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M男は辛いよ  作者: こうた
第五章 「50年間」

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20/20

第20話 M男は辛いよ

 佐伯真司と連絡が取れなくなってから、しばらく経った。


 黒田は、真司の部屋に残されていた最後の日記を何度も読み返していた。


 何度読んでも、同じところで手が止まる。


『俺は、ずっと「嫌だ」と言っていた』


 その一文だった。


 黒田は医師として、これまで多くの人の話を聞いてきた。


 苦しかったこと。

 悲しかったこと。

 誰にも言えなかったこと。


 人によって、その形は違う。


 けれど真司の話には、ひとつだけ、ずっと引っかかるものがあった。


 真司は、助けを求めなかった人ではない。


 何度も求めていた。


「やめろよ」


「本当に嫌なんだ」


「先生に言った」


「助けてほしかった」


 それでも、誰も本気で受け止めなかった。


 ある者は笑った。


 ある者は「冗談」と言った。


 ある者は「そんなに気にするな」と言った。


 そして誰かが、


「お前がMだからだろ」


 と言った。


 その言葉が、少年だった真司の中に残った。


 五十歳になっても。


 黒田は日記を閉じた。


 机の上には、古びた一枚の紙があった。


『M男』


 中学生だった頃、誰かが真司の机に貼った紙だった。


 黒田は、それをしばらく見つめていた。


「……これが、君の名前じゃない」


 誰も聞いていない部屋で、黒田は呟いた。


「これは、君につけられた名前だ」


     *


 その頃。


 真司の同級生たちは、それぞれの日常を生きていた。


 仕事をして。


 家族と暮らして。


 子どもの成長を喜んで。


 昔の友人と酒を飲みながら笑う。


 ある夜、同級生の一人が昔話をした。


「そういえば、俺たちのクラスにM男っていたよな」


「ああ」


「いたいた」


「懐かしいな」


 誰かが笑った。


「今考えると、あいつ面白かったよな」


 また笑い声が起きた。


 その中に、


「……佐伯だよ」


 と言う声があった。


 一瞬だけ、空気が止まった。


「そうそう。佐伯」


「どうしてるんだろうな」


「さあ」


 それだけだった。


 誰も、その後を知らなかった。


 誰も、真司の日記を知らなかった。


 誰も知らない。


 彼らにとっては、三十年以上前の「昔話」だった。


 けれど。


 真司にとっては、昔話ではなかった。


 朝、目を覚ましたとき。


 仕事で誰かに注意されたとき。


 誰かの機嫌が悪いとき。


 人と話すとき。


 恋をしたとき。


 誰かに優しくされたとき。


 そのたびに、あの教室が戻ってきた。


 あの笑い声が。


 あの言葉が。


 あの名前が。


 何度でも。


 何十年経っても。


 真司の中では終わらなかった。


     *


 数日後。


 黒田は、ある学校を訪れていた。


 教師たちに話をするためだった。


 いじめについて。


 そして、真司の残した言葉について。


 黒田は日記そのものを見せることはしなかった。


 ただ、一つの言葉だけを伝えた。


「もし生徒が『嫌だ』と言ったら、どうしますか?」


 教師たちは答えた。


「話を聞きます」


「状況を確認します」


「必要なら保護者にも連絡します」


 黒田は頷いた。


「それだけは、絶対に忘れないでください」


 そして続けた。


「『嫌だ』と言ったことを、本人の弱さだと思わないでください」


「『冗談だった』という言葉で終わらせないでください」


「『みんな仲良く』で終わらせないでください」


「そして、助けを求めた子を『チクった』と呼ばせないでください」


 教室の前を、一人の男子生徒が通り過ぎた。


 その男子生徒の後ろから、別の生徒が笑いながら追いかけていた。


「おい、待てよ!」


 男子生徒が振り返る。


「やめろって」


 黒田は、その声を聞いた。


 足を止めた。


 ほんの一瞬だった。


 何十年も前の声と、今の声が重なった。


『やめろよ』


『本当に嫌なんだ』


 黒田は教室へ向かった。


「今の子、何か嫌がっていましたね」


 教師が振り返った。


「ああ……いつものことですよ」


 黒田は静かに言った。


「『いつものこと』にしないでください」


 教師は黙った。


「今の子は、『やめて』と言いました」


 その言葉を聞いた教師は、廊下へ出ていった。


「大丈夫?」


 男子生徒が頷いた。


「……うん」


「本当に?」


 少し間があった。


「……嫌だった」


「分かった」


 教師は言った。


「もう、やめよう」


     *


 その夜。


 黒田は、真司の日記の最後のページをもう一度開いた。


 そこには、こう書かれていた。


『俺はMじゃない』


『俺は悪くない』


『俺は、ずっと嫌だと言っていた』


 そして、その下に。


『もし、これを誰かが読むことがあるなら』


『一つだけお願いしたい』


『嫌だと言われたら、信じてほしい』


 黒田は、静かにページを閉じた。


 真司は、もういない。


 過去をやり直すこともできない。


 あの教室に戻って、少年だった真司を助けることもできない。


 けれど。


 これから同じような声を聞く人間には、できることがある。


「やめて」と言われたら、やめる。


「嫌だ」と言われたら、笑わない。


「助けて」と言われたら、そばに行く。


 それだけで救われる人間がいる。


 それだけで、その後の人生が変わる人間がいる。


     *


 机の上に置かれた古い紙。


『M男』


 黒田は、それを封筒にしまった。


 そして、その封筒に一枚の紙を添えた。


『佐伯真司』


 それが、本当の名前だった。


 M男ではない。


 誰かに勝手につけられた名前でもない。


 笑われるための名前でもない。


 真司は、真司だった。


 優しくて。


 不器用で。


 傷ついて。


 それでも五十年、生きた。


 黒田は最後の日記を閉じた。


 そして、心の中で少年だった真司に言った。


「遅くなって、ごめんな」


 返事はない。


 それでも黒田は続けた。


「君が言った『嫌だ』を、今度は誰かが聞いてくれる」


 窓の外では、夜の街が静かに光っていた。


 何も知らない人々が歩いている。


 笑っている人もいる。


 家へ帰る人もいる。


 明日を楽しみにしている人もいる。


 その中に。


 かつて「M男」と呼ばれた少年はいない。


 けれど。


 彼の残した言葉だけは、消えなかった。


 いじめは、いじめられている時間だけを壊すんじゃない。


 その人の、その後の人生まで壊してしまうことがある。


 だから。


 「嫌だ」と言った人を笑わないでほしい。


 「やめて」と言った人を疑わないでほしい。


 「助けて」と言った人を責めないでほしい。


 そして。


 「冗談だった」と言う前に。


 その人が本当に笑っていたのかを、考えてほしい。


 真司が最後に残した言葉は、たった一つだった。


『いじめは卒業できないことがある』


 だからこそ。


 今、誰かが「嫌だ」と言っているのなら。


 今度こそ。


 誰かが、その声を聞いてほしい。


 そして、こう答えてほしい。


「分かった」


「もう、やめよう」


 それが。


 五十年間、誰にも本当の意味で聞いてもらえなかった少年への。


 最後の返事だった。


――完――

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