第56話「八十七」
【グランゼ辺境 宿場テラ 申告台、月の十九日の朝】
手持ち …… 銀貨二百四十七枚、銅貨十六
共有財布 …… 銀にして千二百五十九枚分(銭の数 千二百八十六枚/うち千枚分はレイ・ヴァルデの預り)
申告件数 …… 三百二十件(うち労賃百二十八件)
人口 …… およそ二百四十六人(兵は数えない)
売掛 …… 一件(ヴァルデ男爵家/銀貨二十二枚)
未払い …… 二件(アルド・ヴァルデ/銀貨十三枚と銅貨二、グレン・ヴァルデ/銀貨二十四枚)
公示 …… グランゼ辺境伯の位(名義 オットマー・グラウ/代理 レーヴェン)/申告値 銀にして一万枚分・月の流通税 銀にして百枚分(当村へ納付/初月分 納付済み)
公示 …… 位の売買 一件(買主 オットマー・グラウ/代理 レーヴェン/銀にして千枚分/月の九日 テラ申告台)
公示 …… 人別改め 一件(辺境伯 代理 レーヴェン/札 二百四十四枚/受けぬ者 五人/月の十日)
公示 …… 徴発の償い(布告済み/台帳に載る物は申告値どおり共有財布から償う)
公示 …… 徴発の照合 一件(隣領徴税官 ハウゼン/王国規定により/裏書つき)
公示 …… 徴発 十一件(返却 一件/支払い 十件・銀にして二百七枚分/月の十八日 テラ申告台)
公示 …… 遊休地一角(申告者 オットマー・グラウ/代理 レーヴェン/申告値 銀貨六枚)
公示 …… 辺境伯の布告 写し 一通(夫役/来月朔日より)
公示 …… 域内証文の公示義務(布告済み)
公示 …… 証文一件(ヴァルデ男爵家宛て/申告値 銀貨百八十枚/取り立てず・利も取らない)
公示 …… 証文一件(申告者 ヨエル/貸主 不明/証文上の名 グラウの十七)
公示 …… 取り消しの届 一件(ラウル・ヴェッセ/写しの名義の否認)
公示 …… 公示台帳の写し 十通(裏書=写した者の名・日・場所)
公示 …… 証文 三十一件(申告値 零/買主 本人/買い戻し済み)
公示 …… 買値 一件(グランゼ辺境伯の位/成立/朔日 テラ申告台)
公示 …… 監査方の報告 写し 一通(イルマ・ドレーゼ/先月の十日 テラ申告台/裏書つき)
公示 …… 西部詰所の布告 写し 一通(朔日施行/三条)
公示 …… 台帳建ての勘定(布告済み/一枚分=規定の重さの銀。ヴァルデ鋳は八割で受ける)
公示 …… 分銅の照合 一件(隣領徴税官 ハウゼン/王国規定により/裏書つき)
公示 …… 弁済 一件(借主 セリーヌ・ヴァルデ/貸主 中央商業ギルド連合/銀にして千枚分/朔日 西部詰所/貸主承諾つき)
保有証文 …… 一件(ヴァルデ男爵家宛て/額面 銀貨百八十枚/利は取らない)
預り …… 七十五件(銀にして千百二十三枚分/うち一件 レイ・ヴァルデ 銀にして千枚分/うち一件 亭主の遺した銭・返すために貯めた分)
特記───「八十七」
十九日の朝、申告台の前に荷車が三台並んでいた。
商いの荷ではない。一台目の荷台には、柳の揺り籠が逆さに括りつけられている。二台目は機織りの枠で、脚を空へ向けて縄で縛ってあった。三台目は鍋と釜ばかりを積み、縄で締めた鍋同士が、車輪が小石を噛むたびに鈍く触れ合う。
夜のうちに家を畳んだ車だった。濡れた土に、轍が三本、家々の方角から広場へ深く伸びている。
昨夕、布告が打たれてから、広場は声もなく空になった。泣く者も、怒鳴る者もいなかった。代わりに夜通し、家々の戸が開いては閉まる音がしていた。戸の音が止んだ家は、荷を縛り終えた家だった。
それぞれの車の脇に、男が一人ずつ立っていた。三人とも、兵の帳面に数えられた年頃だ。板には羊皮紙が昨夕のまま打たれていて、釘の頭に朝露が丸く乗っている。北の山の普請、年に九十日、来月朔日より。朔日まで、あと十二日ある。
