第4話 その顔、面白い
それからしばらくして。
「M男」という言葉は、完全に教室の中に定着した。
誰かが真司を呼ぶとき。
「佐伯」
ではなく、
「M男」
と呼ぶ。
それが当たり前になっていた。
朝、教室に入る。
「おはよう、M男」
昼休み。
「M男、これ取って」
体育の時間。
「M男、こっち来いよ」
帰り際。
「じゃあな、M男」
真司は、できるだけ反応しないようにしていた。
最初の頃は、
「やめろよ」
と言っていた。
次に、
「嫌だから」
と言った。
その次には、何も言わなくなった。
何も言わなければ、いつか飽きる。
そう思っていた。
しかし。
人間は、反応しない人間を見つけると、別の方法で反応を引き出そうとすることがある。
真司の場合も、そうだった。
「M男」
返事をしない。
「M男」
顔を上げない。
「おーい、M男」
無視する。
「聞こえてる?」
無視する。
高橋は笑った。
「最近、無視するようになったな」
田中が言う。
「なんかつまんなくね?」
「じゃあ、怒らせようぜ」
真司はその言葉を聞いていた。
しかし、振り向かなかった。
聞こえていないふりをした。
――何もしない。
――何も言わない。
――反応しない。
それが自分を守る方法だと思っていた。
ところが、その日の休み時間。
真司の机の中から、筆箱がなくなった。
「あれ……?」
机の中を探す。
ない。
鞄を見る。
ない。
床を見る。
ない。
「どうした?」
高橋が聞いた。
「筆箱がない」
「また?」
「……うん」
「ちゃんと探せよ」
「探してる」
「机の中は?」
「ない」
「じゃあ、なくしたんじゃね?」
「違うよ」
「何で?」
「さっきまであったから」
「じゃあ、どっかに落としたんだろ」
「……」
真司は教室を探し始めた。
机の下。
棚の中。
教室の隅。
どこにもない。
その様子を、高橋たちは笑いながら見ていた。
「真司、顔やばいぞ」
「……」
「めっちゃ困ってる」
「……」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「本当に?」
「うん」
真司は探し続けた。
そのとき。
田中が笑いながら言った。
「これじゃね?」
田中の手には、真司の筆箱があった。
「それ!」
真司が近づく。
「返して」
「いいけど」
田中が筆箱を高く持ち上げた。
「取ってみろよ」
「……返してよ」
「自分で取れば?」
真司が手を伸ばす。
田中は手を上げる。
届かない。
「返して」
「M男、怒ってる?」
「怒ってない」
「じゃあ、笑ってみろよ」
「……」
「笑えよ」
真司は無理に笑った。
口角を上げる。
「ほら」
田中が笑う。
「気持ち悪い」
真司の笑顔が消えた。
「……」
「やっぱり怒った?」
「怒ってない」
「じゃあ、もう一回」
「嫌だ」
その瞬間。
高橋が笑った。
「出た!」
教室中に笑い声が広がった。
「嫌だって!」
「また言った!」
「M男が嫌だって!」
真司は筆箱を見つめた。
「返してよ」
「じゃあ、取りに来いよ」
「嫌だよ」
「何で?」
「……」
「怖いの?」
「違う」
「じゃあ来いよ」
「返して」
高橋が田中から筆箱を受け取った。
「ほら」
真司が手を伸ばす。
高橋は引っ込める。
「ほら」
また引っ込める。
何度も。
真司の手が空を切る。
「やめてよ」
高橋が笑う。
「その顔!」
「……」
「その顔、面白い!」
真司は手を下ろした。
「もういい」
「何が?」
「もう、いらない」
「筆箱だろ?」
「いい」
真司は自分の席に戻った。
教室の後ろから笑い声が聞こえる。
「M男、拗ねた」
「かわいそう」
「かわいそうって言うなよ」
「じゃあ、怒らせようぜ」
真司は机に顔を伏せた。
耳を塞ぎたかった。
でも、耳を塞いだら、
「逃げた」
と言われる。
立ち上がったら、
「怒った」
と言われる。
