第十六話 覚えていない
同窓会の日。
真司は、店の前で立ち止まっていた。
何度も来たことのある場所だった。
それでも、
足が動かなかった。
店の中から、
笑い声が聞こえる。
その瞬間、
胸が締め付けられた。
笑い声。
何十年経っても、
真司にとっては、
あの教室と同じ音だった。
――笑っている。
――誰かが自分を見ている。
――何か言われる。
帰ろうか。
そう思った。
そのとき、
店の扉が開いた。
「佐伯?」
振り返る。
伊藤だった。
「おお……久しぶり」
「何してんだよ。入れよ」
「うん」
真司は店に入った。
中には、
昔の同級生が何人かいた。
顔を見れば分かる。
でも、
名前がすぐに出てこない人もいる。
みんな歳を取っていた。
白髪。
皺。
眼鏡。
昔とは違う。
なのに。
声を聞けば、
一瞬で昔に戻る。
「佐伯じゃん!」
「久しぶり!」
「元気だった?」
「仕事何してんの?」
普通の会話。
普通の再会。
真司は笑って答えた。
「まあ、普通だよ」
「結婚した?」
「してない」
「えー、意外」
「そうかな」
笑う。
何度も笑う。
そして、
その場に高橋が入ってきた。
「おお!」
高橋は、
昔と変わらないような声で笑った。
「佐伯じゃん!」
真司の体が固まった。
高橋は近づいてきた。
肩を叩く。
「久しぶり!」
「……久しぶり」
「何年ぶりだよ?」
「分からない」
「すげえな。俺たちも歳取ったなあ」
高橋は笑った。
その笑顔を見て、
真司は思った。
この人は、
何を覚えているんだろう。
自分は、
何十年も忘れられなかった。
あの声。
あの教室。
あの言葉。
「M男」。
高橋にとっては、
どうなのだろう。
宴会が始まる。
酒が運ばれる。
昔話が始まる。
「覚えてる?」
「覚えてる覚えてる!」
「先生、怖かったよな」
「体育の時間、最悪だったよな」
みんな笑っている。
真司も笑った。
けれど、
話の中に、
自分の記憶はほとんど出てこなかった。
そのことが、
少し不思議だった。
あれだけ毎日、
あれだけ長い間、
自分は苦しんでいた。
なのに。
誰も、
その話をしない。
真司は、
少しずつ酒を飲んだ。
そして、
とうとう聞いた。
「なあ」
「ん?」
伊藤が振り向く。
「俺のこと、覚えてる?」
「何だよ急に」
「中学の頃」
「そりゃ覚えてるよ」
真司は、
一度息を吸った。
「……M男って呼ばれてたこと」
空気が少し止まった。
そして。
高橋が笑った。
「ああ!」
「それ!」
田中も笑った。
「懐かしいな」
中村が、
「そんなことあったね」
と言った。
真司は、
その反応を見つめた。
誰も怒っていない。
誰も気まずそうにしていない。
まるで、
昔のテレビ番組の話でもしているようだった。
伊藤が笑った。
「そういや、そんなのあったな」
高橋が言う。
「お前、昔からいじられキャラだったもんな」
真司は聞いた。
「……俺、嫌だって言ってたよな」
高橋が少し考える。
「え?」
「嫌だって言ってたよな」
「そうだっけ?」
真司は黙った。
高橋は笑いながら言った。
「いやいや、あれ冗談じゃん」
「……」
「みんなでふざけてただけだろ」
真司は高橋を見る。
「俺は嫌だった」
高橋の笑顔が、
ほんの少しだけ止まった。
「……そうだっけ?」
その言葉を聞いた瞬間。
真司の中で、
何かが崩れた。
「そうだよ」
声が震える。
「俺、何回も言った」
高橋は困ったように笑った。
「でもさあ……」
「俺、先生にも言った」
「へえ」
「やめてって言った」
「……」
「本当に嫌だった」
誰も笑わなくなった。
でも、
誰も謝らなかった。
高橋はしばらく黙ってから、
「そんなに気にしてたの?」
と言った。
真司は、
何も答えられなかった。
「いや、俺たちも子どもだったしさ」
高橋が続ける。
「そんな深い意味なかったよ」
真司は、
その言葉を聞きながら、
何十年も前の自分を思い出していた。
机。
黒板。
紙。
笑い声。
そして、
「やめろよ」
と言っていた少年。
あの少年は、
何十年も苦しんだ。
高橋は、
何十年も忘れていた。
その違いが、
あまりにも大きかった。
「高橋」
「ん?」
「俺のこと、嫌いだった?」
高橋は首を傾げた。
「いや、別に」
「じゃあ、なんで?」
「何が?」
「なんで、あんなことしたの?」
高橋は、
しばらく考えた。
そして、
笑った。
「面白かったからじゃね?」
真司は、
目を伏せた。
「……そう」
「お前、反応するからさ」
「……」
「みんな面白がってたじゃん」
「俺は嫌だった」
「うん……まあ」
高橋は、
少し困った顔をした。
「悪かったって」
その言葉には、
深い意味がなかった。
謝罪というより、
話を終わらせるための言葉だった。
真司には分かった。
この人は、
自分の人生を壊したことを、
覚えていない。
いや。
正確には、
壊したという認識すらない。
それは、
高橋にとっては、
ただの思い出だった。
子どもの頃の、
くだらない冗談。
真司にとっては、
人生そのものだった。
店を出る。
夜風が冷たかった。
真司は一人で歩いた。
駅までの道。
誰もいない。
街灯だけが、
道路を照らしている。
「覚えてないんだ……」
口から、
自然に言葉が出た。
「俺は覚えてるのに」
歩く。
「何十年も覚えてるのに」
歩く。
「なんで……」
足が止まった。
「なんで俺だけなんだよ」
声が震えた。
誰も答えない。
真司は空を見上げた。
自分はずっと、
過去に囚われていた。
けれど。
相手は、
過去にすらいなかった。
もう先へ進んでいた。
家族がいて。
仕事があって。
笑っていて。
普通に生きている。
そして、
自分が何をしたかも、
ほとんど覚えていない。
真司は思った。
いじめというものは、
その瞬間だけでは終わらない。
傷つけた側が忘れても、
傷つけられた側には残る。
そして時には、
その後の人生まで変えてしまう。
真司は、
家に帰った。
古いノートを開いた。
そして、
新しいページに書いた。
――高橋は覚えていなかった。
しばらくして、
その下にもう一行書いた。
――俺は、覚えている。
ペンを置く。
部屋は静かだった。
真司は、
ノートを閉じた。
そのとき初めて、
自分の中に残っていた怒りに気づいた。
悲しみだけではない。
恐怖だけでもない。
ずっと奥に、
怒りがあった。
「俺は……」
真司は呟く。
「本当に嫌だったんだ」
その言葉は、
誰かに伝えるためではなかった。
自分自身に、
もう一度伝えるための言葉だった。
そして。
2020年。
50歳。
真司は、
自分の人生を振り返ることになる。
その先に待っていたのは、
最後の一年だった。




