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解決編

 待っててくれ、と私は頼んだ。

 待ってる、と彼女は言った。


 準備しなければならないものはたくさんある。膨大な費用もかかる。理論上は問題ないが、実際はどうなるかはわからない。


 セレイナは死んでもいいと言った。あの男から逃げられるのなら、死んだって構わない、と。


 私は彼女を死なせる気はなかった。けれど、もし失敗して彼女が死ぬのなら、私も共に死ぬつもりだ。


 決行は満月の夜。分厚いカーテンで遮られていてわからないが、強い月の魔力が満ちる夜に計画は行われた。


 私は再びネズミになって、セレイナの部屋に向かい、彼女に薬の入ったビンを渡す。


 それを夜に飲んでくれ、と彼女に頼んだ。そうして、私はひっそりとカーテンの陰に隠れる。


 真夜中になっても、セレイナはビンの薬を飲まなかった。やがて、部屋に殿下が訪れる。


 セレイナはじっと殿下を見つめた。


「やあ、セレイナ。気分はどうだい?」


 殿下がセレイナに訊ねる。


「悪くはありません」


 セレイナが答えた。


 これがいつものやりとりなのか、殿下は満足そうに笑った。


「それで、今日はどうする? 公務はできそうかい?」


 セレイナは一瞬怯んだが、すぐに殿下の顔に視線を戻した。


「……殿下に、お尋ねしたいことがございます」


 それは予想外の問いかけだった。私の想定していたことではないし、殿下にとっても物珍しいことだったのだろう。


 彼は楽しそうにセレイナに微笑みかけた。


「何だい?」


 その声はひどく優しい。けれど、彼がセレイナにどんなことをしたのかを、私はもう知っている。彼の言葉に騙され続けていた自分の愚かしさを嘆くのももうやめた。


 この男を信じてはいけないのだ。


 セレイナは一瞬黙り込み、それから意を決したように口を開いた。


「殿下は、私のことを愛していますか?」


 その問いかけにストークス殿下は軽く目を見開いた。けれどそこに驚きはあれど、嫌悪も疑問も怒りもなく、ただ予想外のことをしてきた婚約者に喜んでいるように見えた。


 彼は目を細めて笑う。


「当たり前だろう、セレイナ。僕は君を愛している。いつもそう言ってるじゃないか」


 そう言って、彼はセレイナに近づいた。彼はセレイナの銀色の髪を一房掬い上げる。


「僕は君の事をずぅっと守ってきた。怪しい人間が誰も入れないように鍵をかけて、ここの守りを頑丈にして。最近は君の事を王太子妃にふさわしくないと言い出す人間まで出てきたけど、僕は君のことをずっと愛して、僕の傍に置き続けるつもりだよ」


 いいこ、いいこ、と彼はセレイナの頭を撫でた。


 いますぐカーテンの影から飛び出して、彼の手を弾き飛ばしたい気分だった。


 けれど、それでは計画が台無しになる。ぐ、とこらえて、じっと彼らの会話が終わるのを私は待っていた。


 それはセレイナも同じだったのか。彼女も、ぐ、とこらえるようにしながら、まだ彼に問いかけ続けた。


「……では、何故、私から全てを取り上げたのですか?」


 パチ、と殿下は瞬いた。おそらく彼女がここまで饒舌なのは久しぶりなのだろう。

 すこし不思議そうな顔をしながら、彼はセレイナのおしゃべりに付き合っている。


「取り上げた? 何を? 君には僕だけがいれば十分だと思うんだけど」


 そんな疑問を抱えたまま、彼は軽く首をかしげる。それから、ああ、と彼は合点が言ったように声を上げた。


「もしかして、公務のことを言っているの? でも、僕は他の公務をちゃんと提示したよ? ……そういえば、剣とか、ドレスもそうだったね。僕は確かに君の物を取り上げたけど、ちゃんと代わりのものを与えた。剣の代わりに身を守ってくれる従者を、君の古臭いドレスを取り上げてもっと美しいドレスを。それの何がいけないの?」


 ぎゅ、と彼女が手のひらを握りしめた。ジャリ、と鎖が鳴る。


「私の大切なものを取り上げて、別のものを与える。それが殿下の愛ですか?」


 セレイナの言葉に、殿下は笑みを深くした。


「そうだよ」


 何の疑問も持たない、嘘偽りない笑み。本心から、彼はそう言っているのだとわかった。


「……そうですか」


 セレイナが言った。そして、殿下に深く頭を下げる。


「申し訳ございません、殿下。私はかつて嘘をつきました。あなたの事を愛していると言ったけれど、それは嘘偽りでした。本当はあなたのことなど少しも愛してはいませんでした。申し訳ございませんでした」