何も言わなかったら、
「無視した」
と言われる。
笑ったら、
「喜んでる」
と言われる。
何をしても。
何をしなくても。
自分の意思とは関係なく、意味を決められてしまう。
それが、たまらなく苦しかった。
その日の午後。
体育の授業があった。
先生が言った。
「今日は二人組を作れ」
生徒たちが一斉に動く。
「高橋、一緒にやろうぜ」
「俺、田中と」
次々とペアが決まっていく。
真司は立っていた。
誰とも組んでいない。
先生が周囲を見る。
「佐伯、誰かと組め」
「……はい」
真司は教室を見回した。
高橋と目が合う。
高橋が笑った。
「M男、こっち来いよ」
真司は動かなかった。
「どうした?」
「……嫌だ」
高橋の顔が変わった。
「何?」
「お前とは組みたくない」
初めてだった。
真司が、はっきりと拒否した。
周囲が静かになった。
高橋が真司を見る。
「何で?」
「……嫌だから」
「俺、何もしてないじゃん」
「……」
「M男のくせに」
その言葉を聞いた瞬間。
真司の中で何かが切れた。
「俺はMじゃない!」
体育館に声が響いた。
全員が振り向いた。
真司自身も驚いていた。
こんな大声を出したのは初めてだった。
高橋が笑う。
「じゃあ何?」
「普通だよ!」
「普通のやつがそんな怒る?」
「怒るよ!」
「何で?」
「嫌だから!」
「何が?」
「お前にM男って呼ばれること!」
体育館が静まり返る。
先生がこちらを見る。
「おい、どうした?」
高橋がすぐに笑顔になる。
「何でもないです」
「佐伯?」
真司は先生を見た。
「……」
言いたかった。
いじめられている。
やめてほしい。
助けてほしい。
でも。
口から出た言葉は違った。
「何でもありません」
先生は少し首を傾げた。
「そうか。じゃあ早く組め」
「……はい」
体育の授業が始まった。
真司は別の男子と組んだ。
しかし、頭の中にはさっきのことが残っていた。
――俺はMじゃない。
それを初めて、大声で言った。
それなのに。
誰も何も変えてくれなかった。
授業が終わる。
教室へ戻る。
真司が着替えていると、高橋が近づいてきた。
「なあ」
「何?」
「さっきの、面白かった」
「……何が?」
「Mじゃないって必死に言ってるところ」
「……」
「そんな必死になると、余計怪しいぞ」
「やめろよ」
「また言った」
「やめろって!」
「ほら」
高橋は笑う。
「その顔」
「……」
「その顔、面白いんだよ」
真司は拳を握った。
殴りたかった。
でも、殴ったら自分が悪くなる。
先生に怒られる。
親にも迷惑をかける。
そう思って、拳を開いた。
「偉いな」
高橋が笑った。
「ちゃんと我慢できたじゃん」
その言葉が、真司には妙に引っかかった。
まるで。
自分が我慢することが当然であるかのようだった。
放課後。
真司は一人で帰った。
いつもなら友達と途中まで一緒だった。
今日は誰にも声をかけなかった。
夕日が道路を赤く染めている。
ランドセルが重い。
身体が重い。
心が重い。
家に着く。
「おかえり」
母親の声。
「……ただいま」
「どうしたの? 元気ないね」
「疲れた」
「学校で何かあった?」
「何もない」
「そう?」
「うん」
母親は少しだけ真司の顔を見た。
「何かあったら言ってね」
「……うん」
真司は自分の部屋へ行った。
ランドセルを置く。
机に座る。
今日の体育を思い出す。
自分はちゃんと「嫌だ」と言った。
それなのに。
何も変わらなかった。
むしろ、笑われた。
真司はノートを一冊取り出した。
宿題をするためのノートだった。
少し迷ってから、最後のページを開く。
鉛筆を持つ。
そして書いた。
『M男って言われるのが嫌だ。』
一行。
少し考える。
もう一行。
『俺はMじゃない。』
さらに一行。
『やめてほしい。』
