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M男は辛いよ  作者: こうた
第一章 M男の誕生

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第3話 やめろよ

 「M男」という言葉が、教室の中で当たり前になってから、一週間ほどが過ぎた。


 最初の頃は、高橋たち数人だけだった。


 けれど、人間は不思議なものである。


 一度、誰かが使い始めた言葉は、いつの間にか広がっていく。


「おい、M男」


「M男、消しゴム貸して」


「M男、これ持って」


「M男、今日掃除当番だろ?」


 いつの間にか、真司を名前で呼ぶ人が減っていた。


 別に、全員が真司を嫌っているわけではない。


 むしろ、そうではなかった。


 普通に話しかけてくる子もいる。


 宿題を見せてくれる子もいる。


 体育の授業で一緒になることもある。


 それでも。


 面白半分に「M男」と呼ぶ。


 そして、誰も止めない。


 それが一番厄介だった。


 ある日の朝。


 真司が教室に入ると、黒板に大きな文字が書かれていた。


『本日のM男』


 その下には、真司の名前。


 そして、その横に星印まで描かれている。


 教室の何人かが笑っていた。


「誰が書いたの?」


 真司が聞く。


「知らない」


 田中が答えた。


「高橋?」


「俺じゃねえよ」


「じゃあ誰だよ」


「そんな怒るなって」


 高橋が笑う。


「冗談だろ?」


 真司は黒板消しを手に取った。


 文字を消す。


 粉が舞う。


 何度も擦った。


 しかし、真司の名前の部分だけがなかなか消えない。


 黒板に白い跡が残った。


「もういいじゃん」


 後ろから声がする。


「何が?」


「そんな必死に消さなくても」


「嫌だから」


「またそれかよ」


 高橋が笑う。


「お前、最近そればっかりだな」


「だって嫌なんだから」


「何がそんなに嫌なの?」


「M男って呼ばれること」


 高橋は首を傾げた。


「別にいいじゃん」


「よくない」


「なんで?」


「俺はMじゃないから」


 一瞬、静かになった。


 そして。


「はははは!」


 教室に笑い声が広がった。


 真司は固まった。


「何がおかしいんだよ」


 高橋が笑いながら言う。


「自分からMじゃないって言うのが面白いんだよ」


「……」


「じゃあ証明してみろよ」


「何を?」


「Mじゃないって」


「どうやって?」


「知らねえよ」


 また笑い声。


 真司は黒板消しを置いた。


 席へ戻る。


 椅子に座る。


 何も言わない。


 すると、後ろから小さな声が聞こえた。


「怒った?」


 無視する。


「M男、怒った?」


 無視する。


「おーい、M男」


 無視する。


 すると、高橋が真司の机を軽く蹴った。


 ガンッ。


 机が揺れる。


 真司の鉛筆が転がった。


「……やめろよ」


「何を?」


「机蹴るの」


「別にいいだろ」


「よくない」


「怒ってる?」


「怒ってるよ」


 真司は思わず声を荒げた。


 教室が静かになる。


 高橋が真司を見た。


 数秒。


 そして。


「やっぱり面白い」


 笑った。


 周りも笑った。


 真司は唇を噛んだ。


 ――なんで。


 自分は怒っている。


 本当に嫌だと思っている。


 なのに。


 どうして笑うのか。


「何が面白いんだよ!」


 真司が叫んだ。


 高橋が笑う。


「ほら、もっと怒れよ」


「やめろって!」


「怒れよ」


「やめろ!」


「ほら!」


「やめろよ!」


 真司の声が教室に響く。


 その瞬間。


 高橋は満足そうに笑った。


「な?」


 田中を見る。


「こいつ、面白いだろ?」


 田中も笑った。


「面白い」


 真司はその言葉を聞いて、言葉を失った。


 自分が傷ついていることが。


 怒っていることが。


 嫌がっていることが。


 誰かにとっての「面白い」になっている。


 それが、初めて怖いと思った。


 その日の休み時間。


 真司は教室を出た。


 廊下を歩く。


 誰もいない階段を上る。


 屋上へ続く階段の途中に座った。


 窓から外を見る。


 校庭では、何人かの男子がボールを蹴っていた。


 楽しそうだった。


 自分もあそこにいたはずなのに。


 いつからだろう。


 自分だけ、少し違う場所にいる。


 そんな気がした。


「……嫌だ」


 小さく呟く。


「本当に嫌だ」


 誰もいない。


 だから、言えた。


「M男って呼ばれるの、嫌だ」


 その言葉を口にしただけで、少しだけ楽になった。


 自分の気持ちを、自分だけは分かっている。


 それでいい。


 そう思った。


 しかし。


「何してんの?」


 突然、声がした。


 振り返る。


 中村美紀だった。


「……何でもない」


「こんなところで?」


「うん」


「授業始まるよ」


「分かってる」


 美紀は少し迷ったようにしてから言った。


「高橋たち、悪気ないと思うよ」


「……」


「ただ遊んでるだけ」


「俺は嫌なんだけど」


「うん」


「じゃあ、やめてって言ってよ」


 美紀は黙った。


「私が?」


「うん」


「……言いにくいよ」


「なんで?」


「高橋たちに嫌われるじゃん」


 真司は何も言えなかった。


 美紀は悪い子ではない。


 真司もそれは分かっている。


 だからこそ、何も言えなかった。


「ごめん」


 美紀はそう言った。


 そして階段を下りていった。


 真司は一人残された。


 誰かを責めたいわけではない。


 ただ。


 誰か一人でも、


「やめて」


