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M男は辛いよ  作者: こうた
第二章 「お前がMだから」

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第五話 嫌がってる演技

中学校に入ってから、真司は少しだけ安心していた。


小学校を卒業すれば、環境が変わる。


クラスも変わる。


先生も変わる。


何より、自分を「M男」と呼んでいた連中とは、離れられる。


そう思っていた。


入学式の日。


真新しい制服を着て、真司は教室の一番後ろの席に座っていた。


周りには、まだ知らない顔が並んでいる。


誰も自分を知らない。


誰も、自分をM男だとは知らない。


それだけで、胸の奥が少し軽かった。


(今度こそ……普通にできるかもしれない)


休み時間。


隣の席の男子が話しかけてきた。


「なあ、佐伯」


「……何?」


「小学校どこ?」


「王寺の……」


「へえ。じゃあ、誰と一緒だった?」


真司は少し考えてから答えた。


「高橋とか……」


その名前を口にした瞬間だった。


男子の顔が変わった。


「高橋って、高橋恒一?」


「……うん」


「知ってる」


「そうなの?」


「あいつ、お前のことM男って呼んでたぞ」


心臓が、一度だけ大きく跳ねた。


「……え?」


「何? 知らないの?」


「いや……」


笑ってごまかそうとした。


「昔の話だから」


そのとき。


教室の後ろから声がした。


「おーい、M男!」


真司の体が固まった。


振り返る。


高橋だった。


小学校の頃と同じ顔。


少し背が伸びて、声が低くなっただけ。


高橋は笑いながら近づいてきた。


「久しぶり」


「……うん」


「元気だった?」


「うん」


「M男も中学生か」


周囲の何人かが笑った。


真司は笑えなかった。


「……その呼び方、やめてよ」


高橋は一瞬きょとんとした。


そして笑った。


「何で?」


「嫌だから」


「は?」


「嫌なんだよ」


教室が少し静かになった。


真司は、自分でも驚いていた。


以前なら、ここまで言えなかった。


でも、今日は言った。


ちゃんと伝えた。


「本当に嫌だから」


高橋は黙って真司を見た。


そして――


吹き出した。


「お前、まだそれやってんの?」


「……え?」


「その嫌がるやつ」


「やってないよ」


「いやいや」


高橋は周りを見た。


「こいつ、昔からこうなんだよ」


「何が?」


「嫌がるふりして、こっちを煽ってくるの」


「違う」


真司はすぐに否定した。


「俺、本当に嫌なんだよ」


「はいはい」


「違うって!」


声が大きくなった。


高橋は楽しそうに笑った。


「ほら」


「……何?」


「そういうところ」


「どういうところだよ」


「怒ったり、必死になったりするところ」


高橋は、まるで新しい玩具を見つけたような顔をしていた。


「お前、ほんと変わんねえな」


周りの男子が笑う。


真司は俯いた。


まただ。


何を言っても、逆になる。


「嫌だ」と言えば、


「嫌がるふり」。


「やめろ」と言えば、


「面白がっている」。


怒れば、


「演技」。


黙れば、


「認めた」。


逃げれば、


「図星」。


どうすればいいのか分からなかった。


その日の帰り。


靴箱を開けると、上履きの中に紙が入っていた。


紙には、乱暴な字で書かれていた。


――M男。


真司は紙を握りつぶした。


ゴミ箱に捨てようとした。


けれど、途中で手が止まった。


また、証拠を残そうとしていた。


何のためなのか、自分でも分からない。


家に帰って机の引き出しを開ける。


小学校の頃の紙。


「M男」と書かれた紙。


「M男」と書かれたノートの切れ端。


自分が書いた、


「嫌だ」


「やめてほしい」


という文字。


それらを見つめる。


そして、新しい紙を一枚追加した。


今日の紙。


そこにも、


――M男。


と書かれていた。


真司はその横に小さく書いた。