書いたところで、手が止まった。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
高橋なのか。
田中なのか。
クラス全員なのか。
先生なのか。
それとも。
自分自身なのか。
真司はノートを閉じた。
その夜。
布団の中で目を閉じる。
体育館で叫んだ自分の声が頭の中に残っている。
「俺はMじゃない!」
何度も響く。
けれど、その声の後には必ず笑い声が続いた。
――ははは。
――M男が怒った。
――面白い。
真司は布団を強く握った。
「……違う」
小さく呟く。
「俺はMじゃない」
もう一度。
「俺はMじゃない」
それでも、胸の奥に不安が生まれていた。
もし。
本当に自分が悪いのだとしたら。
もし。
自分の性格が原因なのだとしたら。
もし。
自分がもっと普通だったら。
こんなことにはならなかったのではないか。
子供は、自分に起きていることを正確に分析できない。
だから、簡単な答えを探してしまう。
そして、その答えが自分を傷つけるものだったとしても。
受け入れてしまうことがある。
――自分が悪いのかもしれない。
その考えは、後になって真司の心に深く入り込むことになる。
翌朝。
教室に入った瞬間。
「おはよう、M男!」
高橋の声。
真司は立ち止まった。
昨日なら、何か言い返していたかもしれない。
でも今日は違った。
「……おはよう」
それだけ言った。
「何だよ、元気ねえな」
「普通だよ」
「昨日あんなに怒ってたのに?」
「怒ってない」
「嘘つけ」
高橋が笑う。
「なあ、みんな」
周囲を見る。
「昨日のM男、面白かったよな?」
「面白かった」
「めっちゃ怒ってた」
「顔真っ赤だったし」
笑い声。
真司は席に座った。
机を見る。
そこには新しい紙が置かれていた。
『M男』
昨日までなら、捨てていた。
今日は違った。
真司はその紙を手に取った。
そして、ゆっくりと破った。
ビリッ。
もう一度。
ビリッ。
細かく破る。
高橋が見ていた。
「何してんの?」
「捨てる」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「じゃあ、何でそんな顔してる?」
真司は顔を上げた。
「……やめて」
高橋が笑った。
「何を?」
「もう、俺のことをM男って呼ぶの、やめて」
教室の空気が一瞬止まった。
真司は続けた。
「本当に嫌なんだ」
高橋は真司を見た。
数秒。
そして。
「分かった」
真司は少しだけ安心した。
「……本当に?」
「ああ」
「ありがとう」
高橋は笑った。
「じゃあ、もっと別の呼び方考えるわ」
周囲が笑った。
真司の顔から笑顔が消えた。
高橋は楽しそうだった。
「M男じゃなくてさ」
「……」
「何がいいかな?」
その瞬間。
真司は理解した。
これは、名前の問題ではない。
自分が嫌がることそのものが、彼らにとって遊びなのだ。
名前を変えても。
呼び方を変えても。
自分が嫌だと言う限り。
また何かを見つけられる。
その日の帰り道。
真司は一人で歩いた。
昨日よりも少しだけ早く。
誰かに追いつかれないように。
誰かに声をかけられないように。
家へ帰る。
玄関を開ける。
「ただいま」
母親が振り返る。
「おかえり」
真司は靴を脱いだ。
そして、いつものように笑った。
家では笑える。
学校でも笑えるようにならなければいけない。
そう思った。
その夜。
机の引き出しに、昼間の紙を捨てずにしまった。
そこには、
『M男』
と書かれていた。
真司は引き出しを閉める。
なぜ捨てなかったのか。
分からない。
ただ。
それを捨ててしまったら、自分に起きていることまで「なかったこと」になってしまうような気がした。
だから残した。
自分は嫌だった。
確かに嫌だった。
それだけは、忘れないように。
そして。
この小さな紙が。
後に始まる長い長い苦しみの、最初の証拠になった。




