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ストークス編

 ある日突然、僕の妻であるセレイナが目を覚まさなくなった。


 夜に煌めく星のような銀色の髪に、深い海の底のような青色の瞳。どこか儚げなその笑顔に、僕の名前を切なげに呼ぶ甘い声。


 僕の妻として僕のことを支えてくれたセレイナは、ある日突然、眠りについたまま目覚めなくなった。


 清らかな体のまま、ベッドに横たわるセレイナ。僕は異変に気付いた時、すぐさま王宮の医師を呼んだ。


 彼はべたべたと僕の妻の顔や体に触り、脈を取ったり、瞳孔を確認したあと、静かにこう告げた。


「セレイナ様が何故目覚めないのか、わたしにはわかりません」


 医師を困惑したようにゆるゆると首を振る。僕は彼を怒鳴りつけて、すぐさま部屋から追い出した。

 セレイナを目覚めさせるために医師をここに呼んだのに、全く役に立たない。


 僕はセレイナの眠るベッドのふちに座り、そっと彼女の美しい顔を覗き込んだ。静かに眠る彼女の顔に苦悶の表情はない。普段通り、眠っているだけのように見える。


 だが、本当に眠っているだけなのであれば、揺すったり、名前を呼んだりすれば起きるはずだ。


「セレイナ……」


 僕は彼女の名前を呼び、彼女の肩に触れた。けれども、彼女は起きない。いつもであれば、僕が呼びかければすぐにでも目を覚ますのに。


 彼女はこのまま目覚めないのだろうか。いや、諦めるにはまだ早い。

 彼女は明日には目覚めるかもしれない。そうでなくとも、明後日には。たとえば、いつか、いつかの未来にセレイナは目覚めて、僕に微笑みかけてくれるかもしれない。


「それまで、僕が君を守るから」


 僕はセレイナの頬を撫でて、そっと口づけた。


 おとぎ話の中であれば、眠り姫は王子様のキスで目を覚ます。けれども、現実はそうもいかないようで。


 僕は彼女から唇を離し、彼女の細い手をぎゅっと握りこんだ。



   ♦♢♦♢♦♢



 セレイナ・フルシュタインはこの国の公爵令嬢だった。幼いころから可憐で美しかった彼女に、僕は一目で恋に落ちた。


 ストークス・ベル・フォン・エイブレイン。この国の第一王子として生まれた僕は、この名前と与えられた責務を煩わしいと思っていた。


 けれども、セレイナと出会って僕はその考えを改めた。彼女と結婚できるのであれば、彼女を手に入れられるのであれば、次期国王として期待されるこの重苦しい地位すらも受け入れられる。


 僕は彼女と結婚できるこの身分に感謝した。セレイナと僕が婚約したのはまだ年端もいかぬ幼いころだったが、そのころにはもう彼女の美しさと可憐さは他の人間にも伝わっていた。