 セレイナが深く頭を下げる。それを殿下がじっと見ていた。


 ひやりと腹の底を冷気が撫でた。本当にこんなことをして大丈夫なのだろうか。

 彼は怒り狂うのではないだろうか。

 計画が全てめちゃくちゃになるのではないだろうか。


 そんな不安が首をもたげる。


 けれども、彼は。


「……フフッ、アハハハハッ!」


 大声で笑ったのだ。


「ああ。知っていたよ、セレイナ。君が僕のことを愛していないことなんて。けれども君は僕と結婚する以外に道はなかったんだよね? この国のために、フルシュタイン家のために、君は義務を果たすしかなかったんだもんね」


 そう言って彼は笑いながら、セレイナを抱きしめた。


「可愛いセレイナ。愛しのセレイナ。僕のセレイナ。僕はずっと君のことを愛してる」


 ベッドの上でギュッと抱き締め、愛の言葉を囁くそれは、まさに仲睦まじく愛し合う者同士のやりとりのようで。


 けれど、セレイナは彼のことを抱きしめ返すこともなく、悲しそうに笑うだけだった。


 殿下がセレイナから体を離す。儚げに笑う彼女を見て、殿下は満足げに微笑んだ。


「それで? 今日はどうする?」


 殿下がもう一度問う。セレイナは諦めたように呟いた。


「……もう疲れたので、眠りたいです」

「そっか」


 優しい声音のまま、殿下はセレイナに抱きついてベッドに倒れ込んだ。ジャラ、と鎖が鳴る。


 そこから、僅かにセレイナの腕が動いたのを確認して、私は静かに動き出した。


 薄く張り巡らせた魔力探知を使い、彼女が薬を飲んだかどうかを確認する。


 そして、彼女の精神が体から抜け出したのを確認して、私はそっとそれに手を伸ばした。


「おいで、セレイナ」



   ♢♦︎♢♦︎♢♦︎



 ケセルラの実を使った魔術。それは精神を分離させ、他の動物に乗り移らせるもの。


 それを応用して、彼女の精神だけを他の場所に移す。


 もちろん、長時間、何の生物にも乗り移らずにいるのは危険なので、抜け出た本体とはまた別の代わりの入れ物が必要となる。


 そのために用意したものが、人工生命体(ホムンクルス)。精神を持たない、実際の人間の体を模した人工の体。


 この二つを利用して、セレイナの精神を完全に彼女の元の体から引き離し、ホムンクルスに定着させる。


 正直、上手くいくかはわからなかった。試そうとも思わなかったし、やるつもりもなかった。


 けれども、これで彼女をあの檻から逃がせるのであれば、あの男の手から引き剥がせるのであれば、やるだけの価値はある。


 そして、夜が明けた朝。セレイナの精神が入ったホムンクルスの体は目覚めた。


 くすんだ赤色の髪。そばかすの浮いた頬。鮮やかなエメラルド色の瞳の、背の低い女。


 何体かホムンクルスを作ったが、これが一番上手くいった。


 そして、彼女は目覚める。朝の光を浴びて、彼女は私の顔を見た。


「……セレイナ?」


 彼女はじっと私の顔を見つめたままだった。そのまま何も言わない。


 もしや、精神を移すときに失敗したのか。サッと血の気が引くような感覚がした。


 そのときだった。


「……あ」


 彼女が声を上げた。


 わずかに掠れた声。かつてのセレイナの声とはまた違う、このホムンクルスの声。


「あ、あ、ああ……。ゔあああぁぁぁ~」


 ボタ、ボタ、と彼女の目から涙が溢れた。ボロボロと大粒の涙が零れ落ち、彼女は引き攣った叫び声をあげる。


 彼女はしゃくり声をあげながら、溢れる涙を必死で手で拭っていく。


 完璧なご令嬢。誰もが王妃にと望んだ女。

 そんな彼女が子供のように泣きじゃくっていた。


 彼女は本当にセレイナなのか?


