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14.第3話② 無職探偵と解けないはずの石化

 存在しない鳥を探す前に、ヴェロニカは紙を探した。


「さっきの記録、全部見せて」


 クセニヤが治療棚から三枚の紙を抜く。ヴァレリヤンの発見後、処置のたびに残された治療記録だった。石化がどこまで進んでいたかが身体の輪郭へ書き込まれ、顔の横には左目の状態まで小さく描かれている。


「目も記録するの?」


「動かせる場所は残します。意識の確認に使えるので」


 三枚を床へ並べたヴェロニカが、私を見た。


「ナターリヤ」


「はいはい」


「何が違う?」


「石になった場所が増えてる」


「見れば分かることをありがとう」


「じゃあ自分でやって」


「目よ」


 三枚とも左目だけが生きている。ただ、瞳の向きが少しずつ違った。最初は壁際、次はその下、最後の一枚ではさらに床へ近いところを向いている。


「何か見てた?」


「見ていたというより、残そうとしていたのかもしれないわね」


 視線の先を追うと、壁際に横長の青銅水盤が据えられていた。


 横に長く、浴槽と呼ぶには浅い洗い水盤だった。手前の縁は私の膝ほどで、壁側はそれより高くなっている。底には丸い排水口があり、長く使われた青銅には水垢と細かな傷が重なっていた。


「これ、昨夜もここに?」


「動かせるものではありません」


 クセニヤの答えどおり、床へ直接据えつけられている。


「昔の石化治療用だ」


 後ろからドラゴミルが水盤を見下ろした。


「薬液を流したり、石の粉を洗い落としたりしていた。今はほとんど使っていない」


 水盤の前へしゃがんだヴェロニカが、内側を覗いた。


「じゃあ、誰がここだけ磨いたの?」


 横へ回ってみると、奥の青銅面の一部だけ色が違っていた。周囲は白っぽく曇っているのに、手のひら二枚ほどの範囲だけが妙に滑らかで、斜めから灯りを向けると私の顔がぼんやり映る。


「最近だね」


「分かる?」


「金属を見るのが仕事だからね」


「連れてきて正解だったわ」


「そこは最初からそう言って」


「今言ったでしょう」


 相変わらず、必要になってから評価する。


 磨かれた面には、三本の細い傷がほぼ同じ長さで並んでいた。爪の先でなぞる前に手を止める。


「これも新しい」


「人?」


「人間なら爪を切った方がいいね」


「あなたの知り合い?」


「どういう交友関係だと思ってるの?」


「広い方ではないわ」


「そっちじゃない」


 前室から呼ばれたミロスラヴァは、傷を見るなり水盤の前へ膝をついた。


「前の爪です」


「コカトリス?」


「はい。前に三本、後ろに一本あります」


 三本の指を傷の幅へ重ね、すぐに首を振る。


「グルーシャじゃありません」


「どうして?」


「小さすぎます。このくらいなら、まだ若い子です。グルーシャなら一本の爪だけでも、もっと幅があります」


 言い終えると、傷の縁へ顔を寄せた。死んだグルーシャを見ていたときと同じくらい真剣だった。


「若いコカトリス」


 今度はクセニヤに訊く。


「石化の強さは?」


「年齢だけでは決まりません」


「そういう答えだと思った」


「幼体は安定しません。成熟した健康な個体の方が、通常は強く、一定です。幼体は深く入ることもあれば、浅く済むこともあります。直接視線を受けて確かめるようなものではありません」


「反射なら?」


「弱まります」


「どのくらい?」


「反射面と角度によります」


「目が合わなくなれば止まる?」


「止まりません。視線が切れても、始まった石化は進行します。どこまで進むかは、受けた強さで変わります」


 水盤から少し離れ、ヴァレリヤンの寝台と見比べる。排水口から小さなコカトリスが水盤の中へ上がったとしても、寝台からその目を直接見るのは難しそうだった。手前の縁が邪魔になる。