 そして、彼女のデビュタントの夜。その美しさはこの国中に知れ渡ることになる。


 僕にエスコートされたセレイナは、深い紫色のドレスを身に纏い、社交界へのデビューを飾った。

 その場にいた全ての者が彼女に目を奪われていた。老いも若きも、男も女も関係ない。全ての者が彼女を見ていた。


 そして、セレイナは。

 その身に突き刺さる多くの視線に怯むことなく、平然と笑顔を浮かべていた。


 幼いころから注目されることに慣れていたからだろうか。いずれ王妃になる者としての教育が彼女をここまで強くしたのだろうか。

 たとえ、僕がエスコートをせずに彼女がここで一人で立っていたとしても、きっとセレイナは堂々としていただろう。


 会場にいたほとんどの人間がセレイナに声をかけた。彼女は話しかけてきた全ての人間の名前を言い当て、彼らの領地の特産品についての話題に花を咲かせた。


 美しく、強く、賢い。時期王妃として、これほどまでに相応しい女性はいないだろう。


 そして、これほどまでに、男の目を惹く女性もいないだろう。


 その後に参加した数多くのパーティーで、多くの男性がセレイナに声をかけてきた。


 ダンスを。飲み物を。お菓子を。花を。


 よくもまあ、そんなに。セレイナに話しかけるための話題をいくつも思いつくものだ。

 けれども、セレイナはそれをやんわりと、失礼のない範囲で断っていた。


 貞淑。本当に、彼女は次期王妃にふさわしい。

 誰も、僕とセレイナが結婚することを疑わない。僕と彼女が想い合い、愛し合っていて、深い絆で結ばれた二人なのだと信じ切って疑わないのだ。


「セレイナ。僕たちも踊らないかい?」


 クルクルとホールの中央で踊るカップルの群れを見て、僕はセレイナに声をかけた。


「ええ、喜んで。殿下」


 そう言って、彼女はふわりと笑って僕の手を取った。


 それに何かしらの違和感を覚えたのはいつからだっただろう。


 セレイナは僕に笑いかけてくれる。僕だけの手を取ってくれる。彼女の名を呼ぶのも、彼女の髪に触れることも、彼女にキスする権利も、全ては僕のもの。


 僕のもののはずなのに。


 セレイナの笑みは、どこか無機質なようなものに思えた。彼女の笑みには熱がない。温かみがない。恥じらうような初々しさも、第一王子の婚約者としての身分を栄誉に思う素振りすらない。


 彼女の完璧な笑顔は一部の隙もなく、――何の感情もなかった。


 それに気づいた時、覚えた違和感が腑に落ちた。と同時に、愕然とした。僕はこんなにも彼女のことを愛しているのに、彼女は僕のことを愛してはいない。


 貴族の婚姻は義務である。義務であって、権利ではない。誰しもが義務のために、好きでもない、身分の釣り合う相手と結婚し、その相手との子供を持つ。


 そしてそれは、セレイナにとっても同じ。

 公爵令嬢として生まれた。第一王子の婚約者として選ばれた。それゆえに、王妃としての勉強をし、美しさを磨き、数多くの重圧を跳ね返せるだけの強さを手に入れた。


 それらは全て、この国のため。この国の公爵令嬢として生まれた義務を果たすため。


 僕は、彼女と結婚する権利を手に入れた。けれども、彼女にとっての僕との結婚は、貴族としての義務を果たすためのもの。


 誰も彼もが信じて疑わなかった。僕とセレイナが愛し合っていると。

 僕自身も信じて疑わなかった。


 けれども、それは本当か?

 セレイナは僕のことを愛しているのか?


 僕はその疑問を率直に彼女に問い詰めた。


「セレイナ、君は僕のことを愛してる?」


 彼女は驚いたように軽く目を見開いた後、ニコリと笑った。


「ええ、愛していますわ」


 そこに恥じらいはない。恋に対する喜びも、僕に愛されているという幸福感もない、淡々とした返答。


 彼女の言葉は嘘だと僕はすぐに気づいた。けれども、僕はそれを指摘しなかった。


 指摘したところで何も変わらない。セレイナと僕が結婚することはとうに決まっていたし、彼女が自分の感情のままにそれを覆すような女性ではないとわかっていた。


 彼女が僕のことを愛していても、愛していなくても、彼女は僕の手中に入る。

 彼女は僕のものになる。


 何故だかそれが、彼女に『愛してる』と言われることよりも嬉しかった。


 セレイナはいずれ僕と結婚する。そして、愛してもいない僕との子供を産む。

 彼女は僕以外の男に触れられない。貞淑で、次期王妃にと選ばれた公爵令嬢は、そんな不貞行為などしないのだ。


 セレイナは僕に囚われることが決まっていた。

 それなのに、彼女に話しかけてくる男はまだ山ほどいた。


 賢いセレイナは、豊富な知識を得られる話を面白がって聞いていた。


 僕も同席していたお茶会。そこでセレイナはとある魔導士の男性と話の馬が合ったようで、いつになく饒舌に彼と会話をしていた。


 彼とセレイナのする話は、高尚すぎて僕にはついていけない。

 けれど、それは関係なかった。どうせ、彼女は僕と結婚するのだ。どれだけ他所の男と会話が弾もうと、その男と結ばれることはない。


 お茶会が終わり、セレイナはその男に丁寧に別れの挨拶をする。そうして彼女は僕の元に戻ってきた。


 セレイナを出迎える僕の目には、自分の元を去るセレイナをじっと見つめる男の姿が見えた。


 ひどく滑稽だった。次期王妃となるセレイナに指一本触れられない、行くな、と声をかけることもできない、彼女の名前を敬称もなしに呼ぶことのできない男を見るのはひどく愉しかった。


