第2話 M男
次の日の朝。
佐伯真司は、いつもより少しだけ学校へ行きたくなかった。
目を覚ましたときから、昨日の言葉が頭に残っていた。
――M男。
布団の中で、真司は天井を見つめた。
別に、意味が分からない言葉ではない。
テレビで聞いたこともある。
友達同士がふざけて使っているのも聞いたことがある。
けれど、自分に向けられると、どうしてこんなに嫌なのか。
それが分からなかった。
「真司、起きなさい」
母親の声がした。
「……うん」
「遅れるよ」
「分かってる」
真司は布団から出た。
顔を洗い、制服に着替える。
朝食の席につく。
「眠そうね」
「昨日ちょっと遅くまで起きてたから」
「宿題?」
「うん」
嘘だった。
宿題は早く終わっていた。
昨日の夜、布団の中でずっと考えていた。
どうして自分が「M男」なのか。
何がMなのか。
何をしたら、そう呼ばれなくなるのか。
答えは出なかった。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
家を出る。
いつもの通学路。
いつもの交差点。
いつもの友達。
何も変わっていない。
そう思っていた。
学校の門をくぐる。
校舎へ向かう。
靴を履き替える。
教室の前まで来た。
中から笑い声が聞こえた。
真司は一瞬、足を止めた。
自分のことを笑っているのではないか。
そんな考えが浮かんだ。
すぐに首を振る。
違う。
自分のことじゃない。
そう思って教室に入った。
「お、来た」
高橋が真司を見る。
「M男、おはよう」
笑い声。
真司は立ち止まった。
「……おはよう」
「どうした?」
「何が?」
「元気ないじゃん」
「普通だよ」
「M男だから?」
また笑い声。
真司は席に向かった。
何も言わなかった。
自分の席に座る。
ランドセルを机の横に掛ける。
その間も、後ろから声が聞こえる。
「無視してる」
「怒ってんじゃね?」
「怒ってるなら、もっと言おうぜ」
真司は振り返った。
「やめろよ」
高橋が笑った。
「何を?」
「その呼び方」
「M男?」
「うん」
「なんで?」
「嫌だから」
一瞬、教室が静かになった。
高橋が真司を見る。
そして、にやっと笑った。
「へえ」
「……何?」
「M男って呼ばれるの、嫌なんだ?」
「嫌だよ」
「ふーん」
高橋は、まるで面白いものを見つけたような顔をした。
「じゃあ、M男って呼ばない」
「……うん」
「今日だけな」
「え?」
「明日からどうするかは知らないけど」
周囲が笑った。
真司は何も言えなかった。
先生が教室に入ってきた。
「席につけー」
みんなが自分の席へ戻っていく。
朝の会が始まった。
先生が連絡事項を話している。
真司は黒板を見ていた。
けれど、頭の中ではずっと同じ言葉が繰り返されていた。
――M男。
――嫌だ。
その日、真司はできるだけ目立たないようにした。
授業中、手を挙げない。
休み時間も教室の端にいる。
誰かと目を合わせない。
笑わない。
怒らない。
反応しない。
そうすれば、何も起きない。
そう思った。
ところが。
休み時間。
真司の机の上に、一枚の紙が置かれた。
『M男』
大きく書かれていた。
真司は紙を手に取った。
後ろから笑い声。
「誰が置いたの?」
真司が聞く。
「知らね」
高橋が答える。
「高橋だろ?」
「違うって」
「じゃあ誰?」
「そんなに気になる?」
「……」
「捨てれば?」
真司は紙を丸めた。
ゴミ箱に入れた。
「ほら、終わり」
高橋が笑う。
「何が?」
「嫌なら捨てればいいじゃん」
真司は席に座った。
それ以上、何も言わなかった。
しかし、次の休み時間。
また紙が置かれていた。
『M男』
その次の日も。
その次の日も。
いつの間にか、紙は増えていった。
教科書の中。
机の中。
筆箱の中。
時にはノートの隅にまで。
『M男』
真司は最初、全部捨てていた。
けれど、捨てても捨ててもなくならない。
ある日、真司は一枚の紙を破らず、そのまま机の中に入れた。
何枚あるのか数えてみた。
七枚だった。
七枚。
たった数日で。
真司は、その紙をじっと見つめた。
どうしてこんなことをするのだろう。
自分は何もしていない。
誰かに嫌なことをした覚えもない。
それなのに。
なぜ。
昼休み。
真司は一人で弁当を食べていた。
すると女子の中村美紀が近くに来た。
「真司」
「何?」
「大丈夫?」
「何が?」
「最近、みんなにからかわれてるじゃん」
「……別に」
「本当に?」
「うん」
美紀は少し困ったように笑った。
「まあ、高橋たちも冗談だから」
