アルベール編
彼女に心を奪われていると気づいたのはいつだっただろう。
彼女と初めて会ったのは、私が魔法学院を卒業して王城にあがるようになったころ。宮廷魔導士として魔物の討伐の仕事をこなしているときに、彼女と出会った。
彼女は魔物の出る森に一人で来ていた。銀色の髪を一つにまとめて、女性騎士の制服を身に纏っていた。
だから、私は初め、彼女を騎士だと思ったのだ。
けれども、彼女は剣を携えてはいたが、その腕前は新人の騎士よりもひどかった。
彼女は魔物から逃げ回り、時に剣を振り回して牽制していたが、魔物に攻撃は当たらない。騎士であれば魔物に対応できるだろうと思っていたが、とうとう見ていられなくなって、私は彼女の助けに入った。
彼女を魔法の檻で守り、襲い掛かってくる魔物を焼き払う。私一人であればこれだけで済むのに、何故彼女は自分の身を守る手段も、戦う術もなく、魔物の出るこの森に来ていたのだろう。
彼女は唖然としながら魔物の焼ける様を見ていた。私が彼女を覆っていた魔法の檻を解除すれば、彼女ははっと気づいたように顔を上げる。
「あ、あの、ありがとうございました」
私はそこで初めて彼女の顔を見た。夜に煌めく星のような銀色の髪、深い海の底のような青色の瞳。美しいその顔に騎士の恰好は似合わない。
けれど、それだけだった。平民である自分に突っかかってくる人間は学院の中にも、王城の中にも山ほどいた。美しい容貌を持っていながら、その中身はひどく腐っているような人間も山ほど見てきた。
彼女がどれほど美しかろうと、私の心が動くことはなかった。
「何故、貴女はここにいる?」
ひどく冷たい声が出た。けれど、相手からどう思われようと私にはどうでもよかった。たとえ誰からどれだけ嫌われようが、私の何かが大きく変わることはない。
彼女はびくりと肩を震わせると、落ち込んだように視線を下げた。
「申し訳ありません。少し、剣の練習がしたくて」
彼女の謝罪は真摯だった。その言葉に、嘘偽りはない。
「ここは魔物が出る。送るから、早く帰れ」
端的に言葉を発して、騎士の駐屯地に向かって歩き出した。新人の騎士を単独で行動させるなど、この国の騎士団はどうなっているんだ、と思いながら。
「待ってください!」
けれども、彼女は私についてくることはせず、私の魔導士のローブをぐっと掴んだ。
見知らぬ人間にそこまで馴れ馴れしくされる謂れはない。
バッとローブを掴んでその手を振り払えば、彼女は驚いたように目を丸くして、それから申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「……私は、騎士ではないのです」
今度は私が目を見張った番だった。だが、それならそれで納得がいく。彼女が一人でいた理由も、彼女の剣の腕が下手くそな理由も。
「では、貴女はどこの誰だと?」
騎士の制服を手に入れられるのだから、それ相応の身分の者であるのは確かだろう。
彼女は少し困った顔をしたが、意を決したように名を名乗った。
「私はセレイナ・フルシュタイン。フルシュタイン公爵家の令嬢です」
彼女の名前を聞いて、私は後悔した。名乗らせなければよかった、と。
セレイナ・フルシュタイン。いくら貴族が嫌いでも、王城にいればその名を聞かないわけがない。
現第一王子、ストークス・ベル・フォン・エイブレイン。その婚約者。次期王妃として名高い令嬢だった。
「……それは失礼いたしました、セレイナ様。それで、何故貴女のようなお方がこんな森へ?」
恭しく態度を変えて接すれば、彼女はそれに困惑したような顔をする。
一体何故? お互いの立場を考えれば、これが正しいのに。
それでも、彼女はおずおずと私の問いに答えた。
「剣の、練習がしたくて」
くだらない。公爵令嬢であれば、そんなものは必要ないだろう。常に誰かに守られているのだから。