「おかえり、セレイナ」

「はい。殿下」


 そう言って、僕は彼女の肩に手を回す。彼女の長い髪を指で梳いて、彼女のこめかみに口づけた。


 誰がどれだけ願おうが、彼女が僕のものであることに変わりはなかった。



   ♦♢♦♢♦♢



 そうして、年頃になった僕とセレイナは結婚した。彼女は名実ともに、僕のものになった。


 僕はまだ王位を継いではおらず、セレイナは王太子妃になった。それでも、彼女は王太子妃としての務めを完璧に果たしていた。


 民のことを考え、隣国との関係をより良いものにし、国中の貴族たちをまとめていた。


 それが僕にはひどくつまらなかった。


 僕と結婚してから、セレイナに声をかける男たちは減った。

 それも当然だ。もうすでに王太子妃となった彼女にわざわざそういう意味で声をかけるなど、自分の首を飛ばしてくれと言っているようなもの。


 相も変わらず、彼女に恋焦がれる視線はいくつか感じたが、わざわざ手まで伸ばしてくるような愚か者はいなかった。


 だから、つまらなかったのだろう。


 あの時のようにセレイナに手を出す素振りを見せる男は減った。時が経つとともに、彼女に恋焦がれる視線は次期王妃に対する敬愛の視線に変わっていく。


 つまらない。つまらない。実につまらない。


 誰もが求め、願った彼女は、もうどこにもいない。そこにいるのは淡々と王太子妃としての仕事をこなす女。


 そんなひどくつまらない日々に、ある日唐突に転機が訪れた。


 セレイナが倒れたのだ。


 理由は過労。王太子妃として頑張り続けていた彼女は、王太子妃としての務めを果たしすぎたがゆえに倒れた。


 具合が悪そうにベッドの上で寝込む彼女は、うわごとのように公務について呟いていた。


 そんな彼女の細い手を握りしめて、僕は彼女を励ました。


「大丈夫だよ。君がいなくてもこの国は回るさ」

「でも……」


 いつもと違って弱々しい彼女は可愛かった。


 そこに僕は、新たな仄暗い喜びを覚えた。


 彼女はこの国に尽くすことを喜びと捉えている。仕事をして、民のことを考え、国を平和にまとめる。

 それが彼女の願い。


 そんな彼女の願いを、僕が取り上げてしまったら?