「……」
「真司も笑ってればいいんじゃない?」
真司は弁当の卵焼きを見つめた。
「笑えないよ」
「でも、怒ると余計面白がられるよ」
「じゃあ、どうすればいいの?」
美紀は答えられなかった。
「……分かんない」
それだけ言って戻っていった。
真司は弁当を食べた。
卵焼きは、いつもと同じ味だった。
なのに、今日は味がしなかった。
午後の授業。
先生が黒板に問題を書いた。
「佐伯、この問題やってみろ」
「はい」
真司は立ち上がった。
黒板へ向かう。
問題を解く。
途中で計算を間違えた。
「あ」
教室から笑い声が起きた。
真司は消しゴムで消した。
もう一度計算する。
正解した。
「よし、合ってる」
先生が言う。
真司は席に戻った。
その途中。
「M男、惜しかったな」
小さな声。
笑い声。
真司は聞こえないふりをした。
席に座る。
先生が授業を続ける。
黒板の文字を見る。
けれど、もう集中できなかった。
自分の名前が呼ばれるたびに、身体が固くなる。
誰かが笑うたびに、肩が震える。
先生が注意する。
「静かにしろ」
教室が静かになる。
しかし数秒後。
また小さな笑い声。
真司は俯いた。
――笑わないで。
心の中でそう思った。
口には出さなかった。
言ったら、また笑われる。
放課後。
帰りの会が終わった。
真司は急いで荷物をまとめた。
早く帰りたかった。
教室から出ようとしたとき、高橋が声をかけた。
「真司」
止まる。
「何?」
「明日、体育あるじゃん」
「うん」
「一緒にやろうぜ」
「何を?」
「二人組」
「……うん」
真司は少し安心した。
もしかすると、普通に戻れるかもしれない。
そう思った。
しかし、高橋は笑いながら続けた。
「M男は俺の相手な」
周囲が笑った。
真司は黙った。
「何だよ、その顔」
「……何でもない」
「怒った?」
「怒ってない」
「じゃあ、明日な」
高橋は手を振って教室を出ていった。
真司はその場に残った。
誰もいなくなった教室。
夕方の光が、机の上を赤く染めていた。
真司は自分の席に戻った。
机の中を見る。
そこには、今日までに集めた七枚の紙。
全部、
『M男』
と書かれている。
真司は一枚ずつ取り出した。
そして、全部細かく破った。
ゴミ箱に捨てた。
それでも、最後の一枚だけは破れなかった。
なぜか捨てることができなかった。
真司はその紙をランドセルの奥に入れた。
理由は自分でも分からない。
ただ、
――いつか、これがなくなる日が来るかもしれない。
そう思った。
家に帰る。
「おかえり」
母親が迎えてくれる。
「ただいま」
「学校どうだった?」
「普通」
また同じ言葉を使った。
「普通」。
それが一番安全だった。
「友達と遊んだ?」
「うん」
「楽しかった?」
「うん」
また嘘をついた。
母親は気づかなかった。
いや。
気づけなかった。
真司が隠していたからだ。
夕食を食べる。
テレビを見る。
母親が笑う。
真司も笑う。
家では何も起きていない。
だから、学校でも大したことは起きていない。
真司はそう思おうとした。
その夜。
布団に入る。
ランドセルの中にある一枚の紙を思い出す。
『M男』
目を閉じる。
また思い出す。
「M男」
高橋の声。
クラスメイトの笑い声。
美紀の言葉。
――笑ってればいいんじゃない?
真司は布団を頭までかぶった。
「……笑いたくない」
小さな声が漏れた。
誰にも聞こえない。
「俺、嫌なんだよ」
目を閉じる。
涙が一滴だけ流れた。
それを手の甲で拭った。
泣いていることを、誰にも知られたくなかった。
翌朝。
学校へ行く。
教室に入る。
高橋が笑顔で手を振った。
「おはよう、M男」
真司は立ち止まった。
昨日までは、ただの冗談だった。
そう思っていた。
でも、この瞬間。
真司の中で何かが変わった。
自分の名前を呼ばれる前に、
「M男」
と呼ばれる。
それが当たり前になり始めていた。
「……おはよう」
真司は答えた。
席に座る。
そして、誰にも聞こえないように呟いた。
「俺は、Mじゃない」
けれど、その言葉は教室の笑い声に消された。
まだ、この時の真司は知らなかった。
あだ名は、いつか人間そのものを覆ってしまうことがある。
名前を呼ばれなくなる。
性格を見てもらえなくなる。
好きなものも。
嫌いなものも。
夢も。
家族も。
優しさも。
全部関係なくなる。
ただ一つの言葉だけが残る。
――M男。
そして、その言葉を最初に笑った少年たちが忘れてしまった後も。
真司だけは、その言葉を忘れられなくなっていく。
それが、始まりだった。