確かに、多くの者から命を狙われることはあるだろうが、だからと言って今更、デビュタントを終えた後の少女が手を出すようなことではない。
「何故?」
私が問えば、彼女は答える。
「自分の身を守れるようになりたいのです。……怖い人がいるから」
私は、セレイナ・フルシュタインは完璧な令嬢だと聞いていた。強く、美しく、賢い。次期王妃にふさわしい人間だと。
けれども、そんな人間にも、恐ろしいと思う者がいるのだ。
それを少し意外に思いながらも、私が何かをすることはなかった。
厄介ごとには関わりたくない。彼女の悩み事に手を出して、それでどうなると言うのだ。
「さようでございますか。……それで、貴女はどこに帰るのですか?」
つまらないことを聞いたと思いながら、私は会話を打ち切った。何の利益もないことにいちいち首を突っ込んではいられない。面倒ごとはとっとと終わらせるに限る。
セレイナは騎士の駐屯地とは別の方向を指さし、私はそちらに向かって歩き出した。
彼女が公爵令嬢のセレイナであると知っていながら、そのまま放置しておくことなどできない。こんなことがバレたら、誰に何と言われるのかわかったものではないからだ。
ただでさえ、平民という身分だけで、あれこれと難癖をつけられているのに。
「あなたはアルベール・クレマチス様ですよね? 先ほどは助けていただき、本当にありがとうございました」
隣を歩きながら、セレイナは私に声をかけてきた。平民には興味のない女性なのかと思っていたが、自分の国の宮廷魔導士の名前はちゃんと覚えていたらしい。
「アルベール様の書いた論文を拝読させていただきました。少々、理解の追いつかない部分もあったのですが、とても面白かったです。あのような理論はどのように考えついたのですか?」
少し視線を斜め下に傾ければ、セレイナの顔が目に入る。その頬はわずかに緩み、深い青の瞳は知的好奇心で煌めいていた。
「……あの理論は他国にあったものを流用したものです。かの国にある材料がこの国では手に入らない。ならば、この国にあるものを代用すれば、あの魔術はどのように作用するのか、かの国とはまた違った結果が得られるのではないか、というただの仮説です」
「なるほど。ケセルラの実はカカリ国の北部山地でしか採れませんものね。我が国がそれを輸入しようとすれば、それ相応のコストがかかります。あの仮説がうまくいけば、我が国でも低コストであの魔術を使用することができるかもしれません」
彼女の答えに、一瞬足が止まりそうになった。
驚いた。あえて国名も材料もぼかしたのに、彼女はそれをピタリと言い当てた。
たった一度読んだだけでそれを言い当てられるのであれば、それは彼女の才能の証明であり。
もしも。もしも本当に、何度も、何度も理解できるまであの論文を読み込んだのであれば――。
「アルベール様?」
いつの間にか、本当に足を止めていたようだ。彼女がパッと私の方を振り返り、銀色の髪が揺れた。
あの論文をそこまで読み込んだ者は同じ宮廷魔導士の中にも、魔法学院の教師の中にもいなかった。平民の書いた論文など、と言って、軽く目を通しただけで放り投げられることがほとんどだ。
もちろん、彼女がそこまで魔術の論文を読み込んだ、という確証はない。
けれども、そうして投げ捨てられたものを彼女が拾ってくれたのであれば。
私は彼女に深々と頭を下げた。
「……どうぞ、アルベールとお呼びください。私は貴女とは違う身分の者ですので」
チリ、と何かが引っかかったような小さな刺激。柔らかい茨の棘が服の端をほんの少し引っ張ったようなもの。そんな何かが胸の奥をひっかく。
彼女から距離を置かなければ。何故か、そんな気がした。
顔を上げれば、驚いたような顔をしたセレイナと目が合う。