 彼女が強く願うものを、僕が取り上げてしまったら、彼女はどんな顔をするだろう。


 数日ほどセレイナは寝込み、やがて体調は回復した。すぐにでも公務に戻ろうとする彼女を、僕は引き止めた。


「まだ、休んでいた方がいいよ」


 セレイナはひどく困惑したような顔をした。確かに彼女のことを気遣ったのはこれが初めてかもしれないが、そんなに驚くことはないのに。


 一日経ち、二日経ち、三日経ち、それでも部屋から出されない状況に苛立ったのか、セレイナは僕に突っかかってきた。


「殿下、私はもう大丈夫です! 公務に戻らせてください!」


 初めて見た激高した彼女。つねに完璧で、一部の隙も見せなかったあのころの彼女からは想像もつかない。


「ダメだよ」


 そう言って、僕は彼女をベッドに引き戻した。男と女の体格差では、セレイナに勝ち目はない。


 ベッドに押し倒されたときの彼女の表情はそれはもう見たことのないもののオンパレードだった。


 唖然、呆然、驚愕、恐怖、怒り。あのセレイナが様々な感情を入り混じった表情をしていた。

 そんなセレイナは、とても美しかった。


 強く、賢く、美しく。有能で、誰からも認められるセレイナ。そんな彼女が僕に力で負けて、何もできずにベッドに押し倒されている。


 ふは、と思わず笑みがこぼれた。可愛くて、美しくて、愛おしい。僕はセレイナを愛している。


 彼女の銀色の髪を一房掬い上げて口づけた。こうして彼女の髪に触れられるのは僕だけの特権。


「ねえ、セレイナ。昔、僕のことを愛してると言ったよね」

「……言いました」

「なら、もう一度言って。僕のことを愛している、と」


 僕の願いに、セレイナは何も言わなかった。それがますます僕の笑みを深くする。


「セレイナは公務に戻りたいと言ったよね。でも、一つだけ、ここでもできる公務があるよ」


 ぐ、と薄い夜着を纏う彼女の腹部を押した。彼女の顔色が一気に恐怖に染まる。


「次の王族を産むのも、妃の仕事だよね?」


 彼女は青ざめたまま、何も言わなかった。あれだけ公務がしたいと言っていたのに、どうしてこうも怯えるのだろう。


 結婚してから幾度か夜を共にしたのに、彼女がそんな表情を見せたのは初めてだった。


 もっと。もっと、もっと、もっと見たい。彼女が僕に見せたことのない表情を、全部。


「願って見せて。抱いてくれ、と」


 彼女は何も言わなかった。


 まるで声を失った人魚姫。水中を泳ぐ美しいヒレを失い、歩くこともままならない。彼女が幸せになるためには、王子様と結ばれるしかない。


()()がしたい、と言っていたのに。まだ、体調が万全ではないようだね」


 そう言って僕はセレイナから体を離した。それでも彼女は体の動かし方を忘れたように、身じろぎ一つしなかった。


「皆には僕から話しておくよ。セレイナは仕事に戻れる状態ではない、と。それでも、()()に戻りたかったら、僕に声をかけて。朝でも夜でも構わないから」


 そうして僕は部屋を出て、外側から扉の鍵を閉めた。


 久しぶりに機嫌が良かった。久しぶりに、彼女を美しいと思えたのだから。



   ♦♢♦♢♦♢



 その日から、セレイナが部屋から出ることはなかった。


 僕は彼女の安全のために部屋に何重もの鍵をかけ、悪い魔法使いに攫われないように幾重にもの魔法防御をかけさせた。


 セレイナが自由を、と望むので、僕は彼女に首輪と足枷と手枷をプレゼントした。


 絶望と、悲しみと、怒りと、その他の色々な感情が入り混じった表情を彼女は見せた。それを僕は誰にも見せたくなくて、部屋の窓を全て分厚いカーテンで覆った。


 彼女と初めて出会った場所は、日の光が溢れるガーデンパーティーの会場だった。今の彼女がいる場所は、月の光さえ通さない分厚いカーテンに覆われた、小さな部屋。


 かつてのデビュタントで多くの人に囲まれていた彼女は、今は誰との関わりも断ち切られ、僕一人にしか会えない状況。


 彼女は少しずつ病んでいった。あんなに健康的で、様々な公務をこなしていたのに。


「それで? 今日はどうする?」

「……で、殿下。私は……」


 セレイナの震えるか細い声。その声が発せられる唇にそっと指を当て、僕は愛しい彼女に微笑みかける。


「殿下じゃなくて、名前で呼んで?」


 うっすらと涙の溜まった深い青色の瞳。彼女の体がわずかにふるりと震えた。


「……ス、ストークス」


 怯えを孕んだその声は耳に心地よく、とても甘い。僕は自分の名前があまり好きではないけれど、彼女にならいくらでも呼んでもらって構わない。


「うん。それで?」


 彼女の意思を問えば、彼女はうなだれて答えた。


「……何も、ありません」

「そっか。なら、今日も一緒に眠るだけにしようか」