「嫌だった」


それだけだった。


翌日。


高橋は朝から真司の机の横に立っていた。


「なあ、M男」


「……何」


「昨日のこと、まだ怒ってる?」


「怒ってない」


「じゃあ、嫌じゃない?」


「嫌だよ」


「ほら」


「何が?」


「またそれ」


高橋は笑った。


「昨日もそうだったじゃん」


「だから、本当に嫌なんだって」


「演技うまいなあ」


「演技じゃない!」


「じゃあ証明してみろよ」


「……どうやって?」


「本当に嫌なら、怒るんじゃない?」


真司は黙った。


「怒れよ」


「……」


「ほら」


「やめろよ」


「もっと」


「やめろって!」


「もっと怒れよ」


真司の手が震えた。


「やめろ!」


教室に声が響いた。


一瞬、静かになった。


高橋は満足そうに笑った。


「ほら」


「……何だよ」


「面白い」


周囲から笑い声が起きた。


真司は何も言えなくなった。


そのとき、女子の一人が言った。


「でも、佐伯って本当に嫌なら、先生に言えばいいじゃん」


正論だった。


真司もそう思った。


だから、昼休み。


職員室へ向かった。


担任の山本先生を見つけた。


「あの……先生」


「どうした?」


「高橋君たちが……」


そこまで言った。


けれど、言葉が続かなかった。


「何かされたのか?」


「……M男って呼ばれて」


先生は少し困った顔をした。


「それが嫌なのか?」


「はい」


「高橋は冗談で言ってるんじゃないか?」


「でも……」


「佐伯も、嫌なら嫌ってはっきり言えばいい」


真司は先生を見た。


「……言いました」


「そうか」


先生は頷いた。


「じゃあ、しばらく様子を見よう」


「……はい」


職員室を出た。


廊下を歩いていると、高橋と鉢合わせた。


「先生に言った?」


真司は答えなかった。


高橋が笑った。


「チクったんだ」


「違う」


「何が違うんだよ」


「……相談しただけ」


「同じじゃん」


高橋は友達に向かって言った。


「こいつ、ほんと被害者ぶるよな」


笑い声。


真司は唇を噛んだ。


その日から。


「M男」は少しずつ変化した。


ただの呼び名ではなくなった。


「M男だから」


「M男なんだから」


「どうせ嫌がるふりしてる」


「先生に言えば?」


「またチクる?」


何をされても、最後には同じ言葉がついた。


――お前がMだから。


ある日。


体育の授業で、真司がボールを取り損ねた。


高橋が笑った。


「M男、下手くそ」


真司は無視した。


すると、


「無視?」


別の男子が言った。


「演技?」


真司は振り返らなかった。


「無視するのも演技かよ」


笑い声。


真司は歯を食いしばった。


何も言わない。


何もしない。


それでも終わらない。


その夜。


机に向かって、真司はノートを開いた。


そして、何度も書いた。


「俺はMじゃない」


「俺は嫌だ」


「やめてほしい」


書いているうちに、手が痛くなった。


それでも書いた。


最後に一行だけ。


「どうしたら信じてもらえる?」


ペンを置いた。


部屋は静かだった。


誰も笑っていない。


誰も「演技だ」と言わない。


だからこそ、真司には分からなかった。


学校では、なぜ自分の言葉だけが、自分のものにならないのだろう。


「嫌だ」と言った。


なのに、


「本当は嬉しい」と決めつけられる。


「やめて」と言った。


なのに、


「もっとやってほしい」と決めつけられる。


自分が何を感じているかを、


自分より他人のほうが知っていることになっている。


真司はノートを閉じた。


そして、暗い部屋の中で小さく呟いた。


「……俺の気持ちなのに」


返事はなかった。


ただ、机の引き出しの中には、


何枚もの「M男」と書かれた紙が残っていた。


そしてその一番上には、


真司自身が書いた言葉があった。


――俺は嫌だった。


誰にも届かなかった言葉だった。

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