そして。
彼女は、ふっと顔を綻ばせた。
花が咲いたように、彼女は笑う。
「そう? なら、そう呼ばせてもらうわ。アルベール」
チリチリと、何かが胸を焼く。
この感情を何と呼ぶのかを、私は知らなかった。
♢♦♢♦♢♦
それから時折、私とセレイナは魔術について話をするようになった。
この国の魔術の特徴は。この魔法がどのように活用されているか。それを利用した、かの国の特産品について。
セレイナの魔術に関する知識は私に及ぶものではなかったが、彼女の他の分野に対する深い知識は新たに私の知見を深めた。
その土地の気候や風土がその国の魔術体系に関連している。この国にはめぼしい特産品がないから、この魔法を利用して付加価値をつけている。
セレイナと話すのは楽しかった。新たな知識が次から次へと得られた。興味のなかったもの、知らなかったものへの知識がスルスルと頭の中に入ってきて、元々持っていた知識と結びついていく。
「――その土地に行って、実際に見てみるの面白いかもしれません」
何かの折に、そんなことを言った。そして、それを聞いたセレイナの顔がわずかに凍り付いたのを見てしまった。
「……そうですね」
知的好奇心に煌めく瞳。それがわずかに陰る。
見てはいけないもの、知ってはいけないものに触れてしまった気がして、思わず彼女から目を逸らした。
何を勘違いしているのだろう。何を想い上がっているのだろう。
何故、他国の風景を想像したあの一瞬、彼女が隣にいると思い込んでしまったのだろう。
彼女は他の男の婚約者なのに。いずれ、この国の王妃となるのに。
そうやすやすと他国に出かけることはできず、もし行けたとしても多くの護衛と夫となるストークス殿下が隣にいるだろうに。
いや、違う。違う。私は何も考えてはいない。
余計なことを、厄介なことを思いつきたくなくて、必死で一瞬思い浮かんだことを頭の中から追い出した。
私がセレイナと話していて楽しいと思うのは、彼女が豊富な知識を持っているからだ。彼女が私についてこれるくらいに魔術の論文を読み込む、賢い女性だからだ。
私が彼女と話したいと思うのは、彼女の才能目当て。それ以上でも、それ以下でもない。
感情を押し殺してセレイナを見れば、彼女もまた、私と同じ感情のない笑みを浮かべていた。
一部の隙もない、淡々とした、完璧な、――全ての感情を押し殺した、まっさらな笑顔。
その笑みに指がわずかに震えた。気を抜けば、口から言葉がこぼれ出そうで。彼女から目を逸らさなければ、と思うのに、その笑顔から目を逸らせない。
私が感情を押し殺した裏で何かを考えていたように、彼女も何かを考えていたのではないか。
そんな都合のいい考えが頭の中をよぎる。
剝ぎ取ってしまいたい。何を考えているのか、と問いかけてしまいたい。
全てを押し殺す、完璧な笑みという仮面を剥ぎ取って、今の本当の彼女がどんな表情をしているのかを見てみたい。
泣いているのか、笑っているのか、その完璧な令嬢の裏にどんな顔の少女がいるのか。
彼女の全てが知りたい。
「――それでは、私はこれで失礼いたしますわ」
カタン、と椅子を響かせて、セレイナは立ち上がった。ビクリ、と白昼夢のような私の硬直が解けた。
静かに頭を下げる彼女は、まさしく完璧なご令嬢。
完璧なご令嬢は、不貞行為などしないのだ。彼女に追いすがったとしても、彼女がどういう対応をするのかわかり切っているのだ。
なら、私にできることは、静かに彼女を見送ることだけ。
私はじっと私の元を去るセレイナの後ろ姿を見つめていた。彼女は私のことを振り向きもしなかった。ただ彼女の背中で彼女の銀色の髪が揺れていた。
そして。
彼女の婚約者が彼女のことを出迎える。見目麗しい、誰かが思い描いた通りの王子様のよう。日の光のような金色の髪に春の空のような水色の瞳。
