13.第3話① 無職探偵と解けないはずの石化
石になっていく身体では、視界より先に手足の感覚が消えるらしい。
ヴァレリヤンの指先は、すでに自分のものではない。両脚も床へ縫いつけられ、胸へ這い上がる冷たさだけが石化の進みを知らせてくる。それでも左目には、青銅の水盤と、その内側に映る二つの金色が見えていた。
叫ぼうとしても喉から出るのは細い息だけで、頬から顎へ回った石化が唇まで固めていく。
青銅を引っかく爪の音がしばらく続き、二つの金色と一緒に消えた。水盤の奥で、軽い羽音が遠ざかっていく。
今度は廊下の向こうから車輪が近づいてきた。床板の継ぎ目を越える小さな跳ね音に、何か重いものが床を擦る音が重なる。二つとも扉の外で止まった。
追うことも、瞼を閉じることもできなかった。靴音が遠ざかったあとも、胸の奥では心臓だけが動いていた。
* * *
王立魔獣養生院は、玄関だけなら立派だった。
白い石柱には王家の紋章が彫られ、その左右には寄進者の名前を刻んだ銅板が並ぶ。ところが中へ入れば、石壁には爪痕、廊下の隅には藁。薬草と獣の匂いまで混じっていた。
王立らしさは玄関で使い切ったらしい。
「遅い」
廊下の先で待っていたスヴャトスラフは、灰色の外套の下にいつもの胸甲を着け、朝から機嫌もいつもどおり悪そうだった。
「知らせを受けてすぐ来たよ」
「お前には言っていない」
隣でヴェロニカが足を止める。
「今回は私の名前も書いてあったでしょう」
「書いた。前回、書かなかったことをいつまでも言われるのが面倒だからな」
「改善ね」
「諦めだ」
「結果が同じなら問題ないわ」
そこは同じでいいらしい。
反論する代わりに、スヴャトスラフは治療室へ向かった。扉の上半分は割れ、中央から折れた太い閂が壁際に立てかけられている。
「発見時まで内側から掛かっていた。窓も閉まっている。壊して入った」
「完全密室とは言わないのね」
「学んだ」
「誰から?」
「お前以外から学ぶ機会が欲しい」
治療室の窓際には、灰白色の石になりかけた男が横たわっていた。石化は脚から腹を越え、胸の下まで達している。両腕も肘から先が固まり、帳簿をめくる途中だったらしい指が、その形のまま止まっていた。
顔にも石化が回っている。それでも左目だけは、私たちが入ってきた方へ動いた。
「ヴァレリヤン。王室会計の監察官だ」
寝台脇の白衣の女性は、こちらを見ずに細い銀針を胸へ当てていた。針の根元についた小さな水晶が、石化していない場所へ触れるたび赤く曇る。
「話しかけないでください」
「まだ何も言っていないわ」
「口を開いていました」
「話す前なら話しかけていないでしょう」
「ですから止めました」
ヴェロニカが口を閉じた。珍しく早い敗北だった。
「クセニヤです。石化治療を担当しています」
銀針を外し、そこで初めてこちらを見る。
「どこまで進んでるの?」
「胸までです。まだ心臓には届いていません」
「あと、どのくらい?」
「今夜まではもちません」
スヴャトスラフの眉間に皺が寄った。
「助かる?」
私が訊くと、クセニヤは寝台へ目を戻した。
「完全に石化を解除して、後遺症なく元の生活へ戻れるか、という意味ですか」
「生きて歩いて帰れるなら、まずはそれでいいよ」
「では、可能性はあります」
「治療って、言葉の意味から決めるんだね」
「決めないと、結果を間違えます」
真面目に言っている。
寝台へ近づいたヴェロニカが、石化した指先を覗き込んだ。
「コカトリスの涙を使うのね」
「はい」
「石化させた個体の?」
「それが最も有効です」
「それ以外では治らない?」
「治らないとは言っていません」
「もう面倒になってきた」
クセニヤは気にした様子もなく、小卓の空瓶を一本持ち上げた。
「別個体の涙でも進行を遅らせることはできます。浅ければ戻る場合もあります。ただ、コカトリスの石化には個体ごとの癖がある。深く進んだものを戻すなら、石化させた個体自身の涙が最も確実です」
「これは?」
「今朝使った分です」
空瓶は二本。口の周りに、乾いた透明な跡が残っている。
「誰の涙?」
答えたのはスヴャトスラフだった。
「グルーシャだ」
処置前室へ出ると、低い運搬台車の上に一羽のコカトリスが横たわっていた。
畳まれた翼の先から黒い尾羽が垂れ、胴だけでも私の腰ほどある。左脚は関節が固く曲がり、片目は白く濁っていた。
獣舎の仕事着を着た女性が、その首の下へ折った布を差し込んでいた。台車から垂れた尾羽を一本ずつ拾い、汚れた先を布で拭ってから胴の脇へ揃えていく。
「ミロスラヴァ。グルーシャの飼育担当だ」
「孵った日から見ています。二十二年です」
答えながら、今度は曲がった脚の下へ布を足した。
