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M男は辛いよ  作者: こうた
第四章 「終わらないいじめ」

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第十三話 大人になれば

「大人になれば、忘れるよ」


昔、誰かに言われた気がする。


真司は、その言葉を何度も思い出していた。


大人になれば。


学校を卒業すれば。


働くようになれば。


新しい人間関係ができれば。


昔のことなんて、どうでもよくなる。


そう思っていた。


いや。


そう思いたかった。


二十歳になった頃。


真司は自分に言い聞かせていた。


もう子どもじゃない。


もう誰かにからかわれて泣くような年齢じゃない。


嫌なことがあれば、自分で断ればいい。


仕事をして、金を稼いで、自分で生活する。


それが大人というものだ。


だから、


「大丈夫」


だと思っていた。


けれど。


現実は違った。


職場で誰かが大きな声を出すと、体が固まる。


自分に向けられた声ではなくても、


「怒られる」


と思ってしまう。


誰かが笑っていると、


「自分のことを笑っているのではないか」


と思う。


複数人が集まって話していると、


「自分の悪口を言っているのではないか」


と考える。


そんな自分を、


真司自身が嫌っていた。


ある日。


職場の休憩時間。


同僚たちがテレビを見ながら笑っていた。


「お前、真面目すぎるんだよ」


一人が真司に言った。


冗談だった。


真司にも分かった。


「そうかな」


「そうだよ。もっと適当でいいって」


「……うん」


「何だよ、その返事」


みんなが笑った。


真司も笑った。


「あはは」


その場では、それで終わった。


しかし。


帰宅してからも、その会話が頭から離れなかった。


真面目すぎる。


変なのか。


嫌われたのか。


何か間違えたのか。


何度も思い返す。


そして、昔の記憶が重なった。


――その顔、面白い。


――怒った?


――M男。


真司は頭を振った。


「違う」


誰も自分をいじめていない。


分かっている。


なのに、


「嫌われたかもしれない」


という恐怖だけが残る。


それから真司は、


人と話すときに相手の顔色を見るようになった。


声の大きさ。


表情。


口調。


少しでも相手が不機嫌そうに見えると、


「すみません」


と言う。


何も悪くなくても、


「すみません」


と言う。


ある日、同僚に言われた。


「佐伯って、よく謝るよな」


真司は笑った。


「癖なんだ」


「何で?」


「さあ」


本当の理由を話すことはできなかった。


話したところで、


何と言えばいいのか分からない。


小学生の頃。


中学生の頃。


高校生の頃。


「M男」と呼ばれていた。


「嫌だ」と言った。


「やめて」と言った。


「本当に嫌なんだ」と言った。


それでも、


「嫌がってる演技」


と言われた。


先生に言えば、


「チクった」


と言われた。


黙れば、


「肯定した」


と言われた。


怒れば、


「面白い」


と言われた。


泣けば、


「演技」


と言われた。


逃げれば、


「弱い」


と言われた。


何をしても、


自分が悪いことになった。


だから。


真司は大人になってから、


「自分の気持ちを主張する」


ということができなくなっていた。


嫌でも、


「大丈夫」


と言う。


苦しくても、


「大丈夫」


と言う。


断りたくても、


「いいよ」


と言う。


そして、


家に帰ってから後悔する。


どうして断れなかったんだろう。


どうして嫌と言えなかったんだろう。


どうして、


もっと自分を守れなかったんだろう。


そんなことを何度も考える。


けれど。


それは、


「嫌と言えなかった」


のではなかった。


真司は、


何度も言っていた。


「嫌だ」


と。


ただ、


誰も聞かなかった。


その記憶が、


大人になった真司の中に残っていた。


ある冬の日。


会社で飲み会があった。


真司は参加した。


断るのが怖かったからだ。


店の中は騒がしかった。


酒が入り、みんなの声が大きくなる。


誰かが真司の肩を叩いた。


「佐伯!」


「はい」


「お前、昔からこんな感じ?」


「こんな感じって?」


「何かさ、怒らなそうじゃん」


周囲が笑った。


真司も笑った。


「まあ……」


「怒ってみろよ」


冗談だった。


ただの冗談。


誰も悪意はない。


それでも、


胸が苦しくなった。


「怒ってみろよ」


その言葉が、


昔の教室と重なった。


――怒らせる選手権。


真司の手が震えた。


「どうした?」


「いや……何でもない」


「顔怖いぞ」


笑い声。


真司は笑った。


「ごめん」


「何で謝るんだよ」


「……分からない」


その夜。


帰り道。


真司は一人で歩いた。


街灯の下で、自分の影を見る。


影は細長く伸びていた。


「大人になれば」


真司は呟いた。


「忘れると思ってた」


誰も答えない。


「学校を卒業すれば」


歩く。


「仕事を始めれば」


歩く。


「歳を取れば」


歩く。


「全部、どうでもよくなると思ってた」


足を止める。


「……ならなかった」


その言葉を口にした瞬間。


真司は初めて、


自分が長い間、


同じ場所に立ち続けていたことに気づいた。


1988年。


学校は終わった。


制服も捨てた。


教室もなくなった。


先生もいなくなった。


高橋も、


田中も、


もう自分の目の前にはいない。


それなのに。


真司の中には、


まだ教室があった。


まだ机があった。


まだ黒板があった。


まだ、


「M男」


という声が聞こえていた。


そして何より。


そこには、


「嫌だ」


と言っている少年が、


ずっと立っていた。


真司は目を閉じた。


「……もういいだろ」


少年に向かって言う。


「もう終わったんだ」


けれど。


少年は答えない。


真司は知らなかった。


過去というものは、


時間が経てば消えるとは限らない。


傷つけられた側だけが、


その続きを生きてしまうことがある。


1988年。


学校でのいじめは終わった。


けれど。


真司の中では、


まだ終わっていなかった。

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