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第58話「山の札」

【グランゼ辺境 宿場テラ 申告台、月の二十一日の朝】

手持ち …… 銀貨二百四十七枚、銅貨十六

共有財布 …… 銀にして千二百六十五枚分(銭の数 千二百九十二枚/うち千枚分はレイ・ヴァルデの預り)

申告件数 …… 三百二十件(うち労賃百二十八件)

人口 …… およそ二百四十六人(兵は数えない)

売掛 …… 一件(ヴァルデ男爵家/銀貨二十二枚)

未払い …… 二件(アルド・ヴァルデ/銀貨十三枚と銅貨二、グレン・ヴァルデ/銀貨二十四枚)

公示 …… グランゼ辺境伯の位(名義 オットマー・グラウ/代理 レーヴェン)/申告値 銀にして一万枚分・月の流通税 銀にして百枚分(当村へ納付/初月分 納付済み)

公示 …… 位の売買 一件(買主 オットマー・グラウ/代理 レーヴェン/銀にして千枚分/月の九日 テラ申告台)

公示 …… 人別改め 一件(辺境伯 代理 レーヴェン/札 二百四十四枚/受けぬ者 五人/月の十日)

公示 …… 徴発の償い(布告済み/台帳に載る物は申告値どおり共有財布から償う)

公示 …… 徴発の照合 一件(隣領徴税官 ハウゼン/王国規定により/裏書つき)

公示 …… 徴発 十一件(返却 一件/支払い 十件・銀にして二百七枚分/月の十八日 テラ申告台)

公示 …… 遊休地一角(申告者 オットマー・グラウ/代理 レーヴェン/申告値 銀貨六枚)

公示 …… 辺境伯の布告 写し 一通(夫役/来月朔日より/月の二十日 取り下げ)

公示 …… 王国の規定 写し 一通(夫役の条/写し セリーヌ・ヴァルデ)

公示 …… 域内証文の公示義務(布告済み)

公示 …… 証文一件(ヴァルデ男爵家宛て/申告値 銀貨百八十枚/取り立てず・利も取らない)

公示 …… 証文一件(申告者 ヨエル/貸主 不明/証文上の名 グラウの十七)

公示 …… 取り消しの届 一件(ラウル・ヴェッセ/写しの名義の否認)

公示 …… 公示台帳の写し 十通(裏書=写した者の名・日・場所)

公示 …… 証文 三十一件(申告値 零/買主 本人/買い戻し済み)

公示 …… 買値 一件(グランゼ辺境伯の位/成立/朔日 テラ申告台)

公示 …… 監査方の報告 写し 一通(イルマ・ドレーゼ/先月の十日 テラ申告台/裏書つき)

公示 …… 西部詰所の布告 写し 一通(朔日施行/三条)

公示 …… 台帳建ての勘定(布告済み/一枚分=規定の重さの銀。ヴァルデ鋳は八割で受ける)

公示 …… 分銅の照合 一件(隣領徴税官 ハウゼン/王国規定により/裏書つき)

公示 …… 弁済 一件(借主 セリーヌ・ヴァルデ/貸主 中央商業ギルド連合/銀にして千枚分/朔日 西部詰所/貸主承諾つき)

保有証文 …… 一件(ヴァルデ男爵家宛て/額面 銀貨百八十枚/利は取らない)

預り …… 七十五件(銀にして千百二十三枚分/うち一件 レイ・ヴァルデ 銀にして千枚分/うち一件 亭主の遺した銭・返すために貯めた分)


特記───「判」


朱肉は、粘る。


ダンの親指が壺に沈み、引き上げられたとき、朱は一本の糸を引いて切れた。指の腹の渦巻きの溝に、赤が詰まっている。その指が帳面の名の横へ押され、離れると、同じ渦巻きが紙に残った。名の横には、日当がすでに書いてある。テラの控えから兵が写し取った、本人の口が言った値だ。二十一日の朝のことだ。


卓の向こうの兵は、長い約束の紙を早口で読み上げてから、足元の麻袋から札を一枚出してダンの掌に載せた。左の頬に火傷の痕のある男だった。ダンは読み上げのあいだ、天幕の向こうの雲を目で追っていた。兵の舌は、条を一つ越えるたびに速くなった。麻袋の口には、焼き印が一つ押してある。手付けだと言った。それだけで、もう次の男のほうへ顔を向けている。ダンは札を見もせず、懐へ落とした。