 けれど、内側の磨かれた部分にはこちらからでも光が返ってくる。


「直接じゃないんだ」


「その可能性は高いわね」


 ヴェロニカも同じ位置から水盤を見ていた。


「ここだけ磨いたのが目を映すためなら、辻褄は合う」


「反射なら石化は弱まる」


「ええ。そこまでは分かったわ」


 ただ、わざわざ弱める理由まではまだ分からない。


 排水口の近くには、短い灰褐色の羽毛が引っかかっていた。グルーシャの翼に混じる古い羽とは艶が違う。


 ミロスラヴァが指先でそっと拾い、羽軸を軽く曲げてすぐ戻した。


「この子のじゃありません」


「若い?」


「まだ柔らかいです。生え替わって、そんなに経っていないと思います」


 排水口の内側にも、小さな擦り傷が下から上へ続いていた。


「入れそう?」


 穴を覗き込んだヴェロニカに訊かれて、私は顔を上げる。


「私を何だと思ってるの?」


「肩幅の問題を聞いてるの」


「身長百八十近い人間を排水口に入れないで」


「じゃあ無理ね」


「最初から分かるでしょ」


 直径は私の肩よりずっと狭い。腕なら通せても、人間が身体を押し込むのは無理だった。


 スヴャトスラフが細い棒を差し込むと、かなり深いところで下向きの曲がりに当たった。そこから先は見えない。


「普通の排水にしては大きいな」


「昔は石片も流していたからだ」


 答えたのはドラゴミルだった。


「石化治療で出た欠片や研磨粉が詰まらないよう、古い設備は太く作られている」


「その先は?」


「旧治療区画だ。ここより一段低い」


 養生院の裏手へ回ると、半分地面へ埋まった石造りの入口があった。


 階段を下りた途端、乾いた土と古い薬の匂いに変わる。壁沿いに太い排水管が走り、水盤につながる管の途中には木蓋で塞がれた清掃口、その少し先には古びた金具が差し込まれていた。


「これは?」


「沈砂弁だ。石の欠片などが戻らないようにする。清掃するときは、この木蓋を外してこちらから開ける」


 ドラゴミルが古びた金具を示す。


「鳥も止まる?」


「閉じていればな」


「今は?」


「閉じている」


 留め具には埃が積もっていたが、金属の一部だけが擦れている。そこから下へ細い傷が続き、管の底には乾いた餌の欠片も落ちていた。


「最近、開けてるね」


「昨夜とは限らないわ」


「先に言わないでくれる?」


「あなたがこっちを見たから」


「そんな顔した?」


「したわ」


 仕返しされた。


 もう少し奥には、同じ灰褐色の羽毛が一枚落ちていた。


 一枚なら、どこかから紛れ込んだと言えたかもしれない。排水口と、その先の管から同じ若い羽が出れば、話は違う。


「これなら鳥だけ上へ行けるね」


「人間は閂の向こうへ入らなくていい」


 ヴェロニカが清掃口から治療室の方を見上げる。


「密室だったのは、人間にとってだけだったのね」


 古い排水路は旧治療区画の奥へ続いていた。廊下の左右には、かつての治療室が六室ずつある。出入口はどれも灰色の石継ぎ泥で塞がれ、壁とほとんど見分けがつかなかった。


「何これ」


「封鎖した旧治療室だ」


 ドラゴミルが答える。


「それは見れば分かるよ」


「使わなくなったあと、事故防止のため入口を塞いだ」


 一番手前の壁をヴェロニカが指の背で叩く。返ってきたのは鈍い音だけだった。


「全部?」


「全部だ」


「開けられる?」


 スヴャトスラフが剣の柄へ手を掛ける。


「時間をかければ壊せる」


 ドラゴミルの返事に、クセニヤが続けた。


「ただ、中にコカトリスがいるなら勧めません。壁を崩して傷つければ、治療に必要な涙を採れなくなる可能性があります」


 寝台のヴァレリヤンが頭に浮かぶ。


 今夜までもたない。


 一つずつ壊している時間はないし、当たりの壁を乱暴に崩して、中にいる鳥を潰すわけにもいかなかった。


「封じた人なら?」


「自分の術印で封じた場所なら、ずっと早く開けられる」


 ドラゴミルが壁の継ぎ目を見る。


「外から誰の術か分かる?」


「無理だ。術印は内側の継ぎ目に残る」


 見たところ、どの壁にも違いはない。


 記録にない二羽目が隠されているなら、この区画のどこかだ。


 排水路から拾った若い羽毛を眺めていたヴェロニカが、塞がれた出入口へ視線を移した。


「鳥を探すだけじゃ駄目みたいね」


「次は?」


「これを隠した人を探す」


 若い羽と餌の痕跡は、この使われていない区画まで続いている。記録にない二羽目を隠すなら、これ以上都合のいい場所もなかった。


 そして、ここを使っている人間なら、正しい壁を知っている。

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