ストークス・ベル・フォン・エイブレイン。彼女の婚約者。この国の第一王子。
彼は、気安く、たやすく、彼女の肩を抱き寄せ、その銀色の髪に指を絡めて、彼女のこめかみに口づけた。
そして、彼は。
私を見て、ひどく醜く顔を歪めて笑ったのだ。
お前にこんなことはできないだろう、と。
髪の一筋さえ、触れることは叶わないだろう、と。
彼の目線がそう言っていた。
身を焦がすというのは、こういうことをいうのだろう。
どす黒い炎が胸の内を焼く。彼女に初めて会ったときに感じた、ほんの小さな刺激など比べ物にならない。
彼女から、彼女を腕の内に抱くあの男から、目を離せない。
あの時名前の付けられなかったこの感情は、今胸の内を焼くこの炎の名前は。
きっと、恋と嫉妬と呼ぶのだろう。
♢♦♢♦♢♦
けれど、私は手を出せなかった。彼女はきっとこの国と民に尽くすと決めている。彼女が公爵令嬢としての義務を果たすと誓っているのなら、私がそれを全て粉々に壊すことはできない。
初めて、自分の平民という身分を呪った。初めて、自分の生まれを憎んだ。
身分なんてどうでもよかったのに。貴族だろうが平民だろうが、才能さえあれば私は十分だったのに。
こんな身分では、彼女とともにあることも、その手に触れることすら叶わない。
それを嘲笑うように、ストークス殿下は自分とセレイナの仲を私に見せつけた。
あの男を見るたびに、常に嫉妬の炎が渦巻く。それを受け入れているセレイナにも、何故だか腹が立った。
あの男の傍に立つ彼女を見ていたくなかった。あの男に触れられる彼女を見たくはなかった。
だから。だから、話しかけないようにしていたのに。
「アルベール」
どうして彼女はこうも、私の名前を呼ぶのだろう。
王太子妃となった彼女は、常に傍に女官を置くようになっていた。それが彼女から言い出したことなのか、それともこの国の習慣なのか、ストークス殿下がそうさせているのか、私にはさっぱりわからない。
「どうなされましたか? セレイナ様」
何でもないような顔をして振り向けば、彼女は嬉しそうにはにかむ。
「実は、カカリ国との繋がりができそうなの。ほんのわずかだけれど、ケセルラの実が手に入りそうだから、あなたに報告しておこうと思って」
いつぞやにした会話。
何故、彼女は今もそんなことを覚えているのか。何故、たったそれだけを報告するだけなのに、そんなに嬉しそうなのか。
考えたくないのに、頭の中にこびりついて離れない。もう一切の可能性もない、わずかな期待に縋り付きたくなる。
「それは、……ありがとうございます。これで自国の材料との比較ができるでしょう」
そう伝えれば、彼女はパッと表情を明るくした。国のため、民のために奔走する彼女は、たったこれだけのことでも喜びに変える。
けれども、私は気づいている。否が応にも、彼女のことは目で追ってしまっているから。自分でも嫌になるほど、彼女から目を離せないから。
「……ところで、セレイナ様は顔色が悪いようですが」
私の言葉に、彼女の笑みは一瞬硬直する。それからすぐに誤魔化すように苦く笑った。
「そうね。王太子妃になって、公務が忙しくなったから。今はあまり自分の時間が取れていないの。魔術の論文を読む暇もなくて、……ごめんなさいね」
「いえ。それは義務ではありませんので。どうぞ、ご自身のお体を労わってください」
彼女が王太子妃になってから、魔術について話すことは減った。それはもう仕方ないことだ。
自国のことだけでなく、他国のことまで勉強し、夜会に出て、政治に参加し、民に施しを与える。本当は、一宮廷魔導士のためなんかに時間を割く理由もないはずだ。
だから、そんな報告なんて手紙でいい。もしくは横にいる女官にでも任せればいい。
そう、言えればいいのに。彼女がわざわざ私に会いに来てくれるこの現状を、失いたくはない。
