第六話 先生に言った
翌朝。
教室に入った瞬間、真司は何かがおかしいことに気づいた。
いつもなら、何人かが騒いでいる。
机を動かしたり、漫画を読んだり、昨日のテレビの話をしたり。
けれど、その日は違った。
真司が教室に入ると、一瞬だけ静かになった。
そして――
「来た」
誰かが言った。
「先生に言ったやつ」
真司の足が止まった。
「……」
聞こえなかったふりをして、自分の席へ向かう。
「なあ、M男」
高橋の声。
「何?」
「昨日、先生に何言ったの?」
「……別に」
「別にって何だよ」
「相談しただけだよ」
「何を?」
真司は答えなかった。
高橋が笑う。
「言えよ」
「……」
「俺らがいじめたって言った?」
その言葉に、周りが反応した。
「いじめ?」
「マジ?」
「高橋、いじめてたの?」
「違うって」
高橋は笑いながら手を振った。
「こいつが勝手にそう思ってるだけ」
真司は顔を上げた。
「勝手じゃない」
「じゃあ何?」
「俺は嫌だって言った」
「それだけ?」
「……」
「何された?」
真司は答えられなかった。
「ほら」
高橋が笑う。
「言えないじゃん」
「……言えるよ」
「じゃあ言えよ」
「……M男って呼ばれた」
教室に笑い声が起きた。
「それだけ?」
誰かが言った。
「それで先生に言ったの?」
別の男子が笑った。
「弱っ」
真司は何も言えなくなった。
高橋が机に手をついた。
「なあ、みんな聞いてくれよ」
「何?」
「こいつさ」
高橋は真司を指差した。
「『M男って呼ばれるのが嫌です』って先生に言ったんだって」
笑い声。
「何それ」
「小学生かよ」
「先生に言うほど?」
真司の顔が熱くなった。
違う。
そうじゃない。
自分が先生に言ったのは、名前の問題だけじゃない。
毎日、嫌だと言っても続くこと。
無視しても続くこと。
怒っても笑われること。
逃げても追いかけられること。
その全部だった。
けれど、それを説明しようとすると、言葉が出てこない。
高橋が言った。
「俺、別に嫌がることしてないけどな」
「……」
「ただM男って呼んでるだけじゃん」
「嫌なんだよ」
「だから、それが演技なんだって」
「違う!」
真司が叫ぶ。
高橋は嬉しそうに笑った。
「ほら」
また、その顔。
その笑い方。
「また怒った」
真司は拳を握った。
「……もう、やめてくれ」
声が震えた。
「何?」
「本当に……やめて」
高橋は少し黙った。
そして言った。
「分かった」
真司は顔を上げた。
「……本当?」
「うん」
高橋は笑った。
「じゃあ、もうM男って呼ばない」
ほっとした。
そう思った瞬間だった。
「チクり魔」
教室に笑いが起きた。
「……え?」
高橋は真司の顔を見た。
「これからお前のこと、チクり魔って呼ぶわ」
「やめろよ」
「何で?」
「それも嫌だ」
「じゃあ先生に言えば?」
笑い声。
「また先生に言えばいいじゃん」
「チクり魔だから」
「先生に守ってもらえば?」
「泣けば先生来てくれるんじゃない?」
笑い声が重なった。
真司は机の横に立ったまま動けなかった。
M男が消えた。
その代わりに、
「チクり魔」
が生まれた。
自分が助けを求めたことが、罪になった。
昼休み。
真司は一人で教室を出た。
校舎の裏にある階段に座った。
誰もいない。
ここなら大丈夫だと思った。
けれど、すぐに足音がした。
「やっぱりここにいた」
高橋だった。
「……何?」
「先生に言ったんだって?」
「もういいだろ」
「俺さ」
高橋は隣の段に座った。
「別に怒ってないよ」
「……」
「たださ」
少し笑って、
「友達なら、普通は先生に言わないよな」
真司は黙っていた。
「俺たち、そんなに嫌い?」
「そういう話じゃない」
「じゃあ何?」
「嫌なことは嫌なんだよ」
高橋は首を傾げた。
「でも、お前さ」
「……」
「本当に嫌なら、もっと強く言えばいいじゃん」
「言った」
「言ってない」
「言ったよ」
