第十二話 1988年
1988年。
春。
桜が咲いていた。
真司は駅のホームに立っていた。
高校の制服ではない。
私服だった。
卒業式から、まだ数日しか経っていない。
これから新しい生活が始まる。
就職する友人。
進学する友人。
それぞれが別々の道へ進んでいく。
駅のホームで、友人と話していた。
「また遊ぼうな」
「うん」
「連絡するわ」
「待ってる」
笑った。
電車が来る。
友人が乗り込む。
「じゃあな!」
「またな!」
扉が閉まる。
電車が走り出す。
真司は手を振った。
電車が見えなくなるまで。
そして、一人になった。
風が吹いた。
桜の花びらが一枚、線路へ落ちた。
真司は空を見上げた。
「終わったんだ」
誰に言うでもなく、呟いた。
中学校。
高校。
そして、あの三年間。
全部終わった。
もう、高橋に会わなくていい。
もう、田中に会わなくていい。
もう、
「M男」
と呼ばれることもない。
真司は家に帰った。
部屋の机の上には、卒業アルバムが置いてある。
開く。
高校の写真。
笑っている自分。
友人たち。
そして、最後のページ。
そこには何もない。
真司はアルバムを閉じた。
「これからだ」
そう言った。
翌週。
仕事が始まった。
最初は何も問題がなかった。
周りは優しかった。
先輩も仕事を教えてくれた。
分からないことを聞けば、教えてくれる。
真司は安心した。
「学校とは違う」
そう思った。
ところが。
ある日、仕事でミスをした。
上司が言った。
「佐伯、ここ違うぞ」
「すみません」
「ちゃんと確認しろよ」
「はい」
それだけだった。
普通の注意。
誰にでもあること。
けれど。
真司の胸は激しく鳴った。
怒られる。
嫌われる。
また何か言われる。
頭の中に、昔の教室が浮かんだ。
――怒った?
――演技?
――M男。
「……すみません」
上司が言った。
「いや、そこまで謝らなくていい」
「はい」
「次から気をつけて」
「はい」
上司が離れていく。
真司は深く息を吐いた。
大丈夫。
ここでは誰も自分を笑っていない。
分かっている。
それでも怖かった。
その夜。
家に帰る。
鞄を置く。
夕食を食べる。
テレビを見る。
普通の生活。
けれど、眠る前になると、また思い出す。
中学校。
体育館。
教室。
高橋。
田中。
あの声。
真司は布団の中で目を閉じた。
「もう終わった」
そう呟く。
「もう終わったんだ」
もう一度。
それでも頭の中では、
「M男」
という声が聞こえた。
真司は布団を頭までかぶった。
それでも消えなかった。
翌朝。
仕事へ行く。
駅で人とぶつかった。
「すみません」
相手が謝る。
「大丈夫です」
真司も謝る。
その会話だけで終わった。
なのに真司は、しばらく動けなかった。
何も起きていない。
誰も怒っていない。
誰も笑っていない。
それでも体が緊張していた。
真司は気づいていなかった。
学校で学んだのは、
「人は怖い」
ということだった。
もっと正確に言えば、
「自分の気持ちを言えば、誰かに否定される」
ということだった。
それは卒業しても消えなかった。
年月が過ぎる。
1990年。
真司は20歳になった。
周りには恋人ができ始めた。
友人から、
「お前も彼女作れよ」
と言われる。
真司は笑う。
「俺はいいよ」
「何で?」
「忙しいから」
本当は違った。
誰かと付き合うことが怖かった。
自分の弱いところを見られるのが怖い。
嫌われるのが怖い。
怒られるのが怖い。
だから最初から距離を置く。
それが楽だった。
2000年。
30歳。
周囲には結婚する人が増えた。
同窓会の案内が届いた。
中学校の同窓会。
真司は封筒を開けた。
日時。
場所。
参加者。
名前の一覧。
そこに、
高橋恒一。
田中恒一郎。
中村美紀。
名前があった。