「それでは」
私はそう言って、彼女との会話を打ち切った。
このくらい簡単に、彼女への想いを断ち切れればいいのに。彼女のことを忘れられればいいのに。
そんなこともできない自分の愚かさを呪いながら、私は彼女に背を向けて立ち去った。
♢♦♢♦♢♦
それを、深く後悔するなんて知らなかった。
何故、あの時、彼女の本心を聞かなかったのか。何故、あの時彼女の話を深く聞かなかったのか。
強い後悔が私を襲う。
それから数日も経たずに、王太子妃であるセレイナが倒れた。理由は過労。王太子であるストークス殿下の仕事も、彼女が引き受けていたことが原因である。
私はひどく後悔した。
何が、彼女が会いに来てくれる現状を失いたくはない、だ。
彼女が倒れてしまえば、何の意味もないのに。彼女が苦しく、辛い思いをしていたのに。
愚かな恋情に身を焦がして。
彼女に無理をさせていたことをひどく悔いて。
けれども、私ができることは何もない。
セレイナの傍にいるのはストークス殿下の役目だ。私は彼女の何者でもない。夫でもなく、恋人でもなく、親族でもない。
私と彼女は、ただの一宮廷魔導士と王太子妃で。関係性で言えば、友人未満で。会えば、魔術のことくらいしか話ができなくて。
私はただ彼女に恋焦がれる男で。
彼女に何かできる立場にはないのだ。
「セレイナ様の容態はいかがですか?」
セレイナが倒れてから数日。私は彼女の代わりに公務に出るようになったストークス殿下にそう問いかけた。
彼は一瞬私を見て、それから心配をかけさせないようにとニコリと微笑む。
「あまり、よくないみたいだ。仕事のことを気にしていたけれど、まだ体が上手く動かないみたいでね。公務はできるかい、と僕が問うと、黙り込んでしまうんだよ。もしかしたら、精神的な病かもしれないね」
彼女に無理をさせていた。無茶をさせていた。そんな後悔が胸に渦巻く。
彼女に焦がれていたくせに、彼女の身を気遣えなかったなど、なんて滑稽。
ギュッと眉間に皺を寄せた私の肩を、殿下がポンと叩いた。
「大丈夫だよ。セレイナには僕がついているから」
その瞬間に渦巻くのは黒い嫉妬の炎。彼女の隣で、彼女を支えられるのが自分であったらいいのに、という醜い嫉妬。
後悔と嫉妬と、自己嫌悪。結局自分は、彼女のことを何も考えられてはいないのだ。
彼女に何もできず、自分の欲を押し付けることしかできない。
殿下が私の元を去る。きっとセレイナの様子を見に行くのだろう。
私には行けない、彼女の元へ。
私にはそれをじっと睨みつけていることしかできないのに。
♢♦︎♢♦︎♢♦︎
それからさらに月日が経った。セレイナの体調は未だ戻らない。
殿下がセレイナの部屋に何重もの鍵をかけ、幾重にも防御魔法を張ったと聞いた。
それほどまでに彼女な精神を病んでしまったのだろうか。
そして、セレイナを失ったこの国は僅かに軋み始めた。
隣国との関係が少しずつ歪み始め、民への施しが実施されず、貴族間の関係が悪化し始めた。
理由は、王太子妃セレイナが部屋に引き篭もったままだから。
セレイナは隣国との外交を上手くやっていた。けれども、ストークス殿下はそれを上手くこなせない。
民への施しは妃や姫の仕事だったが、まとめ上げる者がおらず、施しを受ける地域が被ったり、逆に施しを受けられなかった地域が出てきた。
そして、引き篭もったセレイナを王太子妃から引き摺り下ろそうとする勢力。
彼女が心を病んでしまい、子供を望めないのであれば、自分の娘をストークス殿下にと、あてがおうとする者が出てきた。
セレイナを慕う者と、彼女を引き摺り下ろそうとする者。王城は二つに割れる。
それだけでは飽き足らず、病んだ妃を持った第一王子ではなく、第二王子を王太子にしようとする者まで。
