第八話 味方がいない
真司は、自分を変えようと思った。
翌朝から、笑うようにした。
高橋に何か言われても、反応しない。
何をされても、怒らない。
何を言われても、聞き流す。
それが一番いい。
そうすれば、きっと飽きる。
いじめが終わる。
そう思った。
教室に入る。
高橋がこちらを見た。
「おはよう、M男」
真司は笑った。
「おはよう」
高橋の眉が少し動いた。
「……何それ」
「何が?」
「いや、別に」
真司は席に座った。
今日は何も言わない。
何も気にしない。
そう決めていた。
数分後。
高橋が真司の机を蹴った。
ガンッ。
机が少し動く。
周囲が笑った。
真司は動かなかった。
「おい、M男」
無視。
「聞こえてる?」
無視。
「寝てんの?」
真司は教科書を開いた。
高橋は真司の机から筆箱を取った。
「これ、借りるわ」
真司は見た。
けれど何も言わない。
「……」
高橋が筆箱を振った。
「返してほしくないの?」
「……別に」
「本当に?」
「うん」
高橋はつまらなそうな顔をした。
「何だよ、今日」
田中が笑った。
「反応しなくなったんじゃね?」
「つまんねえな」
高橋は筆箱を机に放り投げた。
「何かやれよ」
真司は黙った。
昼休み。
高橋はまたやってきた。
「なあ」
「何?」
「昨日のこと、まだ気にしてる?」
「気にしてない」
「嘘だろ」
「本当に」
「じゃあ、M男って呼んでもいい?」
真司は一瞬だけ迷った。
そして言った。
「好きにすれば」
高橋が笑った。
「ほら」
「何?」
「やっぱりMじゃん」
真司は何も言わなかった。
「嫌じゃないんだろ?」
「……」
「ほら、否定しない」
「否定しても意味ないだろ」
高橋の笑顔が消えた。
「何?」
「何を言っても、Mって言うじゃん」
「……」
「嫌だって言っても演技って言う」
真司は高橋を見た。
「怒ったら面白がる」
「……」
「先生に言ったらチクりって言う」
「……」
「何をすればいいんだよ」
教室が静かになった。
高橋はしばらく真司を見ていた。
そして笑った。
「何もしなくていいんじゃね?」
真司は目を伏せた。
「そうする」
その日から。
真司は、自分から人と話さなくなった。
休み時間も席にいる。
昼休みも一人。
体育でも必要最低限しか話さない。
放課後も寄り道せず帰る。
周囲から見れば、
「大人しくなった」
それだけだった。
しかし真司の中では違った。
誰かと話すことが怖かった。
冗談を言われるのが怖い。
笑われるのが怖い。
何かを説明するのが怖い。
「嫌だ」と言うことさえ怖い。
だから、
何も言わない。
それが一番安全だった。
ある日の放課後。
教室に残っていると、中村美紀が声をかけてきた。
「佐伯君」
「……何?」
「最近、静かだね」
「そう?」
「うん」
美紀は少し迷ってから言った。
「高橋君のこと、まだ気にしてる?」
「……別に」
「本当に?」
「うん」
美紀は椅子を引いて座った。
「私ね」
「……」
「高橋君たち、悪気はないと思うよ」
真司は黙った。
「みんな、冗談だと思ってるし」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥が冷たくなった。
「……俺は冗談だと思ってない」
美紀は少し困った顔をした。
「でも、みんなそう思ってるよ」
「みんな?」
「うん」
「……じゃあ、俺がおかしいの?」
「そういう意味じゃないよ」
「じゃあ、どういう意味?」
「ただ……」
美紀は言葉を探した。
「佐伯君も、もう少し気にしなければいいんじゃない?」
真司は笑った。
「うん」
「……」
「そうする」
美紀が帰ったあと。
真司は一人で教室に残った。
窓の外を見る。
夕方の校庭。
部活動の声。
笑い声。
走る足音。
全部が遠く感じた。
「みんな冗談だと思ってる」