俺は板の脇の卓にいた。寝ていないせいで、瞼の裏に墨の行が残っている。夜が明ける前から、控えの頁を繰り直していた。布告に当てはまる行はないかと、台帳の端から端まで三度読んだ。見つかったのは、当てはまらない行ばかりだった。
一台目の脇の鍛冶屋は、爪の間まで煤の入った手を、握っては開いていた。妻が荷台の縁に手をかけ、揺り籠の縄の結び目を、親指で一つずつ確かめている。濡れた柳の皮の、青い匂いがここまで届いた。荷台の隅には、鞴の革が畳んで押し込んである。金床は積めなかったのだろう。
二台目の機織りは、包帯を巻いた左の親指を、右の手で隠すように握っている。枠の縄に右手をかけ、解きかけて、やめた。三台目の若い男は、母親らしい老女を鍋の間に座らせ、膝に毛布を掛けてやっていた。老女は毛布の端を、自分の手でもう一度直した。
「預りを、出してくれ」
鍛冶屋はソルにだけ、そう言った。
「出して、どこへ行く」俺は卓から聞いた。
「峠の向こうだ。マレアに、妻の姉がいる。糸屋をやってる」鍛冶屋は荷車から目を離さなかった。「金床は、置いてきた。親父の代からの物だ。鍛冶屋は、鉄のあるところでやる」
ソルは聞き返さず、控えを開いた。頁の折り目に、指の脂で黒ずんだ筋がついている。木の棒の先が預りの欄を下り、一つの行で止まる。
「銀貨九枚と、銅貨四。預りは、本人のものだ」
秤の皿に銀貨が九枚載った。銅貨が四つ足される。ソルの指が、木箱の蓋の留め金にかかった。止める理屈は、この台帳のどこにも書かれていない。留め金が外れる音で、フィーネの筆が止まった。
ヴォルクが板の前に出てきたのは、その音のあとだった。夜通し歩いていたのか、外套の裾が泥を吸って重く垂れ、肩には枯れ草の屑が残っている。
「八十七人だ」
荷車ではなく、板を見ていた。
「三晩あれば、男はまとめて峠の向こうへ出せる。一晩に二十九人。二十九が三つで、八十七だ。兵は六十。夜の交代は夜半と明け方の二度で、あいだの半刻、見張りは焚き火のそばから動かない」
ソルが控えの余白に、木の棒の先で数字を書いた。二十九。二十九。二十九。足し直しても、八十七から狂わなかった。棒の尻が、その数字を一度叩いた。
鍛冶屋の妻の親指が、揺り籠の縁で止まった。
鍛冶屋が、初めて荷車から目を離した。ヴォルクの泥だらけの裾を、見た。
「霧の出る刻なら、沢筋は三歩先が見えない」ヴォルクは続けた。「獣道を知っているのは、こっちの猟師だけだ。荷は背負子に移せ。車は街道に出すな。轍が残れば、兵は車を追う。……やれる。やりたいと言ってるんじゃない。やれると言ってる。止める手が、他にあるか」
丘の北の荒れ地で、天幕の旗が風に鳴っていた。ここまで音は届かない。旗が裏返るのが、遠くに見えるだけだ。
誰も反論しなかった。ソルの手は留め金の上に残り、フィーネの筆の尻が帳面を一度叩いて、やめた。
俺は立った。椅子の脚が、濡れた土を擦った。
「待ってくれ」
口を開くと、鍛冶屋の目がこちらへ来た。寝ていない目だった。
「男だけ出れば、残った家に兵が来る。家ごと出るなら」鍛冶屋の妻の手を見た。「マレアの糸屋は、一家を養えるのか。家ごと逃げれば、ここは要らなくなる。——まだ、要る」
「要るかどうかは」鍛冶屋が言った。「あんたが決めることか。金床を置いてきたのは、俺だ」
声は荒れていなかった。熱した鉄の色を見るときの、平らな声だった。
答える言葉が、出てこなかった。荷台の柳が風で軋んだ。釘の頭から朝露が一粒落ちて、板の下の土に黒い点を打った。鍋が二つ、触れ合った。
「朔日まで、十二日ある」ようやく言えたのは、それだった。「十二日だけ、預けてくれ」