死骸の前へしゃがんだヴェロニカが、白濁した目を横から覗く。
「昨夜死んだ?」
「夜の餌を置いたときは生きていました」
「見たの?」
「餌を置いたときに」
「食べた?」
「二口です」
「少ないわね」
「昨日のグルーシャなら、食べた方です」
ミロスラヴァは嘴の端に残っていた餌を指で取った。
「一口目は自分で首を上げました。二口目は途中で眠くなって、しばらく咥えたままでしたけど」
「ずっと見ていたのね」
「食べるのが遅くなってからは」
廊下から足音が近づき、丸い腹を上等な衣服へ収めた男が入ってきた。胸元には養生院長の印章がある。
「監察官の容体は?」
スヴャトスラフが名乗らせる前に、男は治療室を覗き込んだ。
「悪いわ」
「あなたには聞いていない」
「なら、自分で見ればいいでしょう」
ヴェロニカに返され、男の眉がわずかに上がる。
「ドラゴミル院長だ」
今さら紹介された。
「王室の監察官が当院で亡くなれば、王家からの信用に関わる」
「まず本人の命には関わってるよ」
こちらを向いたドラゴミルは、叱るより説明する方を選んだ。
「信用を失えば患者も救えません。施設の信用と患者の生命は切り離せないのです」
一歩先どころか、三歩くらい先まで話が行った。
「院の信用はあとだ。昨夜のことを確認する」
スヴャトスラフが元へ戻し、ドラゴミルも不満そうな顔だけで引き下がった。
「ヴァレリヤンは一週間前からここを監査していた。昨日の夕方、飼育記録と実際の状態を照合すると言って、グルーシャを直接見ている」
「ここで?」
処置前室の床を見たミロスラヴァが頷く。
「ここまで歩かせました。ヴァレリヤン様は歩き方と目を見て、それから羽を何枚かめくっていました。終わったので、私はグルーシャを魔獣舎へ戻しました」
「ヴァレリヤンは?」
「帳簿を持って隣へ入っています」
折れた閂を示しながら、スヴャトスラフが続ける。
「監査中は、空いていたこの治療室を仕事部屋にしていた。毎晩、自分で内側から掛けていたらしい。帳簿の差し替えを防ぐためだ。今朝、決まった時刻になっても返却に来ず、職員が様子を見に来た。前室には死んだグルーシャ。治療室から返事はなく、閂も掛かったままだった」
「それで壊した?」
「ああ」
ドラゴミルが腕を組む。
「昨日の検分時に、グルーシャの目を見たのでしょう。老いたコカトリスの石化なら進行も遅い。本人が異常に気づかないまま部屋へ入り、一晩かけて症状が進んだと考えるのが自然です」
「だからグルーシャの涙を使ったのね」
「当然です」
治療室から銀針を置く音がした。
戻ってきたクセニヤが空瓶を一本取る。
「進行は遅くなっています。ただ、戻り方は弱いです」
「グルーシャ本人に石化されたなら?」
「もっと戻る可能性はあります」
「じゃあグルーシャじゃない?」
「それだけでは断定できません。保存した涙の状態や、患者側の差もあります」
「曖昧ね」
「正確です」
「その二つは両立するの?」
「します」
ヴェロニカが黙った。
「気が合わないみたいだね」
「まだ判断していないわ」
「私は済んでいます」
クセニヤは空瓶を戻し、治療室へ引っ込んだ。
「向こうは早いよ」
「判断材料が少なすぎるのよ」
たぶん材料は足りている。
死んだグルーシャをもう一度見たあと、ヴェロニカも治療室へ戻った。
「本人に訊きましょう」
「喋れないぞ」
「目は動く」
銀針を持っていたクセニヤの手が止まる。
「左眼球だけです。長く使わせないでください」
「質問はいくつまで?」
「三度。そこで止めます」
「十分ね」
「質問によります」
白と黒の小さな札が用意された。白が肯定、黒が否定。
ヴェロニカは二枚を、ヴァレリヤンの左目から無理なく見える位置へ置く。
「ヴァレリヤン。聞こえているなら、白を見て」
眼球がゆっくり動き、白い札へ止まった。
「便利ね。ナターリヤより返事が短いわ」
「石になってる人と比べないで」
「残り二度です」
クセニヤの声に、今度は何も返さなかった。
「昨日、あなたを石化させたのはグルーシャ?」
左目が動いた。
黒。
前室からミロスラヴァが一歩入ってくる。ヴェロニカは最後の一度をすぐには使わず、寝台の男を見たまま次の質問を選んでいた。
「あなたを石化させたのは、別のコカトリス?」
眼球が白へ動き、そこで止まる。
「もう動かさせないでください」
クセニヤが銀針を取り直した。
前室には死んだグルーシャがいる。飼育台帳にも、コカトリスは一羽しか載っていない。
「探すものが変わったね」
「ええ」
ヴェロニカは札を下ろし、治療室を見回した。
ヴァレリヤンの心臓が石になる前に、存在しない二羽目を見つけなければならなかった。




