第十八話 やめて
「やめて」
真司は、
夢の中でそう言った。
目の前に、
教室がある。
古い教室。
木製の机。
黒板。
窓から差し込む午後の光。
何十年も前の景色だった。
教室の中央に、
少年が立っている。
制服を着た、
15歳の真司。
俯いている。
その周りには、
何人もの同級生。
高橋。
田中。
そして、
笑っているクラスメートたち。
「M男」
誰かが言った。
少年は顔を上げる。
「やめろよ」
笑い声。
「何怒ってんの?」
「怒ってない」
「じゃあ、何?」
「……嫌なんだよ」
「また演技?」
笑い声。
少年は、
拳を握った。
「本当に嫌なんだ」
それでも、
笑い声は止まらない。
真司は、
その光景を離れた場所から見ていた。
50歳の自分。
15歳の自分。
二人が、
同じ教室にいた。
「やめろ!」
真司は叫んだ。
しかし、
誰にも聞こえない。
少年がまた言う。
「やめて」
真司は、
その少年の前まで走った。
「もういい!」
少年が、
顔を上げる。
二人の目が合った。
少年が言った。
「助けて」
真司は、
その言葉に息を呑んだ。
「……うん」
「助けて」
「分かった」
真司は少年の前に立った。
そして、
少年の肩に手を置いた。
「もう大丈夫だ」
少年は、
首を横に振った。
「大丈夫じゃない」
「……」
「ずっと怖い」
真司は答えられなかった。
少年は続けた。
「俺が悪いの?」
「違う」
「でも、みんな言ってる」
「違う」
「先生も、俺たちで話し合えって言った」
「……」
「俺が我慢すればいいの?」
真司は首を振った。
「違う」
少年の目から、
涙が落ちる。
「じゃあ、なんで誰も助けてくれないの?」
その問いに、
真司は何も答えられなかった。
答えられるはずがなかった。
50歳になった今でも、
その答えを知らない。
ただ一つだけ。
言えることがあった。
「お前は悪くない」
少年が、
真司を見る。
「本当に?」
「本当だ」
「嫌だって言っていい?」
「いい」
「やめてって言っていい?」
「いい」
「逃げてもいい?」
「いい」
「助けてって言っていい?」
「いい」
少年は、
少しだけ笑った。
「……そっか」
その瞬間。
教室の中に、
大きな声が響いた。
「M男!」
真司は振り返った。
高橋が立っている。
昔と同じ笑顔。
「お前、まだそんなこと言ってんの?」
真司は、
高橋を睨んだ。
「やめろ」
高橋が笑う。
「何怒ってんの?」
「やめろ」
「冗談だろ?」
「やめろ!」
声が教室に響いた。
高橋が笑う。
田中も笑う。
中村も笑う。
みんな笑っている。
真司は、
少年の手を握った。
「行こう」
「どこへ?」
「ここじゃないところへ」
二人で教室を出る。
廊下を歩く。
階段を下りる。
玄関。
扉を開ける。
外は、
真っ白だった。
何もない。
ただ、
光だけがある。
少年が聞いた。
「これからどうするの?」
真司は答えた。
「生きるんだよ」
少年は、
しばらく黙っていた。
「……できるかな」
「分からない」
「じゃあ、怖い」
「俺も怖い」
少年が、
真司を見る。
「50歳なのに?」
真司は、
少し笑った。
「50歳でも怖いものは怖いよ」
「そっか」
「でもな」
真司は言った。
「もう、お前一人じゃない」
少年は、
少しだけ笑った。
その瞬間。
真司は目を覚ました。
朝だった。
布団の中。
心臓が激しく動いている。
夢だった。
真司は、
しばらく天井を見つめていた。
涙が頬を伝っている。
「……夢か」
時計を見る。
午前6時。
いつもより早く目が覚めた。
真司は起き上がった。
顔を洗う。
鏡を見る。
50歳の自分。
白髪。
疲れた顔。
それでも、
昨日までとは少し違って見えた。
「やめて」
鏡の中の自分に向かって言う。
「嫌なことは、嫌でいい」
誰かに聞かせるためではない。
自分に言い聞かせるためだった。
その日。
真司は病院へ行った。
黒田医師に、
昨夜の夢のことを話した。
「少年の自分が出てきたんです」
「何と言っていました?」
「助けてって」
黒田は、
黙って聞いていた。
「それで?」
「助けました」
真司は、
少し笑った。
「夢の中ですけど」
「それでも、意味のある夢だと思いますよ」
「そうでしょうか」
「少なくとも、今のあなたが過去の自分を見捨てていない」
真司は、
その言葉を聞いて、
しばらく黙っていた。
「……昔の俺に、言ってやりたいんです」
「何を?」
「お前は悪くないって」
「はい」
「嫌だって言っていいって」
「はい」
「やめてって言っていいって」
黒田は頷いた。
「それは、今のあなた自身にも必要な言葉かもしれませんね」
真司は、
少しだけ笑った。
その日の帰り。
駅へ向かう途中、
スマートフォンが鳴った。
知らない番号だった。
真司は出なかった。
しばらくして、
留守番電話が入った。
確認すると、
昔の同級生からだった。
『佐伯?』
『伊藤だけど』
『ちょっと話したいことがあるんだ』
真司は、
そのメッセージを何度も聞いた。
何の話だろう。
高橋のことか。
同窓会のことか。
昔のことか。
分からない。
けれど、
以前なら、
怖くてすぐに消していた。
今回は違った。
メッセージを残したまま、
スマートフォンをポケットに入れた。
「明日、聞こう」
そう呟いた。
夜。
真司は机に向かった。
日記を開く。
そして書いた。
――今日は、昔の夢を見た。
――15歳の俺が「助けて」と言った。
――俺は、助けた。
少し考える。
続けて、
こう書いた。
――もっと早く助けてやればよかった。
そこで筆を止める。
そして、
その文章を消した。
代わりに、
こう書いた。
――今からでも、そばにいる。
日記を閉じる。
部屋の明かりを消す。
窓の外を見る。
夜の街は静かだった。
真司は、
その静けさの中で思った。
50年。
長かった。
でも、
まだ終わっていない。
自分の中に残ったものを、
最後まで見つめなければならない。
そして。
その翌日。
真司は、
最後の日記を書くことになる。




