第九話 怒らせる選手権
中学三年の春。
真司は、以前より静かな人間になっていた。
教室では目立たない。
休み時間も一人。
必要なこと以外は話さない。
誰かに何か言われても、笑う。
嫌なことをされても、反応しない。
それが自分を守る方法だと思っていた。
そして、いつの間にか。
高橋たちも、以前ほど真司に構わなくなっていた。
真司は安心していた。
このまま何も起きなければいい。
そう思っていた。
ある日の昼休み。
田中が突然言った。
「なあ、今日さ」
「何?」
「怒らせようぜ」
高橋が笑った。
「誰を?」
「佐伯」
真司は聞こえないふりをした。
「やめとけよ」
中村が言った。
「また先生に言われるよ」
「言わないって」
田中が笑った。
「もう言わないだろ、こいつ」
高橋が真司を見る。
「なあ?」
真司は答えなかった。
「ほら」
高橋が笑った。
「もう何も言わない」
それが始まりだった。
最初は小さかった。
真司の消しゴムを隠す。
教科書を少しずらす。
机の中に紙を入れる。
「M男」
真司は無視した。
次は、少し大きくなった。
弁当の箸を隠す。
椅子を別の場所に移動させる。
上履きを左右逆に並べる。
それでも真司は反応しない。
「つまんねえな」
田中が言った。
「もっとやろうぜ」
高橋が笑う。
「怒るまでやればいい」
その言葉を、真司は聞いていた。
けれど、何も言わなかった。
怒ったら負け。
そう思っていた。
次の日。
真司の机の中に、古いプリントが大量に詰め込まれていた。
授業のプリントではない。
誰かが丸めた紙。
破れたノート。
ゴミ。
真司は一つずつ取り出した。
周囲から笑い声。
「おい、M男」
高橋が言った。
「何?」
「怒らないの?」
「怒ってない」
「本当に?」
「うん」
「つまんねえな」
高橋は真司の机の横に立った。
そして、机を蹴った。
ガンッ。
真司は顔を上げた。
「……やめろよ」
高橋が笑った。
「怒った?」
「怒ってない」
「じゃあ、もう一回」
ガンッ。
「やめろ」
「もう一回」
ガンッ。
「やめろって」
「怒れよ」
「……」
「ほら」
真司は拳を握った。
爪が手のひらに食い込む。
それでも耐えた。
「つまんねえな」
高橋が言った。
「昔はもっと面白かったのに」
その言葉に、真司の胸が痛んだ。
昔。
小学生の頃。
「怒った顔、面白い」
そう言われた。
中学生になって、
「嫌がる演技」
と言われた。
今は、
「怒らせよう」
と言われている。
言葉は変わっても、やっていることは同じだった。
自分の反応を見て楽しんでいる。
真司は立ち上がった。
「もう、やめろよ」
「何?」
「本当にやめろ」
「怒った?」
「怒ってるよ」
その瞬間。
高橋が笑った。
「やった!」
「……何が?」
「怒った!」
周囲が一斉に笑った。
「やったじゃん!」
「佐伯、怒った!」
「今日の優勝、高橋!」
「何の……」
真司は言葉を失った。
田中が笑いながら言った。
「怒らせる選手権、開催!」
教室中が笑った。
誰かが机を叩いた。
「次、誰が一番早く怒らせられるかやろうぜ!」
真司はその場から離れた。
廊下へ出る。
誰も追ってこない。
階段を上る。
屋上へ続く踊り場まで行った。
そこに座り込む。
呼吸が乱れていた。
怒っている。
悲しい。
悔しい。
怖い。
全部だった。
けれど、一番強かったのは、
「何をしても笑われる」
という感覚だった。
しばらくして、チャイムが鳴った。
授業が始まる。
真司は教室へ戻った。
誰も何も言わなかった。
まるで何事もなかったように授業が進んだ。
先生が黒板に文字を書く。
生徒たちはノートを取る。
真司もノートを開いた。
そのとき、机の中に小さな紙があることに気づいた。
開く。
そこには、
「怒らせる選手権 優勝 佐伯」
と書かれていた。
真司は紙を折った。
捨てた。
そして授業を受けた。
その日の放課後。
担任の山本先生が教室に入ってきた。
「佐伯」
「はい」
「少し話せるか?」
廊下へ出る。
「最近、高橋たちと何かあったか?」
真司は一瞬迷った。
「……何もないです」
「本当に?」
「はい」
「今日、何か騒いでいたようだが」
「大丈夫です」
先生は真司を見る。
「無理してないか?」
真司は笑った。
「大丈夫です」
「そうか」
先生はそれ以上聞かなかった。
真司はその場を離れた。
階段を下りる。
一階へ向かう。
そこで、後ろから高橋の声がした。
「先生に言わなかったな」
真司は振り返った。
「……うん」
「偉いじゃん」
高橋が笑った。
「成長したな、M男」
真司は何も言わなかった。
「なあ」
高橋が続ける。
「俺たち、別にお前が嫌いだからやってるんじゃないんだぜ」
真司は黙っていた。
「面白いからやってるだけ」
その言葉に、真司は思った。
それが一番怖かった。
嫌いだからでもない。
恨んでいるからでもない。
ただ、
自分が嫌がることが面白い。
それだけ。
自分の苦しさが、
誰かの暇つぶしになっている。
真司は家へ帰った。
母が夕食を作っている。
「おかえり」
「ただいま」
「今日は遅かったね」
「先生と話してた」
母の手が止まった。
「何かあったの?」
「何もないよ」
「本当に?」
「うん」
真司は笑った。
母も笑った。
「そうならいいけど」
夕食を食べる。
テレビがついている。
ニュースの声が聞こえる。
家の中は普通だった。
学校で何が起きても、
家に帰れば普通の日常がある。
それだけが救いだった。
食事が終わり、自分の部屋へ戻る。
机に座る。
ノートを開く。
今日のことを書く。
――怒らせる選手権。
その下に、
――俺が怒ったら、みんな喜んだ。
少し考える。
そして、
――怒らなかったら、もっとやられる。
さらに書いた。
――どうすればいい?
答えは出なかった。
真司はペンを置いた。
窓の外を見る。
夜だった。
卒業まで、あと一年。
高校に行けば。
高校では、きっと変わる。
そう思った。
今度こそ。
誰も自分を知らない場所へ行けば。
今度こそ、
普通になれるかもしれない。
真司はその希望だけを抱えて眠った。
けれど。
彼はまだ知らなかった。
高校でも、
「M男」という名前が、
自分より先に教室へ入ってくることを。




