16.第3話④ 無職探偵と解けないはずの石化
ヴェロニカは欄外の二行をもう一度見て、帳簿を閉じた。
「グルーシャの獣舎を見せて」
「聞かないの?」
「聞くわよ。でも、先に物を見る」
ミロスラヴァは何も言わず、私たちを獣舎へ案内した。
グルーシャの囲いは建物のいちばん奥にあった。床には厚く藁が敷かれ、低い止まり木と水桶が残っている。二十二年いた場所にしては片づきすぎていて、空いた真ん中だけが妙に広く見えた。
「巣は?」
ヴェロニカが訊く。
「もうありません」
「いつ片づけたの?」
「春です」
壁に掛かった交換記録をめくると、春先だけ藁の使用量が増えていた。同じ週に三度交換している。
理由の欄には、短く書かれている。
【焦げあり】
「グルーシャ、火を吐いた?」
「吐きません」
「じゃあ何が焦げたの?」
ミロスラヴァは答えなかった。
ヴェロニカがしゃがみ、床板の継ぎ目を指でなぞる。黒い煤がわずかに残っていた。
「保温石を藁の下に置いた?」
「温度を保つには使えます」
答えたのはクセニヤだった。
「誰もあなたには聞いてないよ」
「質問の内容には答えられます」
「そうだった」
ミロスラヴァはまだ黙っている。
「焼いた藁はどこへ?」
今度は私が訊いた。
「裏の焼却炉です」
獣舎の裏には、灰を溜める石箱があった。数か月前のものまで残っているわけではないと思ったけれど、焼却炉の底は毎回きれいに掻き出すわけではないらしい。古い灰が隅へ固まり、その上に新しい灰が積もっている。
私は火箸を借りて、赤茶けた塊を一つ拾った。
「これ、石じゃない?」
指先ほどの欠片は脆く、押すと赤い粉になった。
「保温石です」
クセニヤが見る。
「高温で割れたものですね」
「他にもある」
灰の中から、今度は白い曲面が出てきた。普通の鳥の卵よりずっと厚い。割れた内側には、銀色の薄い膜が張りついている。
ミロスラヴァが息を止めた。
「コカトリス?」
クセニヤは欠片を受け取り、銀色の膜を爪の先で持ち上げた。
「殻だけなら断定できません。ただ、この膜はコカトリスの卵に見られます」
「じゃあ十分ね」
「断定できないと言いました」
「あなたが十分じゃないだけよ」
ヴェロニカは殻をミロスラヴァの前へ置いた。
「グルーシャが産んだ?」
長い沈黙のあと、ミロスラヴァが頷いた。
「春に一つだけ」
「記録は?」
「していません」
「どうして?」
「記録すれば回収されます」
スヴャトスラフが眉を寄せる。
「王立魔獣の卵だ。報告義務がある」
「知っています」
「またか」
「またです」
今度はスヴャトスラフも驚かなかった。
ミロスラヴァは殻ではなく、灰の方を見ていた。
「グルーシャはもう年でした。記録すれば、卵は取り上げられて、ここでは育てられないと思いました」
「だから隠した」
「はい」
「一人で孵したの?」
「最初は自分で温めようとしました。保温石も使いました。でも、温度が安定しなくて」
「それで藁が焦げたのね」
「はい」
「そのあと?」
ミロスラヴァの指が、灰の中の殻を避けるように動いた。
「人に預けました」
「誰に?」
「言えません」
スヴャトスラフが一歩前へ出る。
「殺人の捜査だぞ」
「分かっています」
「それでもか」
「名前を言えば、あの子まで処分されるかもしれません」
「その鳥が監察官を石にした可能性がある」
「それでも、使った人間とあの子は別です。名前だけで、あの子のいる壁までは分かりません」
声は震えなかった。
ヴェロニカはそれ以上、名前を迫らなかった。灰の中には卵殻があり、排水路には若い羽が残っている。誰かがミロスラヴァから卵を受け取ったことだけは確かだった。
「もう一つ」
ヴェロニカが獣舎を出る。
「グルーシャはどうして死んだの?」
処置前室へ戻り、昨夜の餌の残りを確かめた。乾燥肉と穀物だけで、目につく異物は混じっていない。
スヴャトスラフに促され、クセニヤがグルーシャの嘴を開き、首元と胸の羽を分けていく。
「新しい外傷はありません。口の中にも異常はない。昨日の状態なら、老衰で死んでも不自然ではありません」
「老衰?」
「現時点では、それが最も近いです」
ミロスラヴァは答えず、台車から垂れた尾羽を胴の脇へ戻した。
ヴェロニカは死骸ではなく、その下の台車を見る。
「じゃあ、問題は死因じゃない」
「何が残るの?」
「場所よ。これ、今朝ここにあったのよね」
「はい」
ミロスラヴァが答える。
「でも昨夜、検分が終わったあとグルーシャは獣舎へ戻した」
「私が戻しました」
「なら、自分でここへ戻ったわけじゃない」
床には車輪の跡が薄く残り、片側だけが少し濃かった。台車の右輪を見ると縁が欠けていて、回るたび同じ間隔で細い線を残すらしい。
跡は前室から廊下へ続き、獣舎の方向へ伸びていた。
「誰かが、この台車で獣舎から運んだのね」
「一人で動かせる?」
「この台車なら」
ミロスラヴァが足元の踏み板を示した。
「下の枠が持ち上がるので、乗せれば押せます」
ヴェロニカは壊れた治療室の扉、グルーシャの死骸、帳簿の置かれた机を順に見た。
「昨夕、ヴァレリヤンは生きているグルーシャをここで確認した。そのあと帳簿を持って部屋へ入り、自分で閂を掛けた」
誰も口を挟まない。
「夜になって、別の若いコカトリスが排水路から入った。青銅へ映した目で石化させる。直接より弱いから、進み方は遅くなる」
「グルーシャみたいに?」
「ええ」
朝になれば、監察官は部屋の中で石になっている。前日に本人が老いたグルーシャを検分した記録も残っている。
「事故に見える」
スヴャトスラフが言う。
「グルーシャが死ななかったら?」
「前日の検分がある。死ななくても、石化の方はグルーシャで説明できるわ」
「じゃあ、死体を運ぶ必要は?」
「必要はない。でも、朝一番にこれを見れば、まずグルーシャを疑うでしょうね」
ヴェロニカは台車の欠けた右輪を靴先で押した。
「二羽目を考えるのが遅れる」
「そういうこと」
「でも、朝までに石にならなかった」
私は治療室を見る。ヴァレリヤンの左目が残ったせいで、グルーシャではないことまで本人に否定された。
「幼体だから読み違えた?」
「幼体で、しかも反射よ。そこまで正確には読めなかったんでしょうね」
「じゃあ、誰?」
「まだ決めないわ」
「ここまで分かっても?」
「ええ。まだ三人とも外れない」
ヴェロニカは旧治療区画の方を見た。
若いコカトリスがどの壁の向こうにいるかは、まだ分からない。無理に全部開けている時間もなかった。
「じゃあ?」
「隠した人に、開けてもらいましょう」
「素直に?」
「まさか」