鍛冶屋は妻を見た。妻は荷を見た。揺り籠の結び目から、親指が離れる。その手で、揺り籠の縁を一度だけなぞった。柳の皮が、指の下で鳴った。
「荷は、解かない」鍛冶屋が言った。「十二日、積んだままにしておく」
梶棒を取って、車の向きを変えた。轍が、来た道をなぞって戻っていく。機織りの枠の車と、鍋の車も、それぞれの家のほうへ続いた。ソルが留め金を元の穴に戻し、皿の上の銀貨九枚が、木箱の中へ落ちる音がした。
「預りは、そのままにしておく」ソルが言った。「出したくなったら、いつでも出す」
鍛冶屋は返事をせず、鞴の革に掌を一度置いた。革の折り目を伸ばすような手つきだった。
ヴォルクの握った拳が、板の支柱に当たって、鈍い音を一つ立てた。
ヴォルクは外套の泥を払った。乾きかけた泥は指の跡を残しただけで、落ちなかった。
「十二日で、何ができる」
「分からない」
ヴォルクは動かなかった。広場の向こうで、三台の車が、揺り籠を逆さにしたまま、それぞれの家の戸口の脇に収まった。鍋の車の老女が、毛布を膝に掛け直すのが見えた。縄は一本も解かれていない。
鍛冶屋の妻は戸口に立って、荷台の鞴に掛けた布を、端から順に叩いて埃を払っていた。ヴォルクはそれを見ていて、自分の外套の裾に目を落とし、また泥の指の跡をこすった。
俺は卓に戻り、控えを開き直した。預りの欄の、銀貨九枚と銅貨四の行。さっきと同じ頁の、同じ行だった。夜明け前から三度読んだ頁を、四度目に読んでも、そこに書いてあることは増えなかった。
特記───「九十日」
昼になっても、板の前から人が減らなかった。
市の天秤は並んでいたが、分銅の上に手を置く者がいない。干し魚の吊り紐に、蠅だけがたかっていた。値を訊く声も、いつもの半分だった。桶を提げた女、斧を担いだ男、籠を抱えた子連れの母親が、羊皮紙の前に半円を作っている。誰も板に近づこうとはせず、誰も帰ろうとしなかった。
羊皮紙の末尾は、「辺境伯の権による」の一言で終わっていた。規定の名も、条の番号も、どこにも書かれていない。
半円のあちこちで、指を折る者がいた。十五から四十。自分の歳を数えて親指を畳み、また開く。三十九の男が、折り終えた手を腰の後ろへ隠した。四十一の男は、同じ手で、自分の肩を叩いた。
老爺が半円の端にいた。煙管の雁首に鉄の札をぶら下げて、吹かすたびに札が揺れる。
「儂は六十八じゃ」老爺が煙管を口から離した。「二十八も違うて、外れたわい。手に数えられんかった。年寄りは、何に数えられとるんかのう」
桶を提げた女が笑いかけて、口を押さえた。揺れた桶の水が、女の足元を濡らした。
「笑ってええぞ」老爺は札を指で弾いた。「年寄りの、数え漏れじゃ」
鉄が煙管の金具に当たって、乾いた音を立てた。女の肩が、一度だけ揺れた。笑ったのか、堪えたのかは、背中からは分からなかった。
ソルは控えの余白に、三行を書き込んでいた。人を数える。物を取る。人を働かせる。木の棒の先で、上の二行に横線を引く。棒の尻で、その線をなぞった。三行目だけが、手つかずのまま残っている。
半円の足元で、子供が棒で地面に線を引いていた。九十本まで引くつもりらしい。四十を過ぎたあたりで、何本目か分からなくなって、棒を投げた。
フィーネは控えの労賃の欄を、筆の尻で一行ずつ押さえながら、八十七の名を拾っていた。拾うたびに、その行の端へ点を打つ。今朝の鍛冶屋の名も、その中にあった。点は他の行と同じ大きさで、同じ強さで打たれた。点が増えていくのに合わせて、頁の余白が、細かい黒い粒で埋まっていった。
手を止めると、卓の上に銅貨を並べた。十五枚。一列に。
「これが、一人の一日」
筆の尻で列の端を押さえ、もう一方の手で控えの労賃の欄を繰った。