真司はしばらく紙を見つめた。
参加するか。
迷った。
会ってみたい気持ちもあった。
自分が変わったことを見せたい。
もう昔とは違う。
そう思った。
しかし、
封筒を閉じた。
欠席に丸をつけた。
それでいい。
過去とは関わらない。
そう決めた。
2010年。
40歳。
真司は仕事をしていた。
周囲から見れば、普通の生活だった。
しかし、人付き合いは少なかった。
友達も少ない。
恋人もいない。
家族もいない。
休日は一人。
それでも、
「これが自分の人生」
と思っていた。
ある夜。
部屋を整理していると、古い箱が出てきた。
中には、
卒業アルバム。
昔のノート。
そして、
一枚の紙。
――M男。
真司はその紙を見た。
何十年も前のものだった。
紙は黄ばんでいた。
字も少し薄くなっている。
それでも読めた。
真司は笑った。
「まだ持ってたのか」
自分でも驚いた。
捨てればいい。
そう思った。
でも、
捨てられなかった。
なぜなのか。
自分でも分からなかった。
その夜、久しぶりにノートを開いた。
そこには、少年だった自分の文字が残っていた。
――俺はMじゃない。
――嫌だった。
――やめてほしい。
――助けて。
最後のページには、
――俺には味方がいない。
真司はその文字を見つめた。
何十年も前の自分。
まだ少年だった自分。
その少年が、
今の自分を見ているような気がした。
「……ごめんな」
真司は呟いた。
何に対して謝っているのか、自分でも分からなかった。
助けてやれなかったこと。
誰にも言えなかったこと。
我慢させたこと。
それとも。
もっと早く忘れられなかったこと。
分からない。
ただ、
「ごめんな」
としか言えなかった。
そして2020年。
真司は50歳になった。
世の中は、新型コロナウイルスの影響で大きく変わっていた。
街から人が減った。
仕事も生活も変わった。
人と会う機会が減った。
一人でいる時間が増えた。
真司にとって、
「一人でいること」
は珍しくなかった。
けれど。
その年は、
少し違った。
昔の記憶が、
妙に鮮明になっていた。
50歳。
半世紀。
真司は思った。
自分の人生は、
いつからこんなふうになったのだろう。
答えは分かっていた。
けれど、
その答えを認めることが怖かった。
ある日。
古い卒業アルバムを開いた。
中学校の写真。
高校の写真。
小学校の写真。
写真の中の少年は笑っている。
真司は、その少年を見つめた。
「お前は悪くなかったよ」
初めて。
はっきりと言った。
「嫌だって言ってた」
「やめてって言ってた」
「助けてって思ってた」
「それでも誰も聞かなかっただけだ」
涙が落ちた。
写真が滲んだ。
真司は手で拭った。
そのとき、
電話が鳴った。
昔の同級生からだった。
名前を見る。
伊藤。
中学校時代の同級生。
何十年も話していない。
真司は迷った。
そして電話に出た。
「もしもし」
『おお、佐伯?』
「……久しぶり」
『久しぶりだなあ』
声は昔と変わらなかった。
『今度さ、何人かで集まろうって話になってるんだよ』
「……そうなんだ」
『お前も来ない?』
真司は黙った。
電話の向こうから笑い声が聞こえる。
『懐かしいぞ』
そして。
伊藤が言った。
『そういや高校の頃さ』
少し笑って、
『M男っていたよな』
真司の呼吸が止まった。
『あれ、お前だっけ?』
真司は何も言えなかった。
電話の向こうで、
伊藤が笑った。
『いや、違ったっけ?』
真司は目を閉じた。
50歳。
あの日から、
32年。
それでも。
その言葉は、
一瞬で少年だった自分を連れ戻した。
――M男。
真司は小さく答えた。
「……俺だよ」
電話の向こうが少し静かになった。
『ああ、そうだっけ』
その声には、
何の悪意もなかった。
それが、
一番苦しかった。