その言葉が頭から離れなかった。
自分だけがおかしい。
自分だけが気にしすぎている。
自分だけが弱い。
そう思えば、すべて説明できた。
その方が楽だった。
高橋が悪い。
先生が悪い。
周りが悪い。
そう考えるより、
「自分が弱い」
と思った方が、まだ納得できた。
その夜。
真司は母に言った。
「俺って、変かな?」
母は驚いた。
「どうしたの?」
「いや……何となく」
「そんなことないよ」
「本当に?」
「うん」
母は真司の顔を見た。
「学校で何か言われた?」
真司は首を横に振った。
「何もない」
「そう?」
「うん」
母はそれ以上聞かなかった。
真司は自分の部屋に戻った。
机の引き出しを開ける。
紙を取り出す。
「M男」
「チクり魔」
「被害者」
そして新しく書いた紙。
「変な奴」
真司はその紙を見つめた。
自分で書いたわけではない。
誰かが書いたものだ。
なのに、今では自分でもそう思えてくる。
紙を握りつぶした。
その瞬間。
涙が落ちた。
一滴。
また一滴。
真司は慌てて拭った。
「泣くな」
誰もいない部屋で、自分に言った。
「泣いたら、また笑われる」
涙を拭く。
「怒るな」
「怒ったら、面白がられる」
「言うな」
「言ったら、チクりって言われる」
そして最後に、
「誰にも言うな」
そう呟いた。
それが一番安全だった。
翌日。
学校で小さな事件が起きた。
真司の机に、落書きがあった。
「M男」
その文字を見つけた先生が言った。
「誰が書いた?」
教室が静かになる。
先生は全員を見回した。
「書いた人、正直に言いなさい」
誰も答えない。
真司も黙っていた。
先生が真司を見る。
「佐伯、何か知らないか?」
「……知らないです」
「本当に?」
「はい」
高橋が笑った。
「俺じゃないですよ」
田中も、
「俺も」
中村も首を振った。
結局、誰が書いたのか分からなかった。
先生は黒板消しで机の文字を消した。
「もう、こういうことはやめるように」
それだけだった。
授業が始まる。
真司は消された机を見た。
黒板消しの跡が残っている。
完全には消えていない。
文字の形が、薄く残っていた。
真司はそれを指でなぞった。
すると、高橋が後ろから小さく言った。
「先生に言わないの?」
真司は振り返らなかった。
「……言わない」
「何で?」
「言っても何も変わらないから」
高橋は笑った。
「分かってきたじゃん」
その言葉に、真司の胸が痛んだ。
放課後。
真司は一人で帰った。
家に着いて、玄関を開ける。
母が言った。
「おかえり」
「ただいま」
「今日も疲れた?」
「うん」
「ご飯、もう少しでできるよ」
「分かった」
自分の部屋に入る。
鞄を置く。
制服を脱ぐ。
机に座る。
ノートを開く。
これまで何度も書いた。
「俺はMじゃない」
「嫌だ」
「やめてほしい」
「助けて」
でも、どれだけ書いても何も変わらなかった。
真司はページをめくった。
そして、新しいページに書いた。
――誰にも言わない。
その下に、
――何も感じない。
さらに、
――何も言わない。
そこでペンが止まった。
最後に、一行だけ書いた。
――俺には味方がいない。
真司はその文字を見つめた。
本当にそうなのかは分からない。
母は味方かもしれない。
先生も、本当は助けようとしているのかもしれない。
中村も悪気はなかったのかもしれない。
それでも。
真司には、
「自分の痛みを分かってくれる人」
が一人もいないように思えた。
誰かに言えば、迷惑をかける。
先生に言えば、チクりになる。
友達に言えば、笑われる。
母に言えば、心配をかける。
だから。
一人で抱えるしかない。
真司はノートを閉じた。
その日から、
「助けて」
という言葉を、
真司は口にしなくなった。
それが、
彼にとっての「普通」になっていった。




