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M男は辛いよ  作者: こうた
第五章 「50年間」

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第十七話 50歳

50歳になった。


真司は、


誕生日の朝にそう思った。


「50歳か……」


鏡を見る。


白髪が増えた。


目元には皺がある。


少年だった頃の面影は、


もうほとんど残っていない。


50年。


長い時間だった。


けれど。


真司には、


それほど長く感じられなかった。


気づけば、


半世紀が過ぎていた。


朝食を食べる。


テレビをつける。


ニュースが流れている。


新型コロナウイルス。


感染者数。


外出自粛。


休業。


社会は大きく変わっていた。


真司はテレビを消した。


静かな部屋。


時計の音だけが聞こえる。


カチ。


カチ。


カチ。


その音を聞きながら、


真司は思った。


自分の人生にも、


何度も変化があった。


学校を卒業した。


仕事を始めた。


恋愛をした。


別れた。


人と出会った。


人と離れた。


病院にも行った。


それでも。


心の奥には、


ずっと同じものが残っていた。


少年だった自分。


「嫌だ」


と言っている自分。


その声だった。


机の引き出しを開ける。


そこには、


古いノートがある。


何十年も捨てられなかったもの。


真司はノートを取り出した。


ページを開く。


幼い字。


――M男。


――嫌だ。


――やめて。


――先生に言った。


――チクったと言われた。


――俺が悪い。


ページをめくる。


高校時代の記録。


ほとんど何も書いていない。


最後の方には、


一行だけ。


――早く大人になりたい。


真司は、


その文字を見つめた。


「なったよ」


小さく笑った。


「大人になった」


けれど。


少年だった自分が、


望んでいた大人とは、


違った。


もっと普通に生きたかった。


友達が欲しかった。


家族が欲しかった。


誰かを好きになって、


誰かに好きだと言われたかった。


嫌なことがあれば、


嫌だと言いたかった。


嬉しいときは、


思い切り笑いたかった。


悲しいときは、


泣きたかった。


そんな人生を、


普通に送りたかった。


真司は、


ノートを閉じた。


その日の午後。


スマートフォンが鳴った。


伊藤からだった。


『この前は悪かったな』


真司は画面を見る。


『高橋も悪気なかったと思うし』


『昔のことだから、もう気にすんなよ』


真司は、


しばらく返信しなかった。


そして、


画面を閉じた。


悪気がなかった。


昔のこと。


気にするな。


何度も聞いた言葉だった。


けれど。


「悪気がなければ、


傷つけてもいいのか」


真司は呟いた。


もちろん、


誰も答えない。


窓の外を見る。


街には人が少ない。


新型コロナウイルスの影響で、


外出する人も減っている。


静かな午後だった。


真司は、


昔のことを考えた。


もし、


あのとき誰か一人でも、


「やめろ」


と言ってくれていたら。


もし、


先生が本気で話を聞いてくれていたら。


もし、


誰かが、


「あなたは悪くない」


と言ってくれていたら。


自分の人生は、


違っていたのだろうか。


答えは分からない。


人生に、


「もし」はない。


ただ。


一つだけ分かることがある。


少年だった自分は、


助けを求めていた。


それだけは、


間違いなかった。


夕方。


真司は散歩に出た。


公園を歩く。


ベンチに座る。


子どもたちの声が聞こえる。


「やめろよ!」


「嫌だ!」


そんな声が、


少し離れた場所から聞こえた。


真司は、


思わず顔を上げた。


子どもたちが遊んでいる。


一人の子が、


もう一人の子を追いかけている。


「やめろって!」


「逃げんなよ!」


真司の胸が、


ざわついた。


昔の光景と重なる。


立ち上がろうとした。


けれど。


その子どもたちは、


すぐに笑い合った。


「鬼ごっこだよ!」


「最初に言えよ!」


「ごめん!」


笑い声。


真司は、


ゆっくり座り直した。


自分の記憶が、


今の世界と重なっていただけだった。


それでも。


真司は思った。


子どもたちの声を、


もっとちゃんと聞いてほしい。


「嫌だ」


という言葉を、


冗談として流さないでほしい。


「やめて」


という言葉を、


笑い声で消さないでほしい。


真司は、


そんなことを考えていた。


公園を出る。


家へ向かう。


その途中、


昔の自分を思い出した。


小学四年生。


机の中に入れられた紙。


そこに書かれていた、


二文字。


M男。


あの頃の自分は、


その紙を握り潰した。


でも、


捨てられなかった。


なぜだろう。


証拠にしたかったのか。


誰かに見せたかったのか。


それとも、


「俺は本当に嫌だった」


と自分自身に証明したかったのか。


真司は家に帰ると、


その紙を探した。


古い箱。


奥の方。


何枚もの写真の下。


あった。


紙は黄ばんでいた。


文字も薄くなっている。


真司は、


それを手に取った。


そして、


しばらく眺めた。


50歳の自分が、


少年だった自分の持ち物を見ている。


不思議な感覚だった。


「よく持ってたな」


そう言って、


少し笑った。


それから、


紙をノートの間に挟んだ。


その夜。


真司は日記を書いた。


――50歳になった。


――まだ覚えている。


――でも、少しだけ分かった。


――俺は悪くなかった。


そこで筆が止まった。


しばらく考える。


そして、


もう一行書いた。


――俺は、ずっと「嫌だ」と言っていた。


最後に、


こう書いた。


――誰かが、聞いてくれればよかった。


真司は日記を閉じた。


部屋の電気を消す。


布団に入る。


暗闇の中で、


目を閉じる。


すると、


昔の声が聞こえた。


――M男。


――M男。


――M男。


真司は目を開けた。


「もういいよ」


小さく言う。


「もう、いい」


声は、


少しずつ遠ざかっていった。


その夜。


真司は、


久しぶりに深く眠った。


翌朝。


カーテンの隙間から、


朝の光が差し込んでいた。


机の上には、


閉じられた日記。


そして、


その上に一枚の紙。


――M男。


50年前に始まった言葉は、


50年経っても、


まだそこにあった。


けれど。


もう、


その言葉を自分自身に向ける必要はなかった。


真司は、


その紙を見つめた。


そして、


静かに言った。


「俺は、Mじゃない」


それが、


少年だった自分に送る、


最後の言葉だった。

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