誰も彼もが王妃にと望んだセレイナ。彼女がいなくなれば、次に始まるのは権力を賭けた醜い椅子取りゲーム。
その渦中にいるはずのストークス殿下は、何故か一人飄々としている。
まるで、この国の全てがどうでもいいことのように。
ぐちゃぐちゃになったこの国。特に忠義もないのであれば、とっとと離れるに限る。
それでも、何故か離れ難いのは、セレイナのことがあるから。
彼女がこの国を愛し、平和を望んでいたから。
もし、私にやり残したことがあるのであれば、それはきっと彼女のことだけだ。
♢♦︎♢♦︎♢♦︎
もしも、願いが叶うなら。
私がやり遂げたいことは、セレイナに会うことだけ。
何を話したいかわからないが、心を病んでしまった彼女と話ができるかわからないが、それでも、一目だけでも彼女に会えたら。
それだけを願って、私はケセルラの実を手に取った。
私が魔法学院にいるときに書いた論文。それは他の生き物に自分の精神を乗り移らせるというもの。自国の材料を使えばまた別のことができるだろうが、今、彼女に会いに行くだけならばこれだけでいい。
小さなネズミに精神を移した私は、病んだ彼女の部屋に向かう。そこの扉には幾重にも魔法防御が張られているが、部屋の壁に穴を開けて経由すればすり抜けることが可能だろう。
壁に穴を開けながら、私は考える。
私は彼女に何を言いたいのだろう。
ごめん、だろうか。
さようなら、だろうか。
それとも。
好きだ、と言いたいのだろうか。
私の言葉を彼女が聞いてくれるかどうかはわからない。そもそも彼女は病んでいて、私の言葉など理解してくれないのかもしれない。
それでもいい。
それでもいいから、最後に一目、彼女に会いたい。
それだけを願って、私は部屋の壁に穴を開ける。殿下に気づかれないように、こっそりと、バレない位置に。
そうして侵入した部屋は暗かった。分厚いカーテンで窓が閉め切られ、空気がこもっている感じがした。
どこか異様な光景に呆気に取られながら、セレイナの姿を探す。
おそらくベッドだろうと、その脇にある棚の上に登った。
そして、ベッドの上に、彼女はいた。
彼女を見た瞬間、私は言葉を失い、後ろによろけて近くにあった花瓶にぶつかった。
カタン、と音が鳴って、クヮン、クヮン、と丸い花瓶の底が回った。
ごそ、と彼女がその音で起きる。ジャラ、と鎖の音が一緒に鳴った。
窶れた頬。艶を失い、絡まった銀髪。細くなった四肢。光を失い、淀んだ水底のような瞳。
何故、そんな彼女の首に、首輪が付いているのだろう。
何故、彼女の手足に、枷が付いているのだろう。
何故、彼女はこんなにも衰弱しているのだろう。
何も言えなかった。彼女に会って何かを言いたかったはずなのに、何の言葉も出てこなかった。
彼女はうろうろとその青い視線を彷徨わせ、この薄暗がりの中でもネズミになった私の姿を見つけ出した。
ぽつり、と仄かに彼女の瞳に光が宿った気がした。
「……アルベール?」
ひどく掠れた声だった。
何故。
何故、彼女は。
こうも甘く、私の名前を呼ぶのだろう。
「……何故、私だとわかった?」
今はただのネズミなのに。
言外にそう問えば、彼女は力無く、薄く笑う。
「わかるわ。だって、私のためにここまでしてくれる人も、こんなことができる人も、あなたぐらいしかいないじゃない」
クスクスと笑った後、彼女はすぐ咳き込んだ。渇いた咳が幾度も続き、そのたびにジャラン、ジャラン、と鎖が金属音を奏でる。
意味がわからなかった。理解ができなかった。
彼女の返答は病んでいる人間には見えない。
もし、彼女が本当に病んでいないのであれば、何故、彼女を鎖に繋ぐ必要がある?
呆然とその場に立ち尽くす私に、彼女は声をかける。
「何か話して、アルベール。気が狂いそうだったの」
彼女の願い。何か? 何を話す?
