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M男は辛いよ  作者: こうた
第一章 M男の誕生

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第1話 からかいやすい男

 佐伯真司が、自分は人から笑われやすい人間なのだと知ったのは、小学校三年生の頃だった。


 それが「いじめ」と呼ばれるものだとは、当時の真司には分からなかった。


 もちろん、誰かに殴られたわけではない。


 教科書を破られたわけでもない。


 机に落書きをされたわけでもない。


 だから、先生に相談するほどのことではない。


 少なくとも、真司はそう思っていた。


 その日の朝も、いつもと変わらない教室だった。


 窓から差し込む春の光。


 黒板の上に貼られた時間割。


 休み時間になると、廊下を走る子供たちの足音が聞こえる。


 教室の後ろでは、男子数人が昨日のテレビ番組について話していた。


 真司は自分の席で、机の中から教科書を取り出していた。


「……あれ?」


 国語の教科書がない。


 机の中を何度探しても見つからない。


 ランドセルの中にもない。


 昨日、家で宿題をしたときには確かに持っていた。


「どうした?」


 後ろの席から声がした。


 高橋だった。


 クラスの中心にいる男子だった。


 足が速く、運動もできる。


 先生からもよく褒められていた。


 いつも誰かと話していて、クラスの中で知らない人はいない。


「教科書……ない」


 真司が答える。


「何の?」


「国語」


「また忘れたん?」


「忘れてないよ」


「じゃあ、どこやったん?」


「分からない……」


 高橋が笑った。


「真司って、ほんま抜けてるよな」


 その言葉に、周りの何人かが笑った。


 真司は少しだけ顔を伏せた。


「……昨日は持って帰ったんだけど」


「じゃあ、家に置いてきたんじゃね?」


「違うと思う」


「じゃあ、なくしたんだろ」


「……そうかも」


 真司はそう答えた。


 高橋が笑う。


「ほらな」


 何が「ほら」なのか、真司には分からなかった。


 そのときだった。


 教室の前の方から女子の声がした。


「真司の教科書、これじゃない?」


 振り返ると、真司の国語の教科書を持った女子が立っていた。


「それ……」


「机の後ろに落ちてたよ」


「あ……」


 真司は立ち上がった。


「ありがとう」


「いいよ」


 女子は教科書を渡した。


 真司は受け取る。


 名前を見る。


 間違いなく自分のものだった。


 ほっとした。


 しかし、高橋が言った。


「なんだよ。自分で落としてたのかよ」


「……うん」


「やっぱり真司って抜けてるな」


 また笑いが起こった。


 真司も少しだけ笑った。


 笑うしかなかった。


 そこで笑っておけば、何も問題は起こらない。


 真司は、子供ながらにそう思っていた。


 怒ったら、空気が悪くなる。


 反論したら、もっとからかわれる。


 だから、笑っておけばいい。


 それが一番楽だった。


 その日の昼休み。


 真司は一人で弁当を食べていた。


 別に仲の良い友達がいないわけではなかった。


 休み時間に話す相手もいる。


 遊びに誘われることもある。


 ただ、真司には「自分から輪の中に入る」ということが苦手だった。


 誰かが笑っていると、自分のことではないかと気になってしまう。


 誰かが怒っていると、自分が何かしたのではないかと思ってしまう。


 だから、なるべく目立たないようにしていた。


 弁当箱を開ける。


 母親が作ってくれた卵焼きが入っていた。


 真司はそれを一つ口に入れた。


「真司」


 顔を上げる。


 高橋が立っていた。


「何?」


「今日、一緒に遊ぼうぜ」


「何して?」


「鬼ごっこ」


「うん」


 真司は少し嬉しかった。


 誘われたことが嬉しかった。


 自分もみんなの仲間なのだと思えた。


 食べ終わると、校庭へ出た。


 何人かの男子が集まっていた。


「真司も来たぞ」


「おせーよ」


「ごめん」


「謝るなって」


 高橋が笑った。


 鬼ごっこが始まった。


 真司は走った。


 運動は得意ではない。


 すぐに追いつかれる。


「真司、遅い!」


「待って!」


「待つわけないだろ!」


 笑い声が響いた。


 真司も笑った。


 楽しかった。


 そのときは、本当に楽しかった。


 だから、この日のことを「いじめの始まり」だとは思わなかった。


 ただ、少しずつ変なことが増えていった。


 翌日。


 真司が教室に入ると、自分の机の上に消しゴムが三つ置かれていた。


「何これ?」


 近くにいた高橋が答える。


「お前のだろ」


「違うよ」


「じゃあ誰の?」


「知らない」


「じゃあもらっとけよ」


 笑い声。


 真司は困った。


「返してよ」


「何で?」


「俺のじゃないから」


「じゃあ捨てれば?」


「……」


 真司は何も言えなかった。


 そこへ田中が来た。


「高橋、それ俺の消しゴム」


「じゃあ返すわ」


「違う。俺が真司にあげた」


「え?」


 田中が笑った。


「プレゼント」


「いらないよ」


「なんで?」


「使わないから」


「せっかくあげたのに?」


「……」


 また笑われた。


 真司は消しゴムを机の端に置いた。