 わずかな不安を胸に彼女に近づけば、ドンッと突進するように彼女が抱き着いてきた。突然のことでよろめき、思わず床の上に尻もちをつく。


 私の体の上で、セレイナは泣いていた。


 涙でぐしゃぐしゃになった顔。必死に追いすがるように私の服を握りしめる手。一切、元のセレイナの面影などない新しい姿。


 それなのに。


「アルベール……」


 彼女が私の名前を呼ぶ声音は一切変わっていなかった。


 その一言で魂が震えた。ひどく安堵し、彼女の震える細い肩に腕を回す。


 確かに彼女はセレイナだ。私が幾度となく恋焦がれ、その瞳に映りたいと、その声を聞きたいと、その髪に触れたいと願った女性だ。


 ヒック、ヒックとしゃくり声をあげて泣き続ける彼女の体を抱きしめて、少しだけ体の力を抜いた。


 彼女が腕の中にいるこの時間が、ひどく心地よかった。



   ♢♦♢♦♢♦



 彼女は一体どれだけ泣いていたのだろうか。彼女が泣き止むまで私は彼女を抱きしめ続け、そして、彼女はスンスンと鼻を鳴らしながら、顔をあげた。


「……ご、ごめんなさい。やっと、あの場所から抜け出せたかと思うと、安心して……。重たいわよね。すぐにどくわ」


 まだ目元は赤く、涙は落ち着かないようで。それでも、私から離れようとするセレイナの体をぐっと抱き寄せた。


「もう少しこのままでもいい」


 彼女はポカンとしたまま、私の顔を見つめる。じわじわと彼女の目元はさらに赤く染まる。


「で、でも……。その、重いし、あなたに迷惑をかけるわけにはいかないから……」

「迷惑ならもうすでにかけられてる」


 ぐぐぐ、と小さな押し問答を繰り返していれば、グー、と大きなお腹の音が鳴った。ボッと彼女の顔が真っ赤に染まる。


 ホムンクルスはほとんど人間と変わらない。生理現象はちゃんと起こり、睡眠欲も食欲もある。違いがあるとすれば、一気に大人の姿まで成長するところだろうか。寿命も大体人間と同じくらいのはずだ、


 ゆえに、空腹時、胃の収縮によって音が鳴ってもおかしくないのだが、彼女はひどく恥ずかしがった。


「……あ、あの、違うのよ。その、最近はあまり動いてなかったし、その、貴族だったから、お腹が減る、なんてことなかったし、だから、その……」


 ひたすらに言い訳を重ねる彼女をもう少し見ていてもよかったのだが、再び鳴ったお腹の音に彼女は完全に黙り込んでしまった。


 あの部屋にいたのであれば、空腹なんて感じる暇もないだろう。仕方なく私は彼女を体の上から下した。


「確か、パンといくつかの食材があったはずだ。スープや紅茶もあるし、それで朝食にしよう」

「う、うん」


 今までに見たこともない表情。聞いたこともない口調。初めて見るセレイナ。

 そんな彼女がここにいる。


「ちなみに。この家は外にテラスがあるんだが、どこで食べる?」


 その言葉に、彼女はパッと顔を輝かせた。



   ♢♦♢♦♢♦



 この家は私が宮廷魔導士になって、しばらくしてから自分で買ったものだ。研究に、論文に。他の人間が出入りする寮などの場所では集中できない。


 ゆえに、この家を管理する従者やメイドなんて者はおらず、住んでいるのは私一人。少し部屋は散らかっているが、彼女はそれを全く意に介さず、キッチンにあったパンに好き勝手に食材を挟んでいる。


 スープと紅茶とサンドイッチを持って、二人でテラス席に移る。

 目の前には小さな家のわりには広めの庭が広がる。そこで色々な魔術に使う薬草を育てていた。


 テラス席にあるテーブルに持ってきた朝食を並べ、二人で向かい合って席に着いた。


 彼女はさっそく、自分で作ったサンドイッチに手を伸ばす。


「美味しい」


 朗らかに笑う彼女は可愛らしい。


「それはよかったな。味覚が正常なようで安心した」

「……この体はホムンクルスなんでしょう? やっぱり、そういうのはわからないものなの?」

「私が作ったホムンクルスは思考を持たない。味覚、視覚、嗅覚、触覚、聴覚。それが正常に作動しているかどうかはそのホムンクルスが意思を持ち、私に伝えてこなければわからない」


