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M男は辛いよ  作者: こうた
第三章 「卒業」

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第十一話 卒業アルバム

高校に入学してから、三か月が経った。


真司は、毎朝同じことを考えていた。


――今日は何も起きませんように。


それだけだった。


中学校とは違う制服。


違う校舎。


違う先生。


知らない顔ばかりの教室。


高橋もいない。


田中もいない。


中村もいない。


誰も真司を知らない。


最初の頃は、それだけで嬉しかった。


「佐伯君って、どこ中?」


「王寺」


「へえ」


「部活どうする?」


「まだ決めてない」


「じゃあ、一緒に見に行こうよ」


普通の会話。


普通の笑い声。


普通の高校生活。


真司は、それが嬉しかった。


自分も普通になれる。


そう思った。


しかし、少しずつおかしなことが起き始めた。


誰かが後ろから肩を叩く。


それだけで体が固まる。


教室で笑い声が聞こえる。


自分のことを笑っているような気がする。


男子同士がふざけ合っている。


その声を聞くだけで、胸が苦しくなる。


ある日、クラスメイトが冗談で言った。


「佐伯って、怒らなそうだよな」


真司は笑った。


「そうかな」


「うん。何されても笑ってそう」


一瞬。


頭の中が真っ白になった。


「……そうかも」


笑って答えた。


相手は何も気にしていない。


ただの会話だった。


それなのに。


真司の中では、昔の声が重なっていた。


――怒れよ。


――ほら、怒った。


――面白い。


その夜。


真司は眠れなかった。


布団の中で何度も寝返りを打った。


高校では何も起きていない。


誰も自分をいじめていない。


それなのに。


怖い。


何かが始まりそうな気がする。


誰かが突然、


「M男」


と呼ぶ気がする。


そんなことは起きなかった。


翌朝。


真司は鏡を見た。


「大丈夫」


また、その言葉が出た。


高校生活は、少しずつ普通になっていった。


友達もできた。


昼休みに一緒に弁当を食べる。


放課後に寄り道する。


休日に遊ぶ。


笑う。


真司は少しずつ安心していった。


もしかしたら、本当に終わったのかもしれない。


あの三年間は、もう過去なのだ。


そう思える日もあった。


高校三年の冬。


卒業アルバムが配られた。


クラス全員が自分のページを探している。


「見せて」


「お前、写真写り悪いな」


「これ誰だよ」


笑い声。


真司もアルバムを開いた。


集合写真。


文化祭。


体育祭。


修学旅行。


何枚もの写真。


その中に、自分がいる。


普通の高校生。


誰も「M男」と呼ばない。


誰も過去を知らない。


真司は少しだけ笑った。


「普通だ」


小さく呟いた。


そのとき。


後ろから声がした。


「佐伯」


「何?」


「中学の卒アル見せてよ」


「……え?」


「どんな学校だったの?」


「別に……普通だよ」


「見たい」


「いいけど」


真司は鞄の中から中学校の卒業アルバムを出した。


ページをめくる。


クラス写真。


そこに高橋がいた。


田中もいる。


中村もいる。


真司自身もいる。


「これ?」


「うん」


友人が写真を見ながら言った。


「へえ。結構楽しそうじゃん」


真司は答えなかった。


「この高橋ってやつ、友達?」


「……同級生」


「仲良かった?」


真司は少し考えた。


「普通」


「そうなんだ」


友人は何も知らない。


だから、普通に聞いた。


それだけだった。


アルバムを閉じた。


真司はそれを鞄にしまった。


その日の帰り。


一人で歩きながら思った。


もし誰かに全部話したら、どうなるだろう。


中学時代。


何をされたのか。


何を言われたのか。


何度「嫌だ」と言ったのか。


先生に相談したこと。


「チクり魔」と呼ばれたこと。


自分が少しずつ壊れていったこと。


話せるかもしれない。


そう思った。


けれど、口には出せなかった。


「もう昔のことだから」


そう自分に言い聞かせた。


高校卒業の日。


友人たちと写真を撮った。


「また遊ぼうな」


「大学行っても連絡する」


「就職したら飲みに行こう」


真司も笑った。


「うん」


帰宅すると、母が待っていた。


「卒業おめでとう」


「ありがとう」


母はアルバムを見た。


「大きくなったね」


「そうかな」


「うん」


真司は笑った。


その夜。


母が寝たあと。


真司は一人で中学校の卒業アルバムを開いた。


高橋の写真。


田中の写真。


自分の写真。


全員、笑っている。


写真の中では、


誰も傷ついていない。


誰も怒っていない。


誰も泣いていない。


ただの、


「楽しかった三年間」


に見える。


真司は写真を指でなぞった。


そして、ふと思った。


高橋たちは、


あの三年間をどう覚えているのだろう。


自分と同じように覚えているのだろうか。


夜遅く。


真司はアルバムを閉じた。


そのとき、ページの間から一枚の紙が落ちた。


拾い上げる。


見覚えのある字。


――M男。


中学校の卒業式の日。


高橋が机に入れていた紙だった。


真司はしばらく、それを見つめた。


高校を卒業した。


中学校も卒業した。


小学校も、とっくに卒業した。


なのに。


この紙だけは、


まだここにある。


真司は紙を破ろうとした。


しかし、手が止まった。


なぜか捨てられなかった。


その紙を、アルバムの最後のページに挟んだ。


そしてアルバムを閉じた。


「もう終わったことだ」


そう言った。


けれど。


自分でも、その言葉を信じていないことが分かっていた。


数年後。


真司は社会人になる。


さらに年月が過ぎる。


周りの人間は、結婚していく。


仕事を始める。


家を買う。


子どもを育てる。


それぞれの人生を進んでいく。


真司も進んでいるつもりだった。


仕事をする。


給料をもらう。


休日を過ごす。


人と付き合う。


笑う。


それでも。


誰かに強い口調で言われると、体が固まった。


上司に注意されると、


「すみません」


と必要以上に謝った。


同僚に冗談を言われると、


「大丈夫です」


と笑った。


女性から好意を向けられても、


「自分なんか」


と思った。


誰かと親しくなると、


いつか嫌われる気がした。


だから距離を取った。


そして気づけば、


一人になっていた。


本人には、


それが「いじめの後遺症」だとは分からなかった。


ただ、


自分はこういう人間なのだ。


そう思っていた。


そして年月だけが過ぎていった。


1988年。


真司は高校を卒業した。


その日。


真司は思った。


――これで、本当に終わる。


けれど、


終わったのは、


学校という場所だけだった。


真司の中に残ったものは、


その後の人生へ持ち越されていった。

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