだ。


「腕は?」


「痛い」


「治る痛みよ」


「知ってたの?」


 手を伸ばしかけていた指が止まった。


「何を?」


「クセニヤが、私を止めに来るかもしれないって」


 返事までに間があった。


「可能性は考えていたわ」


「だから騎士を置いた?」


「ええ」


「鏡布も?」


「ええ」


 左手を握る。まだ力が入りきらず、爪が掌へ触れるだけだった。


「それ、どうして私には言わなかったの」


「知っていれば、待ち構えていることが態度へ出る可能性がある。正しい壁を開けさせるには――」


「出さないようにするかどうかも、私に決めさせなかった」


 ヴェロニカが口を閉じた。


「壁を開けたら合図する。そこまでは聞いたよ」


「ええ」


「そのあと、私が襲われるかもしれないことは?」


「言っていない」


「どうして?」


「断られる可能性があったから」


 今度は早かった。


 たぶん、それが一番正確な答えだった。


「騎士は近くにいた。あなたなら反射にも気づけると思ったし、幼体を生きたまま確保できれば治療も――」


「そういう話じゃない」


「でも、実際に――」


「結果がよければ、勝手に決めていいの?」


 ヴェロニカの声が止まる。


「あなたは私を助手とは呼ばない」


 一度息を吸った。腕より、喉の方が痛かった。


「でも、道具として使うことには迷わないんだね」


「違うわ」


「何が?」


「あなたを道具だと思ったことはない」


「思ってなくても、したことは同じでしょう」


 鏡布の下で、幼体がまた嘴を鳴らした。


 ヴェロニカは何も返さなかった。


 私も待たずに立ち上がる。左手では壁を支えられず、右手だけをついて階段へ向かった。


* * *


 ヴァレリヤンの石化は、幼体の涙でほどけた。


 すぐに歩ける状態ではなかったが、口は動いた。治療師に支えられて寝台へ起き上がると、最初に求めたのは水でも休息でもなく、自分の帳簿だった。


「監査は続けますか」


 スヴャトスラフが訊く。


「続けます。中断理由は、もう記録できますから」


 石になりかけても監察官だった。


 事件の夜について尋ねると、水盤に映った二つの目は低く、両方とも澄んでいたと証言した。軽い羽音が水盤の奥へ遠ざかり、そのあと木の蓋が閉じる音。しばらくして、車輪の音に重なって、何か重いものが床を擦る音が廊下を通ったという。


 グルーシャは別の治療師が改めて検分し、薬物も新しい外傷も見つからなかった。死因は老衰と記録された。


 開かれた秘密飼育室では、石継ぎ泥の内側に術印が残っていた。登録記録と照合した騎士が紙をスヴャトスラフへ渡す。


「クセニヤのものだ」


 ミロスラヴァは、その紙を見てから口を開いた。


「卵と保温石を渡したのは、クセニヤです」


「幼体を隠すことも知っていた?」


「知っていました」


「ヴァレリヤンを襲うことは?」


「知りませんでした」


 それ以上は言い訳しなかった。


 拘束されたクセニヤは、椅子へ座ったまま質問を聞いていた。


「昨日の夕方、ヴァレリヤンに何を言われた?」


 ヴェロニカが訊く。


「保温石が一個合わないと言われました。使用先を朝までに説明するように、と。旧治療区画も明朝確認すると」


「見つかると思った?」


「はい」


「だから石化させた?」


「はい」


「心臓まで進めば死ぬことは?」


「分かっていました」


 声は治療法を説明していたときと変わらない。


「昨夜、獣舎へ行った?」


「はい。治療当番の巡回で」


「そのとき、グルーシャは?」


「死亡していました」


「あなたが殺した?」


「いいえ。死因は老衰です」


「それでも運んだ?」


「はい」


「ヴァレリヤンが、グルーシャに石化されたように見せるため?」


「そのためです」


 ヴェロニカは少し黙った。


「そこまでして、何を残したかったの」


「治療に必要な個体です」


「それだけ?」


 クセニヤの返事が初めて遅れた。


「あの子を殺させたくなかったんです」


 条件も数字もつかなかった。


 スヴャトスラフが調書を閉じた。


 クセニヤはヴァレリヤンへの襲撃と違法な孵化・飼育、それに私を石化させた件で拘束された。グルーシャを獣舎から運び出したことも、偽装工作として調書へ加えられた。ドラゴミルの涙の横流しと請求の不正、ミロスラヴァの飼育記録改竄と卵の隠匿も、それぞれ別に処分されることになった。


 幼体は王立獣舎へ移される。


 運搬用の籠へ入れられると、灰褐色の羽が鏡布の隙間で動いた。ミロスラヴァは長いあいだ籠を見ていたが、やがて取っ手を受け取る。


「グルーシャの代わりにはなりません」


「代わりにしなくていいでしょう」


 私が言うと、ミロスラヴァは頷いた。


「この子は、この子です」


 監督下で飼育を手伝うことだけは認められたらしい。


 ヴァレリヤンは助かり、幼体も生きている。左腕も動く。


 それで全部よかったことにはならなかった。


* * *


 養生院の客室へ戻る頃には、外は暗くなっていた。


 石化は解けても、左手には鈍い痛みが残っている。扉の取っ手を回すと、肘の内側まで重く響いた。


 部屋へ入ろうとしたところで、背後から足音が近づく。


 ヴェロニカは二つのカップを載せた盆を持っていた。片方から、私がいつも飲む茶の匂いがする。


「話をしても?」


「もうしたでしょう」


「地下では、十分に整理できていなかったわ」


「整理すれば正しくなるの?」


 盆の上で、カップがわずかに鳴った。


「私の判断には、説明が足りなかった。次からは、危険があるなら先に共有する。待機する騎士の数も――」


「ヴェロニカ」


 言葉が止まる。


「それ、報告書だよ」


 しばらく返事がなかった。


「……ええ」


「今日は一人にして」


 扉を閉める。


 木板の向こうで陶器が触れ合う音がした。


 足音は、すぐには遠ざからなかった。

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