と言ってくれれば、それだけでよかった。


 午後。


 給食の時間。


 真司の牛乳がなかった。


「あれ?」


 机を見る。


 ない。


 周囲を見る。


 ない。


「先生、牛乳がありません」


「配り忘れかな?」


 先生が確認する。


「誰か余ってないか?」


 誰も答えない。


 高橋が笑った。


「M男、牛乳飲みたかったん?」


「……そういう問題じゃないよ」


「じゃあ、水飲めば?」


「嫌だよ」


「また嫌だって」


 笑い声。


 真司は先生を見る。


 先生は苦笑していた。


「まあまあ。仲良くしろよ」


「……」


 真司は俯いた。


 仲良く。


 その言葉が嫌だった。


 仲良くできるなら、したい。


 喧嘩なんてしたくない。


 誰かを嫌いにもなりたくない。


 でも。


 自分が嫌がっていることを続けられているのに、


「仲良くしろ」


と言われても、どうすればいいのか分からない。


 放課後。


 真司は急いで帰ろうとした。


 靴箱で靴を履き替えていると、高橋たちがやってきた。


「真司」


「何?」


「今日、一緒に帰ろうぜ」


 真司は少し驚いた。


「……いいけど」


「じゃあ行こう」


 校門を出る。


 四人で歩く。


 真司は少し安心した。


 もしかしたら、普通に友達として付き合えるのかもしれない。


 そう思った。


 途中で高橋が言った。


「なあ、真司」


「何?」


「お前、昨日もM男って言われてたじゃん」


「……うん」


「嫌だった?」


「嫌だよ」


「じゃあさ」


 高橋が笑った。


「俺たちがM男って言わなくなったら、お前寂しい?」


「え?」


「だって、構ってもらえなくなるじゃん」


「……そんなことない」


「本当に?」


「うん」


「じゃあ明日から呼ばないわ」


 真司は少し安心した。


「ありがとう」


 高橋が笑う。


「ただし」


「何?」


「お前が嫌がらなかったらな」


「……?」


「お前が怒ったり嫌がったりするから面白いんだよ」


 真司は足を止めた。


「それ、やめてよ」


「何を?」


「そういうの」


「だから何?」


「俺が嫌がるのを面白がるの」


 高橋が真司を見る。


 しばらく黙った。


 そして言った。


「じゃあ、嫌がらなければいいじゃん」


「……」


「簡単だろ?」


 高橋たちは歩いていった。


 真司だけが、その場に立ち尽くした。


 夕方の空。


 遠くで犬が鳴いている。


 車が道路を走る音。


 いつもの町。


 いつもの帰り道。


 何も変わっていない。


 それなのに。


 真司の中では、何かが変わっていた。


 ――嫌がらなければいい。


 そんなことができるだろうか。


 嫌なのに。


 嫌じゃない顔をする。


 怒っているのに。


 笑う。


 泣きたいのに。


 我慢する。


 それなら、いじめられなくなるのだろうか。


 その夜。


 真司は鏡の前に立った。


 自分の顔を見る。


 笑ってみる。


 普通の笑顔。


 もう一度笑う。


 今度はもっと大きく。


 そして鏡に向かって言った。


「M男って言われても、気にしない」


 もう一度。


「M男って言われても、気にしない」


 さらにもう一度。


「M男って言われても……」


 言葉が止まった。


 鏡の中の自分は、笑っていなかった。


 真司は俯いた。


「……無理だよ」


 誰にも言えない声だった。


 翌日。


 教室に入る。


 高橋が真司を見る。


「おはよう、M男」


 真司は笑った。


「おはよう」


 高橋が少し驚いた。


「お?」


「何?」


「今日は怒らないんだ?」


「怒ってないよ」


「へえ」


 真司は席に座った。


 笑う。


 笑っていればいい。


 そうすれば、何も起きない。


 そう思った。


 しかし。


「M男」


「うん」


「M男」


「何?」


「M男」


「……何?」


 何度も呼ばれる。


 真司は笑った。


 そのたびに。


「M男」


「うん」


「M男」


「うん」


 笑う。


 笑う。


 笑う。


 けれど。


 胸の奥は、少しずつ苦しくなっていた。


 高橋が言った。


「なあ、真司」


「何?」


「お前、本当にMなんじゃね?」


 真司は笑顔のまま答えた。


「違うよ」


「じゃあ何で怒らないの?」


「……」


「嫌じゃないんだろ?」


 真司は答えられなかった。


 答えたら、また笑われる。


 黙っても、笑われる。


 笑っても、笑われる。


 その日、真司は初めて気づいた。


 自分がどう反応しても、相手が勝手に意味を決めてしまう。


 「嫌だ」と言えば、


「喜んでる」。


 黙れば、


「肯定した」。


 笑えば、


「やっぱり好きなんだ」。


 怒れば、


「もっと怒れ」。


 泣けば、


「演技」。


 真司はまだ知らなかった。


 これから先、何年も。


 この理不尽な仕組みの中に閉じ込められていくことを。


 ただ、この日の帰り道。


 真司は一人で歩きながら、何度も同じ言葉を繰り返していた。


「俺はMじゃない」


「俺はMじゃない」


「俺は……」


 しかし、三回目の言葉は出なかった。


 代わりに、目から涙が落ちた。


 真司は急いで袖で拭いた。


 誰かに見られたくなかった。


 泣いているところを見られたら、また言われる。


 ――「M男、泣いてる」


 そう言われるのが怖かった。


 だから真司は、顔を上げた。


 そして歩いた。


 自分の名前を取り戻すように。


 しかし、その名前はもう少しずつ、教室の中から消え始めていた。

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