特記───「親指」(月の二十二日の朝)


二十二日の朝になっても、親指の赤は落ちていなかった。井戸の水で擦ったのだろう。皮の皺の奥にだけ、細い線になって残っている。


天幕の前の列は、夜明けから伸びていた。火傷の兵が杭の脇に立って、判の済んだ者の数を声に出している。十七。十八。抑揚のない声が、前の数に一つずつ足していく。並んでいるのは、昨日までに荷を解いた家の男が多かった。順番を待つあいだ、自分の掌に指で何かを書いては拭う者がいる。朱肉の壺のほうを見ないようにして、見てしまう者もいる。


機織りの弟は、兄の包帯の親指を思い出したのか、右の親指を出すか左を出すか、二度持ち替えた。連れ合いに袖を引かれて列から引き戻された男は、袖を振りほどくと、もとの場所へ戻って並び直した。


幼い娘の手を引いた父親は、娘の目を自分の外套で隠してから、卓の前へ進んだ。老爺が列の最後尾に並びかけて、六十八の身は数えられぬ歳だと思い出したらしく、煙管を吹かして背を向けた。


札を受けた者は、掌で裏表を返し、すぐ懐へしまった。銀の重さではない。それでも手付けと呼ばれて渡された物を、突き返す手はなかった。足元の麻袋は、何枚出しても、口の膨らみが減らなかった。


天幕の入口に、レーヴェンが立っていた。列を見ているのか、空を見ているのか、顔の向きでは分からない。杭の紙は釘一本で端を止められ、朝の風に反っている。反りを直す手は、どこからも出なかった。


荒れ地の縁には、ソルが小さな卓を出していた。控えと木箱と、削りたての木の棒。控えの余白には、夜のうちに俺が引いた線が何本も残っている。どの線も、途中で止まっていた。その前に、男が三人、順番を待って立っている。


「取り下げは、本人の手でやる」ソルが言った。「名を書け。書けない者は、判でいい」


一人目が筆を取った。手が震えて、名の最初の一画が二度重なった。二人目は、書く前に天幕のほうを一度見た。三人目がダンだった。字は書かず、赤い親指を取り下げの紙の端に押して、離す。移った朱は、帳面の判よりずっと淡かった。


フィーネは卓の脇に、控えを抱えて立っていた。筆を握る指の節が白い。ダンが紙から手を離して麦袋を担ぎ直したとき、その前に出た。


「あんた、山がどういうとこか分かってて——」


「前にも言ったろ」ダンは顎を上げた。袋の縄が襟を押し下げて、肩の荷縄の跡が赤い筋になって覗いている。「言い値が来たら、断る理由がねえ」


「あたしが言ってるのは、そういう——」


「ここの荷運びはよ、毎日はねえんだ」


ダンは荒れ地の向こうの村を見た。麦倉の屋根が、朝の日を受けている。


「峠の荷は、三日に一度、着きゃいいほうだ。九十日、毎日だぞ。毎日、銅貨だ」


フィーネの口が開いて、何も出ないまま閉じた。


「悪いか」


「悪くなんかないわよ」フィーネの声が、急に早くなった。「悪くないから困ってるんじゃない。毎日、日当が出れば、冬が越せる。誰が聞いたって正しいわよ。正しいのに、あたしは——」


「なら、行かせろ」


ダンは麦袋の縄を肩の上で直した。


少し離れた杭の影に、ダンの母親が立っていた。日に焼けた手の甲を胸の前で握り直し、ほどき、また握る。声はかけない。ダンはそちらへ顔を向けずに歩き出した。荷縄の軋む音が、道の先へ遠ざかっていく。母親は、息子の背が角を曲がって見えなくなっても、杭の影から動かなかった。


フィーネはその背を見送らなかった。卓へ振り返り、俺の正面で止まった。


「止めなさい」


控えの頁に目を落としたまま、答えなかった。


「人には値をつけないって言ったのは、あんたでしょ。なのに、あの子の値は、あたしたちの台帳から——」


「値を書いたのは、ダンだ」


フィーネの顔は、見なかった。卓の縁にかけた親指の爪が、木目に食い込んでいる。


筆が控えの上に叩きつけられた。穂先が割れ、墨が罫を越えて、労賃の行のどれかの上に黒い飛沫を散らした。


フィーネは背を向けた。歩幅が大きかった。板間へ向かう道の上で、一度も振り返らなかった。


ソルが筆を拾い、割れた穂先を指で揃えて、卓の隅に立てかけた。


「あれは、怒ると長い」


「知ってる」


ソルは取り下げの紙を三枚、卓の端で叩いて揃えた。「三人だけだ」。木の棒の先が、労賃の欄に三本の線を引き、残りの行を一つずつ下りていく。百二十八が、百二十五になった。