 私の言葉にセレイナはちらりと自分の手首を見た。どこか違和感でもあるのだろうか。


「何か、気になることでも?」


 私が問えば、彼女は緩やかに首を振った。


「ううん。手枷がないのが安心しただけ。動くたびに体に何かがこすれたり、鎖の音が聞こえないことに安心するの」


 ホッとしたように彼女は笑う。あの時のひどい彼女の状況を思い出して、私は黙り込んだ。


 それを気にしたのか、彼女は慌てて取り繕うように話題を変えた。


「強いて言うなら、前の体よりも目が悪いくらいかしら。少し、遠くの方がぼんやりして」


 そう言って、彼女は少しだけ目を細める。視覚の異常。やはり、作っただけではどんな異常があるかはわからない。


「どのくらい悪い?」


 ずい、と顔を近づければ、彼女は慌てて体をのけぞらせた。ほんの少し頬を染めて、わたわたと慌てたように視線を逸らす。


「あ、あの、本当に大丈夫よ。本当に、少しだけだから」

「だが、不便だろう。あとで眼鏡でも作りに行こう」


 あとで。

 そう提案すれば、彼女はその言葉をしばらく反芻しているようで。それから、彼女はいたく真剣そうな顔をした。


「わたし、これからどうなるのかしら?」


 彼女はそのエメラルド色の瞳にわずかに不安を滲ませた。


「そのホムンクルスはちゃんと精巧に作ってある。そのまま年を取るし、寿命も人間と同じように迎える。肉体年齢はおそらく二十歳くらいで、稼働年数は六十年前後。普通の人と同じように生きられる」

「……そうじゃなくて」


 私の説明を彼女は否定した。


「今のこの国はどうなっているの? 私がいない間、どんなことがあったの?」


 私はこれからどうなるの?

 その正しい問いは、『私はこれからどうすればいいの?』だったようだ。


 セレイナは王太子妃だった。この国のために尽くしてきた。


 それが、この国はセレイナがいなくなったことによってわずかに軋み始めたと知ったら、彼女はどんな顔をするだろう。


 予想できた顔を見たくなくて、私は一瞬言うことを躊躇った。

 けれども、彼女はそれを望まないだろう。それに黙っていたとしても、きっと賢い彼女は勘づく。


「……あまり、状況はよくない。隣国との関係は以前よりも悪化。民への施しで混乱が起き、王位争いが起こる可能性もある」


 彼女は今のこの国の状況を聞いて、ひどく辛そうに顔を歪めた。彼女が王太子妃として動いていた間は、ちゃんとこの国は回っていたのだ。


 それが、自分がいなくなった瞬間に全てが狂うなんて思いもしなかっただろう。


「貴女のせいじゃない」


 悲しそうに目を伏せる彼女に、私の思う事実だけを伝える。彼女のせいでは決してない。あの状況を見て、セレイナが悪いのだと責めることはできない。


 彼女は顔を上げて私の顔を見た。それからどこか責任を感じているかのような声音で話し始めた。


「私ね。本当は、ストークス殿下は国王に向いていないのではないか、と思っていたの」


 彼女の告白とともに、私はどこか飄々とした殿下の姿を思い出した。


 この国の全てをどうでもいいとさえ思っていそうな殿下。それを思い返してみれば、彼女の言葉も納得がいく。


「ストークス殿下はどこか他人を見下していた気がした。あの人はこの国に興味なんてなかった気がした。そんな人が王になっても、うまく政治を行えないんじゃないかと思っていたの」


 そう言って、セレイナは手をぎゅっと握りしめた。


「私、次期王妃に、って皆から望まれていた。私もそうなるんだって思ってた。けれど、殿下は王に向いていなくて。……それで、陛下から一度だけ言われたことがあるの。ストークスではなく、第二王子の方に嫁いで国を支えてもらえないかって」


 衝撃の事実に私は目を見張る。


 それは、それはつまり。


 王直々の、王太子の変更。この国のどこかの貴族が勝手に騒いでいるわけではなく、この国の国王もそう思っていたのか。


 彼女の語る真実に、唖然としたまま言葉が出ない。


 そして、彼女は落ち込んだように肩を落とした。


「けれどね。あの方は私に執着してた。ストークス殿下と婚約破棄をして第二王子に嫁ぐことになれば、何が起こるかわからなかったの。もしもそんなことをすれば、あの人は容赦なく弟を殺したんじゃないかと思う。王位ではなくて、私が欲しいからという理由で」


 そんな理由で弟を殺す。この国の王子として生まれた男が。


 そんなこと、普通であれば考えられない。どう考えたって異常である。


 けれど、あの男の本性を見てしまったからには、それがあり得ないとは言えなかった。


「だから、私が人一倍頑張って、あの方を支えれば、何とかなるんじゃないかって思ってたの。この国は平和になるんじゃないかって思ってたの。それを、私が失敗してしまった」


