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M男は辛いよ  作者: こうた
第四章 「終わらないいじめ」

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第十四話 普通になれない

「普通になりたい」


真司は、何度この言葉を心の中で繰り返しただろう。


普通に仕事をする。


普通に友達を作る。


普通に恋人ができる。


普通に結婚する。


普通に家族を作る。


普通に笑う。


普通に怒る。


普通に、


「嫌だ」


と言う。


それだけでいい。


特別なことなんて望んでいなかった。


けれど。


その「普通」が、


真司には遠かった。


二十代の頃。


会社の同僚から飲みに誘われた。


「佐伯、今日飲みに行こうぜ」


「今日は……」


断ろうとした。


けれど、


「何だよ、付き合い悪いな」


その一言で、


「行く」


と言ってしまった。


店に入る。


酒を飲む。


周囲が騒ぐ。


真司は笑っていた。


楽しいわけではない。


けれど、


楽しそうにする。


誰かが話せば笑う。


誰かが冗談を言えば笑う。


誰かが嫌なことを言っても笑う。


笑っていれば、


何も起きない。


そう思っていた。


ある日。


同僚の一人が言った。


「佐伯ってさ、何考えてるか分からないよな」


真司は笑った。


「そうかな」


「うん。いつも人に合わせてる感じ」


「……そうかも」


「もっと自分出せばいいのに」


真司は返事をしなかった。


自分。


自分を出す。


それが怖かった。


小学生の頃。


自分が嫌だと言ったら、


「怒った」


と笑われた。


中学生の頃。


助けを求めたら、


「チクり魔」


と呼ばれた。


高校生の頃。


黙っていれば、


「何も言わないならいいんだろ」


と言われた。


だから、


自分を出すということは、


攻撃されることと同じだった。


三十歳になった頃。


友人から結婚式の招待状が届いた。


真司は出席した。


会場には昔の友人たちもいた。


みんな変わっていた。


髪型。


服装。


顔つき。


仕事。


家庭。


それぞれの人生を歩いている。


「子どもが二人いる」


「今、家買ったんだ」


「仕事忙しくてさ」


そんな話が聞こえる。


真司は笑った。


「すごいな」


「佐伯は?」


「俺?」


「結婚しないの?」


真司は少し考えて、


「縁がなくて」


と答えた。


本当は違った。


何度か恋人はできた。


けれど、


長続きしなかった。


相手が少し不機嫌になる。


それだけで、


真司は不安になった。


嫌われた。


何か怒らせた。


謝らなければ。


「ごめん」


「何が?」


「いや……」


「何で謝ってるの?」


答えられない。


ある女性には、


こう言われた。


「真司さんって、優しいけど……」


そこで言葉が止まった。


「けど?」


「何か、遠い」


真司は笑った。


「そうかな」


「うん」


彼女は少し寂しそうだった。


「私のこと、好きじゃないの?」


「好きだよ」


「じゃあ、何で何も言ってくれないの?」


真司は黙った。


好き。


嫌い。


嬉しい。


悲しい。


寂しい。


怖い。


そういう言葉を、


誰かに伝えるのが苦手だった。


感情を出すことが、


怖かった。


やがて、


その女性はいなくなった。


真司は引き止めなかった。


引き止めれば、


相手を困らせると思った。


そして一人になった。


「また失敗した」


そう思った。


けれど。


本当は、


失敗したわけではなかった。


ただ、


人を信じることが怖かった。


嫌われる前に、


自分から離れた。


傷つけられる前に、


距離を取った。


それを繰り返しているうちに、


人生から人が減っていった。


四十歳。


真司は一人で暮らしていた。


仕事は続いている。


生活もできている。


周囲から見れば、


何も問題はない。


「普通の会社員」


それが、


真司だった。


ある日。


職場で若い社員がミスをした。


上司が注意する。


「何回言ったら分かるんだ!」


若い社員は黙っている。


真司は見ていた。


その光景を見た瞬間、


胸が苦しくなった。


怒鳴り声。


俯く顔。


周囲の沈黙。


昔の教室と同じだった。


その日の帰宅後。


真司は眠れなかった。


目を閉じる。


すると、


声が聞こえる。


――M男。


――何怒ってんの?


――演技だろ。


――チクった。


――お前がMだから悪い。


真司は布団から起き上がった。


「違う……」


誰もいない部屋で呟く。


「俺は……」


言葉が続かなかった。


翌日。


仕事帰りに病院へ行った。


精神科だった。


受付で問診票を渡される。


「現在、困っていること」


真司はペンを持った。


しばらく考える。


そして、


「人が怖い」


と書いた。


その下に、


「怒られるのが怖い」


と書いた。


さらに、


「自分の気持ちを言えない」


と書いた。


最後に、


少し迷ってから、


「昔のことを忘れられない」


と書いた。


診察室。


医師が問診票を見る。


「昔のことというのは?」


真司は黙った。


「学校で何かありましたか?」


「……はい」


「いじめですか?」


真司は、


その言葉を聞いて、


少しだけ息を止めた。


何十年ぶりだった。


誰かに、


正面から、


その言葉を使われたのは。


「……分かりません」


「分からない?」


「俺は……」


真司は俯いた。


「俺が悪かったのかもしれません」


医師は黙っていた。


「嫌だって言っても……」


声が震える。


「みんな、俺が本当は嫌じゃないって言って」


「……」


「先生に言ったら、チクったって言われて」


「……」


「黙ったら、何も言わないならいいって言われて」


真司は両手を握った。


「だから……」


しばらく言葉が出なかった。


「だから、俺が変だったんだと思います」


医師はすぐには答えなかった。


そして、


静かに言った。


「それは、あなたが悪かったという話とは違うと思います」


真司は顔を上げた。


その言葉を聞いた瞬間、


胸の奥に、


小さな違和感が生まれた。


これまで、


誰もそんなことを言わなかった。


誰も、


「あなたは悪くない」


とは言わなかった。


いつも、


「仲良くしろ」


だった。


「気にするな」


だった。


「冗談だろ」


だった。


「お前にも原因があるんじゃないか」


だった。


だから真司は、


自分が悪いと思っていた。


そう思うしかなかった。


医師が言う。


「あなたは、何度も嫌だと言ったんですよね?」


真司は黙って頷いた。


「それでも続けられた」


「……はい」


「だったら、少なくとも『嫌だと言えなかった人』ではありません」


真司の目に、


涙が浮かんだ。


「……俺、言ってたんですね」


「はい」


「ちゃんと……」


声が震える。


「嫌だって……言ってたんですね」


医師は頷いた。


「はい」


真司は俯いた。


涙が落ちた。


それは、


何十年も遅れて届いた、


たった一つの肯定だった。


その夜。


家に帰った真司は、


古いノートを開いた。


ページをめくる。


そこには、


少年だった自分の文字。


――俺はMじゃない。


――嫌だ。


――やめてほしい。


真司は、その文字を指でなぞった。


「……そうだったな」


小さく呟く。


「お前は、ちゃんと言ってた」


初めて。


過去の自分を責めなかった。


その日。


真司は少しだけ眠れた。


けれど。


長い年月で染みついたものは、


一度の言葉で消えるほど簡単ではなかった。


傷は、


まだ残っていた。


そして真司は、


まだ知らなかった。


自分を苦しめ続けている記憶の中には、


もう一つ、


決定的な言葉が残っていることを。


「覚えていない」


という、


残酷な言葉が。

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