列の向こうで、兵の声が数を足している。二十一。二十二。


特記───「鉛」


二十三日の昼、ゲオルクの店先は、焼きたてのパンの匂いで道まで塞がっていた。


判を押した者は朝のうちに四十一人になったと、ソルが控えの余白に書き込んでいた。俺は板の脇の卓から、その数字ごと、向かいの店先を眺めていた。板の左半分は、釘穴が二つ残っているだけで、空いたままだ。


板の脇を通る二人の男が、声を落として話していた。今日にするか、明日にするか。明日にすれば、手付けは同じか。どちらも答えを持たないまま、二人は店のほうへ歩いていった。


広場を渡る男たちの親指に、赤が混じっている。荷を担ぐ手にも、桶を提げる手にも、斧の柄を握る手にも。数えれば、きっと四十一になる。井戸端で水を汲む男の親指は、釣瓶の縄を握るたびに、縄の上へ赤い点を移していた。


パン屋の列の前のほうに、兵が二人いた。銀貨で払い、釣りの銅貨を数え、パンを脇に抱えて天幕のほうへ戻っていく。兵の払う銀は、ゲオルクの天秤の皿の上で、いつも同じ音を立てた。


店先の木札には、昨日と同じ数字が下がっている。パン、銅貨五。ゲオルクは、値を言う前に唾を飲んだ。昨日は飲まなかった。今日の唾は、いつもより大きな音がした。


ダンが列の最後に並んだ。午前の荷を終えた腕が、だらりと下がっている。順番が来ると、パン一つ、銅貨五枚を卓に出そうとして、三枚で指が止まった。


「ゲオルク、すまねえ。二枚足りねえ」


ダンは懐を探って、鉛の札を卓に置いた。


「こいつじゃ、どうだ。手付けだとよ」


口の端が笑っている。


札は掌より小さく、鈍い灰色をしていた。角が丸く擦り減っている。表に砕けた車輪の印が刻まれ、紐を通す穴が一つ開いていた。パンの湯気のそばで、そこだけ温度のない色をしている。


ゲオルクは前掛けで両手を拭ってから、指二本で札をつまんだ。死んだ鼠でも拾うような持ち方だった。


「こ、これは……銭、ですか。あの、銭でしたら、もちろんお受けしますが、どちらの、どなたの銭で……うちの帳簿には、その、載せる欄が」


早口は、息を継ぐたびに喉で詰まった。


「貸しなさい」


フィーネが、控えを抱えて立っていた。通りかかったらしい。昨日から、俺の卓の前は顔を向けずに過ぎていた。その足が、ここで止まっている。


ゲオルクの手から札を取り、親指で角の丸みを確かめた。一日や二日で、誰かの親指が擦った丸みではなかった。店の天秤の左の皿へ札を載せ、右の皿には銀貨を一枚。竿が揺れて、鉛のほうへ傾いた。皿の鎖が、きり、と鳴る。


「重さは、あるわね。鉛の重さが」


ミラが吹き出した。パンの列の三番目で、荷紐を指に巻いていた。


「重さは、あるわね、だってさ。ダン、あんた手付けに鉛をもらって、それでパンを買おうとしたのかい。最高だよ、あんた」


ゲオルクの喉から、引きつった笑いが漏れた。前に並んでいた客が釣られた。列の後ろで誰かが、釣り糸の錘にゃなるぜ、と言い、笑いがもう一巡した。咳き込んだ者の咳まで、笑いに混ざった。列の五番目の男が、俺も持ってる、と懐を叩いた。叩いた手は、そのまま止まった。