 責任を感じるように、彼女は俯く。


 彼女はアレを失敗というのだろうか。あの状況を失敗というのだろうか。


 それは。


「それは違う。あの状況は貴女が作り上げたものではない」


 彼女は顔をあげ、そして儚げに微笑んだ。


「ありがとう。アルベールは優しいのね。……でも、やっぱり私は、私が悪いと思ってしまって。けれど、もしやり直せるとしてもどこからやり直せばいいのか、わからないの」


 そう言って、彼女は少しだけ遠くを見つめる。思い返しているのだろう、殿下と出会った日から今までの事を。


「彼に言われるがままに剣を捨てなければ、もっと対抗できたかしら。愛してると言わなければ、彼はあんなに歪まなかったかしら。完璧を目指さずに誰かに頼っていれば、この国はもう少しは大丈夫だったかしら。もっと、もっと他の道が……」


 ぽつ、ぽつ、と彼女は後悔を語る。けれど、私が聞きたいのはそんな言葉ではない。


「過去を思い返して、何かが変わるのか?」


 彼女の言葉を断ち切るように、私は強い口調で言った。ふと思い出したように彼女のエメラルドの瞳が私の姿を映す。


「……そうね」


 彼女は軽く息をついて、ふわ、と力なく微笑んだ。


 もうありえない未来。もう変えられない過去を手放すように、彼女は言った。


「私がこうして別の体に移ったと知れば、殿下はきっとこの体のことも手に入れようとするわ。だから、もう私はこの国の政治に関わることはできない。……関わりたくない。いつあの人にバレるのかと怯え続けてまでできることじゃない」


 セレイナは諦めたように目を伏せて、次に顔を上げたときには、王太子妃にふさわしいと言われていた時のまっすぐな顔つきに戻っていた。


「王位争いが起きるのは、殿下が私に執着しているせい?」

「ああ。心を病んだ妃と別れて他の女性を、と言われて、それを拒んでいるから」

「なら、殿下は私と別れるくらいなら、王位の方を捨てるわね。あの方は玉座には興味がないから」


 あっけらかん、とセレイナは言い放った。長く付き合いがあるから、ある程度彼の思考はわかっているのだろう。

 それでも、理解できないことはあったようだが。


「私の体があのまま眠っていれば、彼はずっとその傍に居続ける。そうなれば、いずれ陛下が第二王子を王太子に任命するはずよ。第二王子殿下はストークス殿下よりももっとまともにこの国のことを考えてくれるわ。そうなれば、今は国は荒れるだろうけど、少しずつ落ち着いてくると思う」


 他に妃を取らない王子を王太子にしておくほどこの国の王は愚かではないし、ストークスもそこまで有能ではない。彼が有能さを発揮するのは、きっと自分の興味のあるものだけなのだろう。