 その日から、妙な「プレゼント」が増えた。


 鉛筆。


 消しゴム。


 折れた定規。


 誰かの使いかけのノート。


 真司の机の上に置かれている。


 最初は冗談だと思っていた。


 だから、笑っていた。


「またかよ」


 そう言って笑えば、それで終わる。


 ところが、ある日。


 真司が教室に入ると、机の上に大きな紙が置かれていた。


 紙には、太い文字で書かれていた。


『真司の忘れ物』


 その下に、たくさんの品物の絵が描かれていた。


 教科書。


 消しゴム。


 鉛筆。


 体操服。


 そして一番下に、


『頭』


と書いてあった。


 教室にいた数人が笑っている。


 高橋もいた。


「これ、誰が書いたの?」


 真司が聞いた。


「さあ?」


 高橋は知らないふりをした。


「……」


「怒った?」


「怒ってない」


「じゃあ、いいじゃん」


 真司は紙を机の中に入れた。


 先生が来る前に捨てた。


 誰にも言わなかった。


 母親にも言わなかった。


 その日の帰り道。


 真司はランドセルを背負いながら歩いた。


 夕方の道には、長い影が伸びていた。


 家に帰れば母親がいる。


 「おかえり」と言ってくれる。


 今日もきっと夕飯を作って待っている。


 だから大丈夫。


 真司はそう思った。


 学校で少しからかわれただけ。


 そんなことは、誰にでもある。


 自分が気にしなければいい。


 そう思った。


 家に着く。


「ただいま」


「おかえり、真司」


 母親の声。


「今日どうだった?」


「普通」


「そう」


 母親は笑った。


 真司も笑った。


 その夜。


 布団の中で真司は、昼間のことを思い出していた。


 『真司の忘れ物』


 『頭』


 みんな笑っていた。


 自分も笑った。


 だから、大丈夫。


 そう考えようとした。


 しかし、胸の奥に小さな違和感が残っていた。


 ――なんで、俺なんだろう。


 その疑問に答えてくれる人はいなかった。


 翌週。


 体育の授業で、真司は転んだ。


 走っている途中で足を滑らせたのだ。


 膝を擦りむいた。


「大丈夫?」


 先生が駆け寄ってくる。


「大丈夫です」


「保健室行くか?」


「大丈夫」


 真司は立ち上がった。


 膝から血が出ていた。


 その姿を見て、高橋が笑った。


「また真司転んだ!」


 周囲が笑う。


 真司も笑った。


「痛くないの?」


「ちょっとだけ」


「じゃあ、もっと転んでみろよ」


「嫌だよ」


 何気なく言った。


 本当に嫌だったからだ。


 高橋は一瞬黙った。


 そして笑った。


「何だよ。嫌なんだ?」


「うん」


「へえ」


 高橋が近づいてきた。


「真司ってさ」


「何?」


「嫌って言うとき、なんか面白いよな」


「……?」


「顔」


 高橋が真司の顔を指差した。


「その顔」


 周りが笑う。


 真司は笑えなかった。


 自分では普通の顔をしているつもりだった。


 けれど、高橋は笑っている。


「もう一回言ってみろよ」


「何を?」


「嫌だって」


「嫌だよ」


「ほら!」


 高橋が笑う。


 周囲も笑う。


 真司は、何がおかしいのか分からなかった。


「なんで笑うの?」


「だって、お前面白いんだもん」


「……」


 その日からだった。


 高橋は、真司に何度も「嫌だ」と言わせるようになった。


「これ持って」


「嫌だ」


「じゃあ、これやって」


「嫌だ」


「もっと大きな声で」


「嫌だよ」


「ほら、面白い」


 真司が怒る。


 笑われる。


 真司が困る。


 笑われる。


 真司が黙る。


 「何だよ、無視かよ」と笑われる。


 何をしても、笑われる。


 真司にはまだ分からなかった。


 自分が、少しずつ「からかいやすい男」としてクラスの中に位置づけられていることを。


 そして、誰かが最初に口にすることになる。


 あの言葉。


 後に真司の人生を50年間縛ることになる言葉。


 それが出てくるまで、もう少しだった。


 ある日の放課後。


 教室には数人しか残っていなかった。


 真司はランドセルに教科書を入れていた。


 高橋たちが後ろで話している。


「真司ってさ」


「何?」


「Mなんじゃね?」


 誰かが笑った。


「M?」


「ほら、嫌がるじゃん」


「確かに」


「怒らせると面白いし」


「じゃあM男じゃん」


 笑い声。


 真司は振り返った。


「……何それ」


「M男」


「やめろよ」


 高橋が笑った。


「ほら」


「何?」


「また嫌がった」


「だから面白いんだって」


 真司は何も言えなかった。


 ランドセルを背負う。


 教室を出る。


 廊下を歩く。


 後ろから声が聞こえた。


「じゃあな、M男!」


 真司は振り返らなかった。


 その言葉が、これから自分の名前よりも長く残ることを、そのときの真司は知らなかった。


 ただ一つだけ。


 その夜、布団の中で真司は小さく呟いた。


「……Mじゃないのに」


 誰にも聞こえない声だった。


 それでも、真司は何度も繰り返した。


「俺、Mじゃない」


 その言葉だけが、その日の自分を守るために残された最後のものだった。

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