ダンは笑わなかった。自分の親指を見ていた。朱の上に、鉛の灰色が筋になって移っている。懐の中で擦れたのだろう。指で拭うと、赤まで一緒に濁った。


「……手付けっつってたんだ、あいつ」


ミラの笑いが、途中で細くなった。踵が地面を蹴りかけて、止まる。銅貨を二枚、ゲオルクの手のひらに叩くように置いた。


「ほら、あたしが出す。貸しだよ、あんた。利は、取らないでおいてやる」


ゲオルクは銅貨を前掛けの隠しへ落とした。落とすときだけ、手が震えなかった。


ダンはパンを受け取った。湯気を立てるそれを掌に載せたまま、口へは運ばない。


そこへ、荷を担いだ男が板の前の道を通った。ヨエルだった。


足が、天秤の手前で止まった。目が、皿の上の札から離れない。右手が肩の麻袋を放れ、首の後ろへ上がって、襟の下の痕の上で止まった。


麻袋が地面に落ちた。袋の底で鑿が重なって鳴り、口から柄が一本覗いた。


ヨエルは拾わなかった。向きを変えて、来た道を戻っていく。足運びが、一歩ごとに速くなった。


店先から笑いが消えていた。パンの匂いだけが、まだ道に残っている。ゲオルクの手が、銅貨を握ったまま宙に浮いていた。


少し遅れて来たガンツが、黙って袋を担ぎ上げた。石粉の手で口を押さえ、ヨエルの消えたほうを見ている。目が一度だけ、俺の卓に来た。来て、逸れた。何も言わず、同じ方角へ歩き出した。


ダンが、パンを持った手を下ろした。皿の上の鉛を、まだ見ている。


「あの」ゲオルクの声が、細く出た。「相場表には、その、鉛の札は、何と書けば」


「書かなくていい」フィーネは札を皿から取らなかった。「載らない物に、値はつかないの」


控えを抱え直し、来た方角へ戻っていく。俺の卓の前を、今度も顔を向けずに過ぎた。


皿の上では、札が載ったままだった。鎖が、まだ細く鳴っていた。


特記───「山の銭」


板間の魔灯石は白く、卓の上の物の影を一つずつ平らにしていた。


札はダンから借りた。返せよ、とだけ言われた。夕方、パンを持ったままの手で渡されたものだ。いまは卓の真ん中に置かれて、石の光を吸っている。手に取ると、見た目より重かった。銀貨と並べれば、銀のほうが軽い。鉛は手の熱を吸い返さず、握っていた掌が冷めたあとも、札は最初と同じ冷たさだった。


ソルは札の縁に爪を当て、ぐるりと一周させた。魔灯石の下で、爪の先が一か所で引っかかる。


「鋳型の継ぎ目がある」ソルは爪を離した。「抜いて作った札だ。一枚や二枚じゃない」


「何に使う札だ」


「分からん」


「鉛としての値は」


「銅貨一枚に足りん」ソルは札を卓に戻した。「溶かして売っても、パンの半分も買えない」


控えを閉じ、木の棒を卓に寝かせたところで、戸口にガンツが立った。後ろへ回した手で、誰かの背を押している。


「荷を落とすような奴じゃねえんだ」ガンツが言った。「話せとは言わねえ。座れ」


ヨエルは座った。卓の端の、光の縁の、影の濃いほうへ。膝の上の手は、爪が何本も割れていた。割れ目に黒いものが入り込んでいて、石粉でも墨でもない色をしている。洗っても、落ちたことがないのだろう。