「私がこの体で表舞台に戻れば、きっとまた混乱が起こる。……なら、もう私はあの場所に戻らない方がいいと思うの」


 彼女が裏から国を支える方法はきっとある。けれども、そのことにストークスが気づけば、彼は再びセレイナを手に入れようと奮闘するだろう。


 そして、有能である彼女を再び閉じ込める。誰の手も届かないところへと。


 ならばいっそのこと――。


「私は、セレイナはもう眠ったまま、一生目覚めないことにしましょう」


 体を犠牲に、この国をよりよくするための権利も義務も投げ捨てて、彼女は第一王子ストークスを王太子から引きずり下ろすことを決めた。


 彼女は固く決意を決めた目をしていた。


 私は、姿形の変わったセレイナを見た。今の彼女を一目見て、セレイナだと気づく者は誰もいないだろう。


 彼女は体を捨てたのだ。自由になるために。あの男から逃れるために。この国のために。

 誰からも美しいと言われた美貌と、きっと親から受け継いだ髪と瞳の色を捨てて。


 僅かな憐憫を含ませて、私は彼女のことを見た。


 セレイナのことを閉じ込めたいと思う気持ちはわかる。彼女以外はどうでもいいと思う気持ちもわかる。


 けれど、彼女が望まぬことを、私はするつもりはない。


 彼女を手に入れたいのであれば、それ相応の義務は果たすべきだ。彼女がこの国の平和を望むのであれば、彼女とともにそれを目指すべきだった。


 そうすれば、彼女からの愛も手に入ったのに。


 そこまで思いついて、いや、と私は心の中で頭を振った。


 あの男はセレイナから愛されることを望んではいなかった。セレイナの愛を欲していなかった。


 だから、あんなことができたのだ。彼女の願いも、望みも、踏みにじれたのだ。


 だから、彼女が幸せになれる方法なんて、あの男と関わってしまった瞬間からなかったのだ。


 彼女の願いを叶えるつもりがないのなら、この国を平和にする気がないのなら、とっとと自分一人で腐り落ちてしまえばいい。

 そこに、セレイナを巻き込む必要などほんの少しもありはしない。


 連れ出せてよかった、と紅茶を飲む彼女を見て思った。


 あの男を止めようとするなら、もういっそのこと殺すしかない。しかし、あんなのでも第一王子で、殺せば死刑か、終身刑が待っている。


 セレイナが彼から逃げようとするならば、それはもう全力で逃げるしかないのだ。


 国も、体も、名前も捨てて。


「……新しく、名前を決めないとな」


 そこまで考えて、ふと名前のことを思い出した。


 別段、彼女が元の名前を名乗っても問題はない。次期王妃に、と謳われるような女性の名だ。それにあやかって同じ名前をつけられた女性は他にもいる。


 けれども、私が彼女をセレイナと呼ぶと、おそらくあの王子はそれを聞きつける。


 そこから足がつく可能性はほんのわずかでもあるのだ。


 セレイナも、名前の件に思い至ったようで、スープを飲む手を止める。


「そうね。……アルベールが決めていいわよ。あなたぐらいしか、私の事情を知る人はいないし」


 そう言って、彼女はあっさりと特別な権利を投げつけてくる。好きな相手に、好きな名前を付けられる。それがどれほどの特権か、彼女はわかっているのだろうか。


 それを知ってか知らずか。彼女はふふ、と笑った。


「私、あなたに『セレイナ』って呼ばれて少し嬉しかったの。いつも『セレイナ様』って呼ばれてたから。今も、初めて会ったときみたいに砕けた口調なのが嬉しいわ」


 何故、彼女はこうも。


 私の心をくすぐるのが上手いのか。


「私も、貴女からアルベールと呼ばれるのが好きだった」

「……え?」


 意を決したようにそう言えば、彼女は困惑したようにポカンと私の顔を見つめている。再び、ほんの少しだけ彼女の目元が赤くなった。


「どうした?」

「え、あ、えっと、その……。あなたが他人から名前を呼ばれるのが好きだなんて知らなかった。あなたはどこか、人と距離を置いているように見えたから」


 どこか少しだけ勘違いをしているような彼女の言い分に、私はすぐに訂正する。


「私が名前を呼ばれて嬉しいのは、貴女からだけなんだが」


 彼女が驚いたように硬直する。


 何かが噛み合っていないような感覚。一体、何が。何故。


 彼女の困惑に私も困惑していると、何が噛み合っていなかったのかを彼女がようやく言語化した。


「……あの、何だかそれって、私のことを好きと言っているみたい」

「……。そうだが?」


 自惚れていると自覚するように恥ずかしがりながら話す彼女。


 だが、それは自惚れでも何でもない。事実だ。


 なのに、彼女はその言葉を聞いて、ポカンと私の顔を見つめている。


 と、そこでようやく私もはたと気がついた。


「……言っていなかったか?」

「は、初めて聞いたかも……」


 顔を半分隠すように彼女はティーカップを持ち上げているが、完全に赤く染まった顔は隠しきれていない。


 彼女の顔は今、彼女のくすんだ赤色の髪より赤い。

 それが、何より愛おしい。


「好きだ」


 彼女の体が震えて、ティーカップの中の紅茶が跳ねた。


 簡単な話だ。今まで言っていなかったのであれば、これから伝えればいい。


「いつから心を奪われていたのかわからないが、ずっと貴女に恋焦がれていた」


 顔が真っ赤に染まった彼女は、カタ、とティーカップを持つ手を震えさせた。


 その手の震えは怯えだろうか?

