第十五話 あなたは悪くない
「あなたは悪くない」
その言葉が、
真司の頭から離れなかった。
病院を出てから、
何度も思い出した。
電車の中でも。
仕事中でも。
眠る前にも。
あなたは悪くない。
たった一言。
それだけだった。
なのに。
真司には、
その言葉が怖かった。
もし本当に、
自分が悪くなかったのなら。
では、
あの三十年間は何だったのだろう。
なぜ自分は、
ずっと自分を責めていたのだろう。
なぜ、
「俺が変だったからだ」
と思い続けてきたのだろう。
その答えを考えると、
胸が苦しくなった。
ある夜。
真司は古いノートを開いた。
一ページ目。
まだ小学生だった頃の文字。
少し丸くて、
幼い字。
――M男って言われた。
次のページ。
――今日も言われた。
その次。
――嫌だって言った。
さらに次。
――笑われた。
真司はページをめくった。
――先生に言った。
――チクったって言われた。
――もう言わない。
そして。
――俺が悪い。
真司の手が止まった。
その一行を、
長い間見つめた。
「俺が悪い」
小さな字だった。
けれど、
その言葉だけは、
何十年経っても消えなかった。
真司はノートを閉じた。
「違う」
声に出してみる。
「俺は悪くない」
言った。
もう一度。
「俺は悪くない」
しかし、
胸の奥から別の声が返ってくる。
――でも、お前にも原因があったんじゃないか。
真司は黙った。
――もっと強く言えばよかった。
――逃げればよかった。
――先生に何度も言えばよかった。
――親に相談すればよかった。
――笑って流せばよかった。
――気にしなければよかった。
いくらでも、
自分を責める理由は作れた。
でも。
真司は気づいた。
それは全部、
後からなら何とでも言えることだった。
当時の自分は、
子どもだった。
どうすればいいか、
分からなかった。
それでも、
一つだけ分かっていた。
「嫌だ」
ということ。
それだけは、
何度も伝えていた。
翌週。
診察室。
黒田医師が言った。
「少しずつ、当時のことを整理してみましょうか」
真司は頷いた。
「はい」
「一番覚えていることは何ですか?」
真司は考えた。
「……声です」
「声?」
「M男って呼ばれる声」
少し間を置いて、
続けた。
「何人かで笑ってる声です」
「それが怖い?」
「はい」
「今でも?」
「……はい」
黒田は頷いた。
「では、そのときの自分に、今のあなたなら何と言いますか?」
真司は答えられなかった。
長い沈黙。
そして、
小さな声で言った。
「逃げていい」
黒田は何も言わない。
真司は続けた。
「嫌なら、逃げていい」
「うん」
「助けを求めていい」
「うん」
「誰かに言っていい」
「うん」
真司の声が震える。
「お前が悪いんじゃない」
そこで、
言葉が止まった。
涙が落ちた。
「……もっと早く言ってやりたかった」
黒田は静かに言った。
「今、言えましたよ」
真司は顔を上げた。
「今からでも遅くないんでしょうか」
「何がですか?」
「自分を責めるのをやめること」
黒田は少し考えてから答えた。
「遅いかどうかを決める必要はないと思います」
真司は黙っていた。
「今のあなたが、少しでも楽になるために必要なら、それでいいんじゃないでしょうか」
診察室を出た。
外は夕方だった。
駅まで歩く。
以前なら、
人の視線が怖かった。
笑い声が聞こえると、
自分のことだと思った。
しかし、その日は少しだけ違った。
前から学生たちが歩いてくる。
楽しそうに話している。
その笑い声を聞いても、
真司は立ち止まらなかった。
自分のことではない。
ただの笑い声だ。
そう思えた。
ほんの少しだけ。
それだけだった。
その夜。
真司は古いノートを机の上に置いた。
そして新しい紙を一枚取り出した。
そこに、
ゆっくりと書いた。
――俺は悪くない。
書いたあと、
しばらく眺めた。
字が少し震えていた。
それでも、
消さなかった。
翌日。
職場で、
若い社員がミスをした。
上司が少し強い口調で注意している。
以前の真司なら、
その場から離れていた。
けれど、
その日は違った。
注意が終わったあと、
若い社員に声をかけた。
「大丈夫?」
「……はい」
「何か困ってるなら、聞くよ」
若い社員は、
少し驚いた顔をした。
「ありがとうございます」
それだけだった。
真司は席に戻った。
大したことではない。
でも、
真司にとっては、
大きなことだった。
自分がしてほしかったことを、
誰かにできた。
それから数日。
真司は少しずつ変わった。
無理な頼みをされたとき、
「今日は無理です」
と言えるようになった。
嫌な誘いに、
「今回はやめておきます」
と言えるようになった。
小さなことだった。
けれど、
真司には大きかった。
「嫌だ」
と言っても、
世界は壊れなかった。
誰も、
「M男」
とは呼ばなかった。
誰も、
「演技だろ」
とは言わなかった。
誰も、
笑わなかった。
真司は、
少しずつ知っていった。
本当は、
嫌だと言ってよかったのだ。
断ってよかったのだ。
助けを求めてよかったのだ。
あの頃の自分は、
間違っていなかった。
そう思えるようになってきた。
ある休日。
真司は部屋を片付けていた。
古いアルバム。
古いノート。
そして、
昔の写真。
一枚ずつ整理する。
捨てるもの。
残すもの。
その中に、
中学校時代の集合写真があった。
真司は手を止めた。
高橋。
田中。
中村。
伊藤。
そして、
自分。
みんな笑っている。
真司は写真を見ながら、
ふと思った。
彼らは、
今どうしているのだろう。
何をしているのだろう。
自分のことを、
覚えているだろうか。
そして。
その問いが、
真司の胸に、
新しい痛みを生んだ。
もし、
自分だけが覚えていたら?
もし、
彼らにとっては、
何でもないことだったら?
もし、
あの時間が、
自分にとってだけ人生を変えるほど大きくて、
彼らにとっては、
ただの子どもの悪ふざけだったとしたら。
真司は写真を裏返した。
その夜。
久しぶりに、
昔の同級生から連絡が来た。
伊藤だった。
『この前の話だけどさ』
『今度、何人かで集まるぞ』
『高橋も来るって』
真司は画面を見つめた。
高橋。
その名前を見ただけで、
胸が苦しくなった。
しばらく迷った。
そして、
返信した。
『分かった』
参加することにした。
逃げるためではない。
過去を確かめるためだった。
あの頃の自分が、
本当に悪かったのか。
あの人たちは、
何を覚えているのか。
そして。
もし聞けるなら、
聞いてみたかった。
「俺が嫌だと言ったことを、覚えているか」
その答えが、
真司の人生に、
もう一度大きな傷を残すことになるとは。
このときの真司は、
まだ知らなかった。