「八十七人分を、労賃の申告から拾ったの。日当の平均は銅貨十五。八十七人に、九十日、これを掛けるわよ」早口になっていた。「銀にして、千百七十枚分を少し越える。毎年。ただで。位を売って手にした千枚より、まだ多いじゃない」
筆の尻が、帳面を叩いた。一度。もう一度。
点を打った八十七の行は、数えるまでもなく、頁の三分の二を占めていた。
桶の女が、桶を地面に置いた。斧を担いだ男は、担ぎ直す手を途中で止めた。半円の後ろの列で、誰かが札の紐を握りしめ、紐が掌で擦れる音がした。
そこへ、パンを抱えた兵が一人、市のほうから戻ってきた。半円がそこだけ割れ、兵が通り過ぎると、同じ形で閉じた。兵の脚絆は新しい革で、泥の一粒もついていなかった。子供が拾い直した棒の先が、兵の背を追って、途中で下ろされた。
荷紐を握ったミラが、いつのまにか半円の後ろに来ていた。踵が地面を二度蹴って、止まる。
老爺が煙管を吹かした。
「儂の煙草が、年に銀三枚じゃ」札が揺れる。「三百九十年ぶんか。生きとらんわい」
誰も笑わなかった。ただ、半円のあちこちで、詰めていた息が一つずつ抜けた。
ガンツが石粉のついた手で、羊皮紙の釘の頭に触れた。鉄の頭に、白い指の跡がつく。指の下で、釘はまだ朝の冷えを残している。
「グラウの山は、人の手を数える」
声は板に向いていた。
「……帰ってきた手を、数えたって話は、聞かねえ」
指の跡の白さが、朝露の引いた釘の上で、やけにはっきりしていた。
荷を担いだヨエルが、板の前を通った。肩の麻袋が、歩くたびに背中を叩いている。立ち止まらず、羊皮紙も見ない。襟の上から、首の枷の痕が覗いていた。半円の端の者たちが道を空け、通り過ぎたあとで、それぞれが自分の首筋に手をやった。
板の真正面に、女が一人立っていた。日に焼けた手の甲を、前掛けの前で握りしめている。昨夕、息子の腕をつかんでいた女だった。
後ろからダンが来た。麦袋を担いでいる。襟の下の肩に、荷縄の跡が赤い筋を引いていた。母親の背に向かって立ち、板は見ずに、母親の頭の上のあたりを見ている。
「俺は、行かねえよ」
母親は答えない。手の甲が、前掛けの上で白くなった。
「……行かされるんだろ」
麦袋の口が肩の揺れでほどけ、麦が一粒、母親の草履の先に落ちた。母親は踏まないように、足を引いた。
母親の手が前掛けを離れ、後ろへ伸びた。昨夕と同じように、息子の袖を探す。見つけた。
物を取られたときは、言い値がついた。人の働きは、ただで取られる。払わないで、取るのか。
「昼までの入り」フィーネが言った。もう早口ではなかった。「流通税、銀にして一枚分。市に出たって、手が止まるんだもの」
筆の尻が、控えの「千百七十」の上を二度叩いた。
特記───「財布」
日が傾くと、板間の窓に、荒れ地の天幕の竈の火が映った。その手前の暗がりに、荷車の影が一つ、荷を積んだまま立っている。鍋の車だった。
卓の上に木箱が置かれている。蓋の埃が、フィーネの掌の形に拭われていた。当のフィーネは卓の端で控えを繰っていて、顔を上げない。
「王都へ訴えましょう」アーヴィンが指を組んだ。「人を働かせるのなら、根拠があるはずです。写しを持って、誰かが走れば」
「往復で十日」ソルが木の棒で卓を叩いた。「返事を待てば、朔日を越える。越えなくても、あの文は『権による』としか書いていない。権の中身を、こっちは知らん」
宿の主が、鍵束を鳴らして先を取った。
「昼に、兵が飯を食いに来た。銭を払って帰った。パンを買う連中は払う。人を持ってく連中は、払わねえ。同じ家宰の下でだ」
鍵束を握る手の甲に、昼に受け取った銅貨の、緑の跡が薄く残っている。宿の主はそれを、自分の袖でこすった。
「でしたら」アーヴィンが顔を上げた。「日当は、財布から出して、村が肩代わりすれば」