 あんな目にあった女性に、今言うことではなかったかもしれない。


「……すまない。今、こんな話をして」

「えっ、あ、違うのよ。……少しびっくりしただけで」


 そう言って彼女はティーカップを置く。


「……私、あなたが私を助けてくれたのは、あなたが優しいからだと思っていたの。あんな私を見ていられなくて、助けてくれたんだと思っていたの」


 彼女の顔の赤みは落ち着いてきたが、まだ目元が赤い。


「すまない。ただの下心だ。それに、私は優しくなんてないだろう」

「いいえ。あなたはずっと優しかった。初めて会った時も街まで送ってくれたし、私が話しかけた時もちゃんと言葉を返してくれたし、私の体調を心配してくれたりもした」

「そんなに大したことじゃないだろう」


 何でもないことのように言えば、彼女は目を細めて笑う。


「そうね。そう。あなたってそんな人。無表情で、言葉数が少なくて、ぶっきらぼうで。それでも、優しいってことだけは気づいていたのよ」


 それから彼女は気恥ずかしそうに目線を逸らした。


「だから、ごめんなさい。あなたが私のことを好きだなんて、これっぽっちも気づかなかった」


 それは、どこか私の心を否定するような言葉で。

 私は彼女を問い詰めたくなった。


「本当に気づかなかったのか? あの男ですら気づいていたのに」


 じっと彼女を見つめれば、彼女は僅かにその目に影を落とした。


「……気づきたくなかったのかも。願っても手に入らないなら、何が欲しいかなんてわからなくてもいいって、そう思ってたのかも」

「なら、今は?」


 私はテーブルに置かれた彼女の手をそっと取った。彼女の体はビクリと跳ねたが、私の手から自分の手を引き抜こうとはしなかった。


「私は自分の心に鍵をかけてきた。本当に欲しいものがわかっているのに、心に枷をつけて手を伸ばさないようにしてきた。そうやって抑え込んだ結果があれならば、私はもう抑えるつもりはない」


 じっと私は彼女を見つめた。


「好きだ。私と共に生きて欲しい」


 少し長い沈黙の後、彼女が口を開く。


「私は、好きとか、愛とかがわからない。ずっと自分の心を閉じ込めてきたから。でも、あなたと話してる時は楽しかった。あなたともっと色んなことを知りたくなった。……私、あなたのことをもっと知りたかったの」