「君が、病んでいると聞いた」
思わず出た言葉はそんな言葉だった。
きっと彼女がしたい話はこんなものではないだろうに、こんなことしか考えられない自分が嫌だった。
彼女はゆっくりと笑みを消して、静かに視線を落とす。
「……そうね。そう。私、病んでいるのかも。自分でも、何が何だかわからないの」
そう言って彼女は頭を手で抱えながら、ゆるゆると振った。
「どうして? 何を間違えたかわからないの。どうすればよかったのか、わからないの。どうすればいいか、わからないの。何が起きて、どうしてそうなったの? 何もわからないの」
ギュッと彼女は自分の髪を引っ張る。毛玉のように絡まった髪がブツブツと引きちぎれた。
「わからない。わからない。何もわからないの!」
「落ち着け。落ち着け、セレイナ!」
彼女の名を呼べば、セレイナははたと私の方を見る。
彼女はじっと私のことを見つめて、はらはらと涙をこぼした。
「私、どこで間違えたんだろう?」
涙と共に彼女は言葉をこぼす。私はベッドの脇の棚から、ベッドヘッドへと移動した。
「君が過労で倒れてから、何があった?」
私がそう問えば、彼女はネズミの姿をその瞳に映す。
「何も、わからないの。殿下が私のことを部屋から出してくれなくなって……。私が仕事をしたいと言えば、子供を産むことも公務の一つだよ、と言って……」
「まさか……!」
愕然とする事実に思わず声を上げれば、彼女は否定するように首を振る。
「無理やり犯されてはいないの。殿下は、彼は、私を支配したいみたい。私が抱いてと言わない限りは、そうするつもりはないみたい。だから、だから……、私が一言そう言えればいいのだけれど、何も言えなかったの」
はは、と彼女は渇いた笑みを浮かべた。
「私、感情を殺して頑張ってきた。この国のために、民のために、公爵令嬢として生まれた者として、自分のことを後回しにして。頑張ってきたつもりだった。だけど、だけどなぁ……」
ポツポツと呟く彼女は次期王妃として期待されていた完璧な令嬢ではない。そこにいるのはただの弱音を吐く女性。
「まさか、嫌だって騒いで、駄々をこねるのが正解だなんて思わなかった」
弱音と共に、彼女の目から涙がこぼれ落ちる。ぱた、ぱた、と溢れて、溢れて止まらない。
「心なんていくらでも殺してきたのに。どんな感情でも抑えてきたのに。彼に対する嫌悪感だけは殺せなかった。そこだけはどうしても受け入れられなかった」
彼女の言葉には深い後悔が含まれていた。それと同じくらい、私の心にも後悔が訪れる。
あの時、声をかけていれば。
あの時、本心を問いかけていれば。
あの時、彼女を無理やりにでも引き留めていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに。
言いたいことがあった。彼女に一目でもいいから会って、伝えたいことがあった。
けれども、今は。今は、そんなことなどどうでもいい。
「私と逃げよう」
彼女に会いに来る前までは、思いつきもしなかった言葉が出た。
けれど、本当はそう言いたかったのだ。彼女の手を取って、共に生きようと言いたかったのだ。
もう、そんなことはできないなどと嘯いて、身分がどうだとかで身を引いて、こんな思いをするなどまっぴらだ。
セレイナは僅かに目を見開いて、それから諦めたように笑った。
「できないよ。だって、首輪がついてる。足枷も、手枷も、鍵に、魔法防御に、私の身分だって逃げる妨げになる」
「できる」
彼女の言葉を間髪入れずに否定して、私はセレイナをじっと見つめた。
「確かに、少し準備がいる。時間も少しかかる。君が捨てなければならないものもある。もしかしたら死ぬかもしれない。けれど、本当に君が私と共に来てくれると言うのなら、どうか私の手を取って欲しい」
そう言って、私は小さなネズミの手を差し出した。
ポカン、と彼女はそれを見つめて、やがて、クスクスと笑い出した。
「ずいぶんと小さな手ね」
そう言って彼女は、私の手を取った。
そうして初めて、私は彼女の手に触れた。