ガンツが卓の端に、懐から出した麦餅を置いた。石粉で白くなった餅は、潰れて平たい。ヨエルは見なかった。


外で釣瓶が鳴り、水が桶に落ちて、止んだ。ガンツの靴底が、床板を一度擦った。ヨエルは顔を上げなかった。


ヨエルの指が札へ伸びた。割れた爪の先で縁をつまみ、裏返し、また表に返す。砕けた車輪の、欠けた輪の部分で、親指が止まった。そこだけ、ほかより深く擦れている。


「山の銭は、山でしか使えねえ」


喉の奥で、何かが擦れる声だった。割れた爪が、札の縁を一周する。


「飯も、灯の油も、鑿も、山の店で買う。値は、山が書く」


札が掌に載ったまま、親指が車輪の欠けたところを押した。ソルの木の棒は、卓の上で動かなかった。


「山の外じゃ、鉛だ」


札が卓に戻った。指が離れるまで、長くかかった。窓の隙間で、風が板を鳴らした。


「足りねえ日は、借りになる」


爪の先が、卓の木目を引っかいた。


「借りがある奴は、山を出られねえ」


戸の外で、足音が止まった。板を踏む音が一度だけして、続かない。ガンツの肩が戸のほうへ半分傾き、戻った。振り向く者はいなかった。


ヨエルが札を裏返した。平らな面が上を向く。裏には、何の印もない。


「……日当は、ちゃんと払う」鉛の面を、割れた爪の先で押さえた。「紙に書いてあるとおりに」


ソルの木の棒が、転がるのをやめた。


ヨエルの手が札を離れ、首の後ろへ上がった。襟の下の痕に掌を当てて、そのまま下ろさない。口は閉じていた。魔灯石の白が、割れた爪の一本ごとに短い影を落としている。


ガンツが、潰れた麦餅を指で押し出した。ヨエルの膝の前まで、卓の上を滑っていく。


「飯の前にする話じゃなかったな」ガンツが言った。


石粉の指が、餅をもう一寸、ヨエルの膝のほうへ押した。


「日当が二十なら、山の店は飯を二十一と書く」ソルは棒の尻で札の縁を押した。


ヨエルの手が、膝の前の餅へ伸びた。割れた爪で潰れた角をちぎり、口へ入れる。噛む音は、釣瓶の音より小さかった。ガンツが鼻で息を吐いた。笑いにはならなかった。ソルは控えの余白に「札」と書き、横に「借」と添えて、二つを線で結んだ。線は書き終えても止まらず、余白の端まで引かれた。


前にも見た。大崩壊のあと、銭の凍った土地に、働いた分を、働かせた者の店でしか受け取れない町がいくつもできた。働けば働くほど、誰ひとり嘘をつかれぬまま、町から出られなくなった。


札の紐穴を抜けた光が、卓に白い点を一つ落としていた。


特記───「隠すことは、ない」


二十四日の朝は、夜が明けきらないうちに板間を出た。申告台の控えを脇に抱えている。宿の二階の窓に灯りが残っていた。戸は叩かずに通り過ぎた。


板の前を通ると、左半分に空いた二つの釘穴が、風で細く鳴った。セリーヌの写した条の紙だけが、右に貼られたまま残っている。


あの約束は、まだこの土地のどの台帳にも載っていない。


荒れ地の草は、霜で白かった。踏むと、靴の下で細かく鳴る。天幕の列はまだできていない。杭の根元に、昨日までの足跡が凍って残っていた。


卓には、レーヴェンが一人で座っていた。兵の姿はない。杭の紙は夜の湿りで端が反り返り、釘一本で辛うじて止まっている。朱肉の壺の蓋は卓の隅に外されていた。壺の朱は表面に薄い皮を張り、縁に何人もの指の跡が重なっている。レーヴェンの前には、湯気の立つ錫の椀が一つあった。口はつけられていない。


「早い」レーヴェンは椀から目を上げなかった。


「約束の中身を見たい」俺は言った。「判を押す前に読ませた紙だ」


レーヴェンは返事の前に、卓の下から一枚を引き出した。


「隠すことは、ない」


紙が卓に置かれた。杭の紙ではない。帳面係の兵の字で、行が詰まっている。丸みのある字には、書き手の癖がほとんど出ていなかった。杭の紙の三行に対して、こちらは十倍ある。


指で行を追った。雇い主の名は、オットマー・グラウ。代理、レーヴェン。期間。人別。作業は日の出から日没まで、昼の休みは一度。病の者は三日まで休んでよい、とある。三日を過ぎた先は、何も書かれていない。そうした行のあいだに、字の大きさも墨の濃さも他と変わらない行が、三つ、離れて埋まっていた。