 彼女のもう片方の手が、私の添えた手に重ねられた。


「あなたの隣で、あなたのことをもっと知っていってもいいかしら?」

「……今は、それで十分だ」


 私は彼女の両手を包み込んだ。


「新しい名前は、シエロというのはどうだろうか? 君の自由を願って」


 新しい名前を与えれば、彼女は柔らかく笑う。

 花が咲いたように、彼女の表情が綻んだ。


「ええ。たくさん呼んでね。アルベール」


 そう願う彼女に、私の名前を呼ぶシエロに、私もつられて笑みを浮かべた。



   ♢♦︎♢♦︎♢♦︎



 私はずっと自分の心を閉じ込めてきた。


 好きなものを好きだと言えなかった。嫌いなものを嫌いと言えなかった。


 それがこんな結果を生んだのだから、私は罰を受けなければならなかったんだと思う。


 けれど、私に与えられたのは、束縛からの解放と、自由を与えてくれた優しい人で。


 それに対し、ほんの少しの罪悪感を抱いている。


 だから。だから、私は。

 最後に一度だけ、彼の愛を試そうと思うのだ。


「これから、ここにいる助手のシエロとともに、この国を出ていこうと思っています」


 アルベールが殿下にそう告げる。

 アルベールの大きな背に隠れていたとは言え、殿下のそばに行くにはまだ勇気が必要だった。


 だけど、これが私の罪の審判。

 彼が気づくのであれば、私は最後までこの国に尽くす。彼が気づかないのであれば、私はこの国から逃亡する。私はアルベールと話し合ってそう決めた。


 最後に殿下と顔を合わせたい、という最低な我儘を、アルベールは聞いてくれた。


 私を逃すためにここまでしてくれたのに。私のことを好きだと言ってくれたのに。


 でも、私は区切りをつけたかったのだ。


 殿下に対する心に。彼の与えた愛に。答えをつけたかった。


 そして、彼は。


「……そうかい。それは残念だ」


 殿下は本を閉じた。


「どうぞ、お元気で」


 永遠の別れの言葉。向けられた視線はアルベールに対するものだけ。


 私には一瞥もくれず、彼はご機嫌な顔をして部屋に戻っていく。かつての私の体が眠る部屋へ。


 彼の姿が完全に見えなくなり、彼の足音の余韻すらも聞こえなくなった。

 その瞬間、ヘタリと私の体から力が抜けた。私は足から崩れ落ちる。


「シエロ!」


 慌てたように手を伸ばしてくれるアルベールに、私は大丈夫、と笑いかけた。


「大丈夫よ。少し、気が抜けただけ」


 彼の手につかまって、私は足に力を入れて立ち上がる。


「彼、私の正体に気づかなかった」


 あの人が立ち去った方向を呆然と見つめながら、私はポツリと呟いた。


 かつて、あの人はアルベールのことを嘲笑っていたという。自分の元を去る私を、追い縋るように見つめるアルベールのことを笑っていたという。


 けれど、殿下は。彼は。

 自分の元から去った私に気づきもしない。


 彼の愛とは何だったのだろう。彼が愛しているセレイナとは、一体何だったのだろう。


 なんて空虚。

 なんて虚ろ。

 そんなものに、私はずっと囚われていたのか。


「早く行こう。私はあの男が嫌いだ」


 そう言い切るアルベールに手を取られ、私は彼と二人、殿下の向かった方向とは真逆の方へ向かう。


「早く国を出て、あの男の手が届かないところへ」


 アルベールが珍しく焦っている。それほどまでに、私と殿下を会わせるのが嫌だったのだろう。


 申し訳ないことをしたと思うと同時に、これは必要なことだったのだと自分に言い聞かせる。


 彼への思いを断ち切るために、必要だったのだ。


「ごめんなさい。アルベール」


 彼に謝罪すれば、無表情な金色の目に疑問が浮かんだ。

 怒らないのだろうか。あんなことをされてもまだ、最後に殿下に会いたいと言った愚かな私を。


 彼はふい、と私から目を逸らしながらも、私と繋いでいる手に力を込めた。


「すまないと言うなら、私も。君の体を取り返せなかった」


 悔いるように彼は言う。


 そんなことは不可能だと、彼も私もわかっているのに。


「そんなにあの体が大事?」

「大事だろう。あの体も君の一部だった。私は結局、一度もあの体の君に触れたことはなかった」


 そうだったかしら、と思い返してみれば、ふと思い出したことがあって、ふふ、と笑みがこぼれた。


「そうね。今の私はホムンクルスで、あなたが助けに来てくれたときはネズミだったわ」


 暗い部屋の中で、花瓶の前で倒れこんでいたネズミ。私はどうしてあのネズミをアルベールだと思ったのだろう。


 普通に考えれば、そんなことはあり得るはずないのに。アルベールの書いた論文をあの時の私はすっかり忘れてしまっていたのに。


 あのネズミを見た瞬間、彼の声を聞く前から、何故かあのネズミがアルベールだとわかったのだ。


「まさか、ネズミの手を取ってくれるとは思わなかった」

「あら。結構可愛らしかったわよ」


 きゅ、と彼と繋ぐ手に私も力を込めて、ぽすりと彼の体に寄りかかった。彼はわずかに身じろいだが、嫌がる様子もなく、逆に少しだけ寄り添ってくれる。


「あなたは私の心と体、どちらが大事なの?」

「両方」


 私が問えば、彼は間髪入れずに答える。


 ちら、と私が彼の金色の瞳を見上げれば、彼も私のエメラルド色の瞳を見ていた。


 そうやって見つめあえることに、どこか喜びを感じる。


「欲張りね。心だけで満足しておけばいいのに」


 クスクスと笑って、私は彼の隣を歩いた。


 殿下の愛とは何だったのか。

 その答えは出た。わからない、という答えが。


 あの人が欲しいものは何だったのか。あの人が愛していたものは何だったのか。


 何もわからない。


 わからないものを与えることは私にはできない。

 わからない答えにずっと囚われているつもりはもない。

 共に、あの地獄のような暗い部屋で朽ち果てる気もさらさらなかった。


 あの人から逃れられるなら、私は死んでもよかった。

 あの人から私の心を取り上げて、私は私の体だけを残した。大切なものを取り上げて、代わりのものを与えた。


 彼はそれを私からの愛と呼ぶのだろうか。


「アルベール」

「どうした? シエロ」


 私が名を呼べば、彼も呼び返してくれる。

 彼は私に名を呼ばれるのが好きだと言っていた。そんなものなら、私はいくらでもあげられる。


 これから彼のことを知れば、もっと多くのものをあげられる。


 愛することなんて、きっとそれだけで十分だったはずなのに。


「ねえ。覚えてる? 魔術の話をしていた時、他国に行って実際に見てみるのも面白いかもってあなたが言ったのよ」

「ああ。覚えている」

「私ね、あの時、あなたと一緒に行けたらなって思ったのよ」


 その言葉に、アルベールは一瞬驚いた顔をした。それから、少しだけ彼の雰囲気が柔らかくなる。


「これから全部、本当になる」


 その言葉に私は笑みを深めた。


「ええ。楽しみね」


 私はあの暗い部屋を出て、光の溢れる道をこの人と歩く。どこまでも、どこまでも、私は行きたい場所へ行く。


 さようなら、殿下。愛せなくてごめんなさい。


 少しだけ、殿下のことを思い返した。


 閉じられた暗い部屋。もう目覚めない私の体。その傍で彼は少しずつ朽ちていくのだろうか。


 永遠に眠り続ける私の手を握り、彼はそれでもまだ、私に愛してると言うのだろうか。

 もうそこに、私はいないのに。


 そんな彼は、本当に愚かで、滑稽で――。


「……可哀想な人」


 隣にいるアルベールにも聞こえないように、私はポツリと呟いた。

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