木箱の蓋の上で、フィーネの筆が転がり、卓の縁で止まった。
「千百七十枚分を、毎年だ」ソルは木箱を顎で示した。「財布は、千二百六十。一年で底が見える」
宿の主は鍵束を握り込んだ。昨日、兵の手から戻ってきた鍵だった。拳の中で、鍵の歯が鳴る。
「行かないと、村で決めましょう」アーヴィンの組んだ指が、関節のところで白くなっていた。「男たちを集めて、全員で」
「行かない者の家に、兵が来る」ソルが言った。「向こうは六十だ」
窓の火が揺れて、卓の上の影が一度、傾いた。
「行くかどうかは、村じゃ決まらない」俺は言った。「一人ずつだ。行くと決めた者がいても、止められない」
「止めねえのか」宿の主が顔を上げた。
「止める物が、台帳にない」
ソルの木の棒が卓の上を転がって、縁で止まった。
アーヴィンの指がほどけた。膝の上に落ちた手が、膝を一度、つかんだ。宿の主は何か言いかけて、鍵束をもう一度握り直しただけで、窓のほうを向いた。
「納屋へ行く」俺は立ち上がった。「布告を添えて、写しを作り直す。次の荷で、外へ出す」
背中で、鍵束が一度鳴った。戸を開けると、外は完全に暗くなっていた。
特記───「条」
夜、納屋へ向かう道の脇に、三台の車が見えた。鍋の車の毛布が、風で一度めくれて、戻った。
荒れ地の天幕では、竈の火が点々と赤かった。昨日まで槍を並べていた者たちが粥をすする音が、風に乗って、切れ切れに届く。笑い声が一つ上がって、すぐ止んだ。
どの家の戸口でも、荷は積まれたままだった。月の下で、揺り籠の縄の結び目だけが白い。朔日までは、あの結び目が時計になる。
納屋の二階は、雨戸の隙間から入る風で、蝋燭の炎が傾いていた。梯子の段が軋む音が先に上がってきて、そのあとに、セリーヌの筆の音が続く。炎が傾くたび、筆の影が紙の上を滑った。セリーヌは穂先を小刀で削り直し、段の軋みの合間に、その音が入った。
布告を添えた写しが、蝋の乾くのを待って、卓の端に七枚並んでいた。セリーヌの筆は、羊皮紙の文を一字も違えずに移していく。「札を受けた者のうち、十五から四十の男は」。行の頭を揃える指だけが、定規を当てたように正確だった。
「十通に揃えてくれ」俺は言った。「荷は、明後日に出る」
セリーヌは頷く代わりに、紙の端を揃えた。一枚目の余白に、番号を添えようとする。写しの作法だった。布告の根拠になった規定の条を、余白に書き留めておく。
階下から持ってきた白湯の椀を、俺は卓の隅に置いた。セリーヌは手に取らず、墨の染みた指で、椀の縁を卓の縁と平行に直した。
俺は卓の脇の木箱に腰を下ろし、墨の落ち着いた写しから手に取って、蝋を垂らした。ヴァルデの印を押し、蝋が冷える前に親指で縁を均す。指の腹に、蝋の熱が残った。七枚が済んだとき、階下の戸が一度開いて、閉まった。フィーネが様子を見に来て、声をかけずに戻ったのだろう。
根拠を確かめるために、卓の上へ別の頁が広げられていた。月の十五日、ハウゼンが口頭で述べた規定の文を、セリーヌが控えに書き留めた頁だ。端に、ハウゼンの署名と日付がある。赤茶けた墨の、角張った字で、一画ごとに肩を怒らせている。署名の脇に「第二十八条」と添えてあった。セリーヌの墨は黒い。二色の字が、卓の上に並んでいた。書き留めてあるのは、その一条だけだ。続きは、頁の外にある。
セリーヌは余白に「第二十八条」と書きかけ、一本の線で消した。夫役は、徴発の条ではない。線の上に墨がもう一滴落ちて、丸い染みになった。筆が、そこで止まった。
セリーヌの指が、紙の端を揃えた。もう揃っている端を、もう一度。親指の腹に、古い痣のような墨の染みが残っている。
蝋燭の芯が爆ぜ、根元で油が泡立った。
「この条の次の条を」セリーヌが言った。「わたくしは、子供のころに、十度写しました」