「聞こえなかった」
「何回も言った」
「俺には聞こえなかった」
真司は唇を噛んだ。
高橋は立ち上がった。
「じゃあ、次はもっと大きな声で言えば?」
そして階段を上がっていった。
一人になった真司は、しばらく動けなかった。
自分は何をすればいいのだろう。
大きな声で言えばいい。
怒ればいい。
先生に言えばいい。
逃げればいい。
どれも試した。
それなのに、全部が新しい理由に変わっていく。
放課後。
担任の山本先生が教室に入ってきた。
「佐伯」
「はい」
「ちょっといいか」
真司は立ち上がった。
廊下に出る。
先生は周囲を確認してから言った。
「高橋のことだが」
「……はい」
「本人と話した」
真司は黙って聞いた。
「高橋は、そんなつもりはないと言っている」
「……でも」
「佐伯が嫌だということは伝えた」
「はい」
「だから、これからはお互いに気をつけるように言った」
真司は先生を見た。
「……それで終わりですか?」
先生は少し困った顔をした。
「何か他にあるのか?」
「……」
ある。
たくさんある。
けれど、うまく言えない。
「……ありません」
「そうか」
先生は頷いた。
「じゃあ、もう大丈夫だな」
その言葉が、妙に重かった。
大丈夫。
何が大丈夫なのか。
学校を出ると、空はもう暗くなっていた。
家に帰る途中。
真司はふと思った。
先生は悪い人ではない。
話を聞いてくれた。
高橋にも注意してくれた。
それなのに、どうして自分は少しも安心できないのだろう。
家に帰ると、母が夕食の準備をしていた。
「おかえり」
「ただいま」
「学校どうだった?」
「普通」
「そう」
母はそれ以上聞かなかった。
真司は自分の部屋に入った。
制服を脱ぐ。
鞄を置く。
机の引き出しを開ける。
そこには、これまで集めた紙が入っている。
「M男」
「M男」
「M男」
そして今日、新しく加わった。
「チクり魔」
真司はその紙をしばらく見つめた。
そして裏返した。
白い紙。
そこにペンを走らせる。
「先生に言った」
一行。
少し考える。
その下に、
「助けてほしかった」
と書いた。
さらに、
「でも、言わない方がよかったのかな」
と続けた。
そこで手が止まった。
自分が悪かったのかもしれない。
先生に言ったから。
大げさにしたから。
我慢できなかったから。
もっと上手く笑っていれば。
もっと強く無視できていれば。
もっと普通だったら。
そんな考えが、少しずつ頭の中に入り込んできた。
けれど。
ノートの一番最初のページを見る。
そこには、以前書いた言葉があった。
――俺はMじゃない。
その下に、
――嫌だった。
真司はペンを置いた。
「……俺が悪いの?」
誰も答えない。
その夜。
布団に入っても眠れなかった。
明日、学校へ行ったらまた言われる。
チクり魔。
M男。
演技。
被害者ぶるな。
その言葉を想像するだけで、胸が苦しくなった。
それでも朝になれば、学校へ行かなければならない。
逃げる理由がない。
休む理由もない。
先生には、
「もう大丈夫」
と言われた。
だから。
大丈夫にしなければならなかった。
翌朝。
真司は鏡の前に立った。
笑ってみた。
口角を上げる。
普通の顔を作る。
何も気にしていない顔。
何も傷ついていない顔。
そして小さく呟いた。
「大丈夫」
もう一度。
「大丈夫」
けれど三度目は、声にならなかった。
学校へ向かう道で、真司は何度も考えた。
もし誰かが、
「嫌だったんだね」
と言ってくれたら。
それだけでよかった。
「やめてって言ったんだから、やめよう」
そう言ってくれる人が一人でもいたら。
それだけでよかった。
けれど学校には、
「嫌がってる演技」
という言葉と、
「先生に言った」
という言葉だけが残っていた。
そして真司はまだ知らなかった。
これから先、
「助けを求めること」が、
もっと大きな罪として扱われるようになることを。




