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M男は辛いよ  作者: こうた
第五章 「50年間」

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第十九話 最後の日記

2020年。


秋。


真司は、


机の前に座っていた。


窓の外は、


静かだった。


新型コロナウイルスの影響で、


街は以前よりも静かになっている。


車の音も少ない。


人の声も少ない。


時計の音だけが、


部屋の中に響いていた。


カチ。


カチ。


カチ。


机の上には、


一冊のノート。


何十年も使ってきたものだった。


最初のページには、


子どもの頃の文字がある。


最後のページは、


まだ白い。


真司は、


ペンを持った。


今日、


書くことを決めていた。


何を書くのか。


ずっと考えていた。


そして、


最初の一行を書いた。


――50年間。


そこで一度、


ペンが止まった。


50年。


生まれてから、


ここまで来た。


小学四年生。


中学生。


高校生。


20歳。


30歳。


40歳。


そして、


50歳。


人生を振り返れば、


いろいろなことがあった。


楽しかったことも、


もちろんあった。


仕事で褒められたこと。


誰かに優しくしてもらったこと。


好きな人と過ごした時間。


母親と笑った日。


何でもない夕食。


テレビを見て笑った夜。


雨の日に、


温かいコーヒーを飲んだこと。


幸せが、


まったくなかったわけではない。


それでも。


人生の奥には、


ずっと一つの記憶が残っていた。


――M男。


真司は、


その言葉を書かなかった。


代わりに、


こう書いた。


――あの頃、俺は嫌だった。


――何度も嫌だと言った。


――やめてと言った。


――先生にも言った。


――助けてほしかった。


ペンを置く。


深く息を吐く。


また書く。


――でも、誰も本気で聞いてくれなかった。


――俺は、それをずっと自分のせいだと思っていた。


――もっと強く言えばよかった。


――もっと逃げればよかった。


――もっと相談すればよかった。


――もっと笑っていればよかった。


そして、


一行空けた。


――でも、違った。


真司は、


その言葉を見つめた。


――俺は悪くなかった。


書いた。


今度は、


迷わなかった。


――俺は悪くなかった。


もう一度。


――俺は悪くなかった。


何度も書く必要はない。


一度でいい。


50年かけて、


ようやく書けた。


真司は、


少し笑った。


それから、


別のページを開いた。


今度は、


誰かに向けて書くことにした。


――もし、この日記を読む人がいたら。


そこで、


しばらく考えた。


誰に向ければいいのか。


先生か。


同級生か。


自分と同じような人か。


それとも、


これから学校へ行く子どもたちか。


分からない。


だから、


全員に向けて書いた。


――「嫌だ」と言われたら、嫌なんです。


――「やめて」と言われたら、やめてください。


――笑っていても、嫌なことがあります。


――黙っていても、許しているとは限りません。


――助けを求めた人を、「チクった」と笑わないでください。


真司の手が、


少し震えた。


それでも、


書き続けた。


――「冗談だった」は、傷つけられた側には関係ありません。


――自分に悪気がなかったとしても、相手が傷つくことがあります。


――そして、傷はその場で終わるとは限りません。


少し間を置く。


最後に、


一番伝えたかったことを書く。


――いじめは、いじめられている時間だけを壊すんじゃない。


――その人の、その後の人生まで壊してしまうことがある。


真司は、


ペンを置いた。


窓の外を見る。


夕方になっていた。


空が赤い。


子どもの頃、


学校帰りに見た空と同じ色だった。


真司は、


昔のことを思い出した。


母親と歩いた帰り道。


買い物袋。


夕食の匂い。


何でもない会話。


「今日はどうだった?」


そう聞かれて、


「普通」


と答えた。


本当は、


普通じゃなかった。


でも、


言えなかった。


母親が悪かったわけではない。


誰かが悪かったと、


簡単に言える話でもない。


ただ。


もっと早く、


誰かに届いていればよかった。


真司は、


日記に最後の文章を書いた。


――あの頃の俺へ。


――お前は悪くない。


――嫌だと言ってよかった。


――逃げてもよかった。


――助けてと言ってよかった。


――そして。


――50歳になった俺から、お前に一つだけ言いたい。


真司は、


長い間、


その先を書けなかった。


涙が落ちる。


紙に小さな跡ができる。


そして、


ゆっくり書いた。


――よく、生きたな。


それだけだった。


それ以上の言葉は、


必要なかった。


真司は、


日記を閉じた。


机の上に置く。


その横に、


古い一枚の紙を置いた。


「M男」


と書かれた、


あの紙。


真司は、


それをしばらく見つめた。


そして、


小さく言った。


「これは、俺の名前じゃない」


紙を裏返す。


そこには何もない。


ただの白い紙。


真司は、


少し笑った。


「もう、いいよ」


立ち上がる。


部屋を出る。


その後。


真司が、


何を考えていたのか。


何を決めたのか。


誰にも分からない。


ただ。


その夜を境に、


真司と連絡が取れなくなった。


数日後。


部屋を訪れた黒田医師が、


机の上に置かれた日記を見つけた。


最後のページ。


そこには、


一行だけ残っていた。


――いじめは卒業できないことがある。


黒田は、


長い間その文字を見つめていた。


そして、


日記を閉じた。


50年。


一人の少年が、


「嫌だ」


と言い続けた。


その声は、


誰にも届かなかった。


けれど。


最後に書かれた言葉だけは、


誰かに届くかもしれない。


そう思った。

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