『日当は、申告の値をもって、山の札にて払う』


『山の店の値は、山が定める』


『借りの残る者は、山を出ぬ』


「四十一人は、これを聞いて押したのか」


「読ませた」レーヴェンが言った。「読めぬ者には、兵が読んだ。一字も違えずに」


「山の店の値を、あんたは知っているか」


「知らぬ。書くのは山である」


「山の者は、いつ帰る」


「九十日である」レーヴェンは椀を見ていた。「借りがなければ」


椀の湯気が、霜の上を斜めに流れていった。レーヴェンの指が、椀を卓の上で一寸だけこちらへ押した。俺は手を伸ばさなかった。


紙を卓に戻した。レーヴェンは受け取らず、置かれたままにした。


天幕の入口の布が風で膨らみ、また萎んだ。レーヴェンの視線は、卓の上の紙にも、俺の顔にも向いていない。懐の砂時計は、出てこなかった。


天幕の陰から、火傷の兵が帳面を抱えて出てきた。卓の三歩手前で足を止め、レーヴェンの指が椀の縁を一度叩くのを見て、陰へ戻っていった。


「写しを取る」俺は言った。


「取るがよい。何通でも」


紙の四隅が、風でめくれかけた。抱えてきた控えを、紙の上に置いた。重しになった。レーヴェンの目が、控えの背に書かれた「テラ申告台」の字の上で、一度だけ止まった。


「雇うなら、この台で雇え」


朱肉の壺の縁に、指の跡が重なっていた。幾人もの渦巻きが、一つずつ違う形のまま、同じ赤になっている。


【グランゼ辺境 宿場テラ 申告台、月の二十四日の朝】

手持ち …… 銀貨二百四十七枚、銅貨十六

共有財布 …… 銀にして千二百七十一枚分(銭の数 千二百九十八枚/うち千枚分はレイ・ヴァルデの預り)

申告件数 …… 三百十七件(うち労賃百二十五件)

人口 …… およそ二百四十六人(兵は数えない)

売掛 …… 一件(ヴァルデ男爵家/銀貨二十二枚)

未払い …… 二件(アルド・ヴァルデ/銀貨十三枚と銅貨二、グレン・ヴァルデ/銀貨二十四枚)

公示 …… グランゼ辺境伯の位(名義 オットマー・グラウ/代理 レーヴェン)/申告値 銀にして一万枚分・月の流通税 銀にして百枚分(当村へ納付/初月分 納付済み)

公示 …… 位の売買 一件(買主 オットマー・グラウ/代理 レーヴェン/銀にして千枚分/月の九日 テラ申告台)

公示 …… 人別改め 一件(辺境伯 代理 レーヴェン/札 二百四十四枚/受けぬ者 五人/月の十日)

公示 …… 徴発の償い(布告済み/台帳に載る物は申告値どおり共有財布から償う)

公示 …… 徴発の照合 一件(隣領徴税官 ハウゼン/王国規定により/裏書つき)

公示 …… 徴発 十一件(返却 一件/支払い 十件・銀にして二百七枚分/月の十八日 テラ申告台)

公示 …… 遊休地一角(申告者 オットマー・グラウ/代理 レーヴェン/申告値 銀貨六枚)

公示 …… 辺境伯の布告 写し 一通(夫役/来月朔日より/月の二十日 取り下げ)

公示 …… 王国の規定 写し 一通(夫役の条/写し セリーヌ・ヴァルデ)

公示 …… 域内証文の公示義務(布告済み)

公示 …… 証文一件(ヴァルデ男爵家宛て/申告値 銀貨百八十枚/取り立てず・利も取らない)

公示 …… 証文一件(申告者 ヨエル/貸主 不明/証文上の名 グラウの十七)

公示 …… 取り消しの届 一件(ラウル・ヴェッセ/写しの名義の否認)

公示 …… 公示台帳の写し 十通(裏書=写した者の名・日・場所)

公示 …… 証文 三十一件(申告値 零/買主 本人/買い戻し済み)

公示 …… 買値 一件(グランゼ辺境伯の位/成立/朔日 テラ申告台)

公示 …… 監査方の報告 写し 一通(イルマ・ドレーゼ/先月の十日 テラ申告台/裏書つき)

公示 …… 西部詰所の布告 写し 一通(朔日施行/三条)

公示 …… 台帳建ての勘定(布告済み/一枚分=規定の重さの銀。ヴァルデ鋳は八割で受ける)

公示 …… 分銅の照合 一件(隣領徴税官 ハウゼン/王国規定により/裏書つき)

公示 …… 弁済 一件(借主 セリーヌ・ヴァルデ/貸主 中央商業ギルド連合/銀にして千枚分/朔日 西部詰所/貸主承諾つき)

保有証文 …… 一件(ヴァルデ男爵家宛て/額面 銀貨百八十枚/利は取らない)

預り …… 七十五件(銀にして千百二十三枚分/うち一件 レイ・ヴァルデ 銀にして千枚分/うち一件 亭主の遺した銭・返すために貯めた分)


特記───「雇うなら、この台で」


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