それだけだった。空いた紙を一枚引き寄せ、筆を取る。迷いなく書いた。
写すことしか、させてもらえなかったのかもしれない。聞かなかった。聞けば、その十度が、この卓の上に載ってしまう。
『第二十九条 夫役は、領内の普請に限る』
墨が乾くまで、どちらも動かなかった。
階下で、梯子の段が一つ軋んだ。誰かが上がりかけて、戻っていった。
「この『領内』とは」セリーヌが顔を上げた。「どこまでのことでございますか」
俺は壁を見た。梁の釘に、峠道の地図が貼ってある。紙を三枚継いだもので、継ぎ目の糊が浮いていた。テラ。峠。回廊。代官邸。指で北へなぞっていく。峠の分かれ道から北へ延びる一本の道は、ガンツの字で「石切り」とだけ書かれたところで、途切れていた。
山は、地図のどこにもなかった。
地図の北の端で、紙が切れていた。
【グランゼ辺境 宿場テラ 申告台、月の十九日の夜】
手持ち …… 銀貨二百四十七枚、銅貨十六
共有財布 …… 銀にして千二百六十一枚分(銭の数 千二百八十八枚/うち千枚分はレイ・ヴァルデの預り)
申告件数 …… 三百二十件(うち労賃百二十八件)
人口 …… およそ二百四十六人(兵は数えない)
売掛 …… 一件(ヴァルデ男爵家/銀貨二十二枚)
未払い …… 二件(アルド・ヴァルデ/銀貨十三枚と銅貨二、グレン・ヴァルデ/銀貨二十四枚)
公示 …… グランゼ辺境伯の位(名義 オットマー・グラウ/代理 レーヴェン)/申告値 銀にして一万枚分・月の流通税 銀にして百枚分(当村へ納付/初月分 納付済み)
公示 …… 位の売買 一件(買主 オットマー・グラウ/代理 レーヴェン/銀にして千枚分/月の九日 テラ申告台)
公示 …… 人別改め 一件(辺境伯 代理 レーヴェン/札 二百四十四枚/受けぬ者 五人/月の十日)
公示 …… 徴発の償い(布告済み/台帳に載る物は申告値どおり共有財布から償う)
公示 …… 徴発の照合 一件(隣領徴税官 ハウゼン/王国規定により/裏書つき)
公示 …… 徴発 十一件(返却 一件/支払い 十件・銀にして二百七枚分/月の十八日 テラ申告台)
公示 …… 遊休地一角(申告者 オットマー・グラウ/代理 レーヴェン/申告値 銀貨六枚)
公示 …… 辺境伯の布告 写し 一通(夫役/来月朔日より)
公示 …… 域内証文の公示義務(布告済み)
公示 …… 証文一件(ヴァルデ男爵家宛て/申告値 銀貨百八十枚/取り立てず・利も取らない)
公示 …… 証文一件(申告者 ヨエル/貸主 不明/証文上の名 グラウの十七)
公示 …… 取り消しの届 一件(ラウル・ヴェッセ/写しの名義の否認)
公示 …… 公示台帳の写し 十通(裏書=写した者の名・日・場所)
公示 …… 証文 三十一件(申告値 零/買主 本人/買い戻し済み)
公示 …… 買値 一件(グランゼ辺境伯の位/成立/朔日 テラ申告台)
公示 …… 監査方の報告 写し 一通(イルマ・ドレーゼ/先月の十日 テラ申告台/裏書つき)
公示 …… 西部詰所の布告 写し 一通(朔日施行/三条)
公示 …… 台帳建ての勘定(布告済み/一枚分=規定の重さの銀。ヴァルデ鋳は八割で受ける)
公示 …… 分銅の照合 一件(隣領徴税官 ハウゼン/王国規定により/裏書つき)
公示 …… 弁済 一件(借主 セリーヌ・ヴァルデ/貸主 中央商業ギルド連合/銀にして千枚分/朔日 西部詰所/貸主承諾つき)
保有証文 …… 一件(ヴァルデ男爵家宛て/額面 銀貨百八十枚/利は取らない)
預り …… 七十五件(銀にして千百二十三枚分/うち一件 レイ・ヴァルデ 銀にして千枚分/うち一件 亭主の遺した銭・返すために貯めた分)
特記───「領内」




