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M男は辛いよ  作者: こうた
第三章 「卒業」

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第十話 誰も見ていない

中学三年の夏。


真司は、できるだけ目立たないように生活していた。


教室では静かにする。


休み時間は席を離れない。


体育では必要以上に動かない。


誰かに話しかけられたら、普通に答える。


笑う。


怒らない。


反論しない。


先生に相談もしない。


それでも。


いじめはなくならなかった。


むしろ、形を変えて残った。


「佐伯」


ある日の放課後。


高橋が声をかけた。


「何?」


「ちょっと来て」


「どこ?」


「いいから」


真司は嫌な予感がした。


「帰るから」


「すぐ終わるって」


高橋の後ろには田中がいた。


二人とも笑っている。


「……何するの?」


「何もしないって」


その言葉を聞いても、真司は動かなかった。


高橋がため息をついた。


「お前さ」


「……」


「いつからそんな警戒するようになった?」


「別に」


「昔はもっと素直だったじゃん」


その言葉に、真司は少しだけ胸が痛んだ。


昔。


自分が何も知らなかった頃。


何をされても、それが「遊び」だと思っていた頃。


高橋は真司の肩を軽く叩いた。


「来いよ」


結局、真司はついていった。


校舎の裏。


普段、先生がほとんど来ない場所だった。


「何?」


真司が聞いた。


高橋は笑った。


「別に」


「じゃあ、帰る」


真司が振り返った。


その瞬間。


田中が真司の鞄を取った。


「ちょっと待てよ」


「返して」


「嫌だ」


「返してよ」


「何で?」


「帰るから」


「じゃあ取り返せば?」


田中が鞄を高く持ち上げた。


真司は手を伸ばした。


届かない。


「返して」


「もっと言って」


「返してよ」


「お願いは?」


「……返してください」


二人が笑った。


「M男、敬語になってる」


「返してくださいだって」


真司は顔を赤くした。


「もういいだろ」


「怒った?」


「怒ってない」


「じゃあ、もう一回」


「……返して」


「嫌だ」


何度も繰り返された。


最後に田中が鞄を放った。


地面に落ちる。


真司は拾い上げた。


中身が少し出ていた。


教科書。


筆箱。


ノート。


拾っていると、高橋が言った。


「なあ」


真司は答えなかった。


「ここで起きたこと、先生に言う?」


真司の手が止まった。


「……言わない」


「何で?」


「言っても無駄だから」


「偉いじゃん」


高橋は笑った。


「じゃあ誰にも言うなよ」


真司は立ち上がった。


「うん」


その場を離れた。


校門を出る。


夕方の道路を歩く。


真司は思った。


先生は知らない。


母も知らない。


クラスの大半も知らない。


つまり。


誰も見ていない。


だから、


何も起きていないことになってしまう。


それが怖かった。


翌週。


今度は教室だった。


授業が終わり、先生が出ていった直後。


高橋が真司の机の横に立った。


「なあ」


「何?」


「この前の話」


「……」


「誰にも言ってない?」


「言ってない」


「本当に?」


「うん」


「じゃあ大丈夫だな」


高橋は笑った。


真司はその言葉を聞いて、妙な気持ちになった。


大丈夫。


何が大丈夫なのだろう。


何かをされた人間が、


何も言わなければ大丈夫。


誰にも見られていなければ大丈夫。


そんなルールができている。


その日の帰り。


中村美紀が真司の隣を歩いた。


「佐伯君」


「何?」


「最近、高橋君たちと仲いいね」


「……え?」


「一緒にいるから」


「仲良くないよ」


「そう?」


「うん」


美紀は少し笑った。


「でも、前より喧嘩しなくなったじゃん」


真司は何も言わなかった。


「だから、よかった」


「……そうだね」


違う。


喧嘩しなくなったんじゃない。


諦めただけだ。


そう言いたかった。


けれど言わなかった。


数日後。


体育の授業で、真司は足を滑らせた。


転んだ。


周囲から笑い声が起きた。


「M男、転んだ!」


真司は立ち上がった。


膝が痛い。


でも、笑った。


「大丈夫」


先生が遠くから声をかけた。


「佐伯、大丈夫か?」


「大丈夫です」


先生はそれ以上見なかった。


授業は続いた。


そのとき真司は思った。


痛いと言っても、


「大げさ」


と言われるかもしれない。


嫌だと言っても、


「演技」


と言われるかもしれない。


だから、


大丈夫と言う。


その言葉が、


自分を守るための癖になっていた。


秋。


高校受験の話が始まった。


進路希望調査。


真司は志望校の欄を埋めた。


高校。


そこには、今の同級生がほとんど進学しない学校を書いた。


ここなら。


誰も自分を知らない。


「M男」と呼ぶ人もいない。


過去を知らない人ばかり。


真司はそれだけを希望にしていた。


家で母に話す。


「この高校に行きたい」


「いいんじゃない?」


「ここなら、知ってる人が少ないから」


母は笑った。


「新しい友達もできるね」


「……うん」


その夜。


真司は久しぶりに未来のことを考えた。


高校生になった自分。


新しい制服。


新しい教室。


新しい友達。


誰にも過去を知られていない自分。


そこでは、


「M男」ではなく、


「佐伯真司」


として生きられる。


そう思った。


そして冬。


卒業が近づいた。


卒業文集を書くことになった。


テーマは、


「中学校生活を振り返って」。


クラスメイトは楽しそうに書いていた。


「体育祭が楽しかった」


「修学旅行が思い出」


「友達と過ごした時間」


真司はペンを持ったまま、何も書けなかった。


三年間。


何があった?


思い出したくないことばかりだった。


それでも、何か書かなければならない。


真司は、


「楽しかったです」


と書いた。


たったそれだけ。


教師が集めた。


「佐伯、もう少し書いてもいいぞ」


「大丈夫です」


「そうか」


先生はそのまま去っていった。


また、


大丈夫。


真司はその言葉を書き続けていた。


卒業式の日。


体育館には、全校生徒が集まっていた。


校長の話。


在校生の送辞。


卒業生の答辞。


そして、


卒業証書。


真司は名前を呼ばれた。


「佐伯真司」


「はい」


壇上へ歩く。


証書を受け取る。


拍手。


席へ戻る。


それだけだった。


式が終わる。


教室へ戻る。


黒板には、


「卒業おめでとう」


と書かれていた。


何人かが泣いている。


笑っている。


写真を撮っている。


高橋も友達と笑っていた。


真司は教室の隅に立っていた。


高橋が近づいてきた。


「佐伯」


「何?」


「三年間、お疲れ」


「……うん」


「高校行っても頑張れよ」


「高橋も」


二人は少しだけ笑った。


高橋が手を差し出した。


真司は迷った。


そして握手した。


「じゃあな」


「うん」


高橋は友達のところへ戻った。


真司はその背中を見た。


これで終わり。


そう思った。


三年間。


長かった。


でも今日で終わる。


明日からは、


新しい生活。


帰宅してから、真司は机の引き出しを開けた。


そこには、これまで集めた紙が入っていた。


「M男」


「チクり魔」


「変な奴」


「被害者」


何枚もある。


真司はそれらを一枚ずつ見た。


そして、最後の一枚を取り出した。


――お前がMだから悪い。


真司はその紙を破った。


一度。


二度。


細かく。


ゴミ箱へ捨てる。


これで終わり。


そう思った。


けれど。


その夜、眠りについた真司の頭の中には、


高橋の声が残っていた。


――M男。


目を閉じても消えない。


朝になっても消えない。


学校を卒業しても。


その声だけは、


真司の中から卒業しなかった。

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