 公務がしたい、と願った彼女。けれど、僕が与えてあげられる仕事を、彼女はこなそうとはしなかった。


 なんでもかんでも従順にこなしてきたセレイナ。そんな彼女の初めての小さな反抗。

 それはまるで、小さな子猫が手をひっかくようなもので。


 ああ、なんて可愛らしいんだろう。


 僕は彼女をぎゅっと抱きしめて、ベッドの上に倒れこんだ。彼女の体がびくりと震える。僕が彼女の背中に手を回しても、彼女が僕を抱き返してくれることはない。


 それでよかった。だって、彼女は僕のものなのだから。


 彼女は僕の宝石だ。僕の宝石は他人に見せびらかすものではなく、彼女の美しさを損なうような光の元に出すものでもない。


 誰の目にも触れぬように、暗く狭い宝石箱に閉じ込めておくのが一番いいのだ。


 セレイナの輝きは、僕だけが知っていればいい。暗闇の中の彼女は、日の光に当たったときとはまた違う、格別の輝きを持っている。


「愛しているよ。僕のセレイナ」


 そう耳元で囁いても、彼女の返事はない。けれど、彼女の体は怯えたように小さく跳ねた。



   ♦♢♦♢♦♢



 そうして続いた僕の幸せな日々。それはある日突然終わりを迎える。


 セレイナが眠ったまま目を覚まさなくなったのだ。医師を呼んだがその理由はわからず、数日経った今も彼女は目覚めないまま。


 長らくセレイナを閉じ込めてきたから、他の者は彼女が目覚めないことを知らない。けれども、それとは別に不満の声が上がっていることを僕は知っている。


 セレイナは王太子妃として、多くの公務を行っていた。彼女が開けた穴は他の者が塞いだが、当然、セレイナでなければダメなものは数多くある。


 セレイナと関わりのあった者は言う。セレイナ様の体調はまだ優れないのか、と。


 そして、その声は次第に別の言葉に変わる。

 曰く、ストークス殿下はセレイナ様と別れて、他の女性を妃に迎えた方が良いのではないか、と。


 あれだけ多くの者に慕われていたセレイナ。それなのに、ほんの少し顔を見せなくなっただけで、誰も彼もが手のひらを返して彼女を侮辱した。


 ああ、なんて可哀そうなセレイナ。


 けれども、大丈夫。僕は君と別れる気なんてない。誰がどれだけ君のことを馬鹿にし、別れるように勧めてこようと、僕が君を守るから。


 僕の妻という立場を、王太子妃の地位を、守ってあげる。


 パラ、パラ、と病に関する本のページをめくって、そんなことを考えていると、高さの違う二つの足音が僕の方に近づいてきた。


 珍しく図書室にいた僕に挨拶に来たのか、黒い魔導士のローブを羽織った二人が僕のところにやってきた。


「ご機嫌麗しく、殿下」


 そう言って、背の高い男が恭しく頭を下げる。

 黒い髪に金色の瞳。あまり人の顔と名前を覚えるのは得意ではないのだけれど、彼のことはよく知っている。


 この国の宮廷魔導士の一人、アルベール・クレマチス。平民の生まれでありながら、高い魔力に恵まれ、類まれなる魔術の才能を持っていた男。


 けれど、僕が彼のことを覚えていたのはそんなつまらない理由からじゃない。


 彼はセレイナに恋焦がれていた男どもの内の一人だ。


 とあるお茶会で、セレイナと会話を弾ませていた男。セレイナが笑顔で話しかけていたのに対し、彼の表情はほとんど変わらなかった。

 けれども、セレイナが別れの挨拶をした際に彼の表情が動いたのがわかった。


 ひくりとわずかに動いた頬。少しだけ揺れた瞳孔。わずかに伏せられた瞼。彼は自分の元を去るセレイナを少しの身じろぎもせずに見送って、そして、セレイナを傍に抱き寄せる僕のことを見た。


 その時の視線といったら、まったく言葉にできないほど。

 ひどく醜い嫉妬の炎が彼の目に浮かんでいた。


 あの時のことを思い出しながら、僕は怪しまれない程度に笑みを浮かべた。


「やあ、アルベール。どうしたんだい? 僕に話しかけるなんて珍しいね」


 彼が僕のことを嫌ってるなんてよくわかってる。彼がどこまでもセレイナに恋焦がれているのもわかっている。


 彼ぐらいなものだ。王太子妃となったセレイナに、未だ熱い視線を送り続けているのは。


「それは殿下も同じでございましょう。普段は本など読まれないのに、図書室にいらっしゃるなど。……それほどまでに、セレイナ様の具合はよろしくないのですか?」


 ほら。二言目には『セレイナ』。


 アルベールが僕に話しかける理由は、セレイナのことを聞きたいからだ。


 セレイナが過労で倒れる前まで、アルベールはよく彼女と話していた。セレイナ付きの女官からは魔術に関する話しかしていなかったと聞いているが、アルベールにとってはそれが何とも得難い貴重な時間だったのだろう。


 彼女と顔を合わせて、彼女の声を聞いて、彼女の瞳に映る。たとえ、手を触れることができなくとも、彼女の存在を少しでも身近に感じることができるのだから。


 けれども、今はそんなことは不可能だ。僕が彼女を閉じ込めてしまったから。

 彼はもう、セレイナの瞳に映ることも、髪の一筋に触れることも、彼女の声を聞くことすら許されない。


 アルベールの金色の瞳からは、強い敵意が伝わってくる。この国の王子に対して、次期国王に対して、一体どういう了見だろう。


 それほどまでに彼は彼女に焦がれているのか。

 もう他の男の手に堕ちた女性をこうも一途に想い続けるなど、本当に哀れで、愚かで、実に滑稽だ。


 仄暗い優越感を抱いて、僕はアルベールに笑いかけた。この男がそれほどまでに望む女性を、僕はこの手に入れたのだ。


「まだセレイナの体調は優れないようでね。王宮の公式行事にも参加できそうにないんだ。もちろん、医師も手を尽くしてくれているが、なかなか、ね」


 そう言って、僕は不安そうに目尻を下げて、手で口元を覆った。

 僕の笑みは隠せているだろうか。これほどまでに滑稽な男の目の前で。


 セレイナの体調はとっくの昔に治っている。彼女が部屋から出てこれないのは僕が閉じ込めているからで、今の彼女は眠ったまま目覚めない。


 それをこの男は一切知らないのだ。彼女がどうして部屋から出てこないのかという理由も、彼女が眠ったまま、いつ目覚めるのかわからないということも。


 僕だけが知っている。僕だけが本当のセレイナを知っている。この男が知らない彼女を、僕だけが。


 セレイナが目覚めなくなってから、しばらく感じていなかった喜びが僕の胸を満たした。この哀れな男を目の前にして、僕の笑みは止まらない。


「……さようでございますか」


 求めていたセレイナの情報は手に入らず、アルベールは静かに引き下がった。


 当然だ。王子と平民。夫とただの部外者。どちらがよりセレイナに近しいか、その権利があるのかなんて、わかり切ってる。


「君が心配していたとセレイナにも伝えておこう」


 ピクリと彼の肩が揺れた。


 ああ、可笑しい。嘘なのに。

 恋焦がれる女性への伝言さえ、彼女の夫に頼まなければならない、なんて。

 その伝言さえ、届かないなんて。


 本当に、哀れ。


 アルベールは緊張した面持ちのまま、ふ、と一つ息を吐いた。スッと顔を上げた彼は、どこか決意の満ちた顔をしていた。


「実は、宮廷魔導士を辞任しようと思っているのです」


 アルベールは僕にそう告げた。


 手元に隠した僕の口元からピタリと笑みが止まったのが自分でもわかった。


 別に宮廷魔導士なんて誰でもいい。アルベールが辞めようが僕には何の感情も浮かばない。


 けれど、一つだけ思うのは。

 君はセレイナを愛していたんじゃなかったのかい?


 ツ、と思わず細くなった僕の目線に気づいているのかいないのか、彼は淡々と話を続ける。


「前々から思っていました。私はこの地位にふさわしくない。もっと他の場所で、身の丈に合った暮らしをしようと思うのです」


 身の丈に合った暮らし? この地位にふさわしくない?

 本当はもっと、別の理由があるんじゃないのかい?


 例えば、愛しのセレイナに会えなくなって絶望したとか。


「未練はないの?」


 彼のセレイナへの愛情を試すように問えば、彼ははっきりと迷いなく答えた。


「ありません」


 その言葉に、視線に、表情に、嘘があるようには思えなかった。

 それと同時にひどくがっかりした。この男は死ぬまでセレイナに恋焦がれているものだと思っていたから。


 恋に、愛に、不器用で。

 アルベールは、ただ一人を愛してしまえば、その女から目を離せなくなるような男だと思っていたから。

 そして、セレイナは、そんな男を一生魅了し続ける女だと思っていたから。


「これから、ここにいる助手のシエロとともに、この国を出ていこうと思っています」


 そう言って、アルベールは隣にずっと佇んでいた背の低い女を紹介した。くすんだ赤色の髪。そばかすの浮かんだ頬。鮮やかなエメラルドの瞳は目を惹くが、それを分厚い眼鏡で覆い隠していた。


 シエロは静かに僕に挨拶をした。シエロを見るアルベールの視線はひどく柔らかい。


 つまらない。


 結局アルベールも、高嶺の女性を諦めて、そこらにいる平凡な女に満足するのか。


 少し呆れかえると同時に、また別の楽しみが生まれた。


 セレイナはこの話を聞いて、どんな顔をするのだろう。

 また一人、君を愛する男が減ったと聞いて、どんな感情を抱くのだろう。


 セレイナは未だ目覚めないが、彼女がそれを知ったときの表情が楽しみだ。


「……そうかい。それは残念だ」


 そう言って、僕は本を閉じた。


 もうアルベールはどうでもいい。セレイナに恋焦がれた男ではなくなった彼に、絡む理由など一つも存在しない。


「どうぞ、お元気で」


 永遠の別れの挨拶をして、僕は席を立った。


 もう彼に興味はない。あとは可哀そうなセレイナを慰めてあげるだけだ。


 もう彼の心にセレイナはいない。


 本を元の場所に戻して、僕はセレイナの眠る部屋に向かった。


 僕はアルベールと彼の隣にいた女のことを振り返りはしなかった。

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