第55話「奪えば、買ったことになる」
【グランゼ辺境 宿場テラ 申告台、月の十八日の朝】
手持ち …… 銀貨二百四十七枚、銅貨十六
共有財布 …… 銀にして千五十二枚分(銭の数 千七十九枚/うち千枚分はレイ・ヴァルデの預り)
申告件数 …… 三百十八件(うち労賃百二十八件)
人口 …… およそ二百四十六人
売掛 …… 一件(ヴァルデ男爵家/銀貨二十二枚)
未払い …… 二件(アルド・ヴァルデ/銀貨十三枚と銅貨二、グレン・ヴァルデ/銀貨二十四枚)
未払い …… 辺境伯 オットマー・グラウ(徴発 十一件/銀にして三千七枚分/うち二千八百枚分は代官邸の倉および遊休地一帯・レイ・ヴァルデ宛て/ハウゼン照合・裏書つき)
公示 …… グランゼ辺境伯の位(名義 オットマー・グラウ/代理 レーヴェン)/申告値 銀にして一万枚分・月の流通税 銀にして百枚分(当村へ納付/初月分 納付済み)
公示 …… 位の売買 一件(買主 オットマー・グラウ/代理 レーヴェン/銀にして千枚分/月の九日 テラ申告台)
公示 …… 人別改め 一件(辺境伯 代理 レーヴェン/札 二百四十四枚/受けぬ者 五人/月の十日)
公示 …… 徴発の償い(布告済み/台帳に載る物は申告値どおり共有財布から償う)
公示 …… 徴発の照合 一件(隣領徴税官 ハウゼン/王国規定により/裏書つき)
公示 …… 域内証文の公示義務(布告済み)
公示 …… 証文一件(ヴァルデ男爵家宛て/申告値 銀貨百八十枚/取り立てず・利も取らない)
公示 …… 証文一件(申告者 ヨエル/貸主 不明/証文上の名 グラウの十七)
公示 …… 取り消しの届 一件(ラウル・ヴェッセ/写しの名義の否認)
公示 …… 公示台帳の写し 十通(裏書=写した者の名・日・場所)
公示 …… 証文 三十一件(申告値 零/買主 本人/買い戻し済み)
公示 …… 買値 一件(グランゼ辺境伯の位/成立/朔日 テラ申告台)
公示 …… 監査方の報告 写し 一通(イルマ・ドレーゼ/先月の十日 テラ申告台/裏書つき)
公示 …… 西部詰所の布告 写し 一通(朔日施行/三条)
公示 …… 台帳建ての勘定(布告済み/一枚分=規定の重さの銀。ヴァルデ鋳は八割で受ける)
公示 …… 分銅の照合 一件(隣領徴税官 ハウゼン/王国規定により/裏書つき)
公示 …… 弁済 一件(借主 セリーヌ・ヴァルデ/貸主 中央商業ギルド連合/銀にして千枚分/朔日 西部詰所/貸主承諾つき)
保有証文 …… 一件(ヴァルデ男爵家宛て/額面 銀貨百八十枚/利は取らない)
預り …… 七十五件(銀にして千百二十三枚分/うち一件 レイ・ヴァルデ 銀にして千枚分/うち一件 亭主の遺した銭・返すために貯めた分)
特記───「取らせろ」
十六日も、十七日も、同じことが続いた。峠の脇の牧からまた飼い葉が一山消え、償いに銀にして十九枚分が出た。控えの余白に、行がまた一つ増えただけだった。財布は削られ、日は進み、誰も声を荒げなくなっていた。慣れではない。もう驚く分の力が、村のどこにも残っていないだけだった。
板間では、フィーネが毎晩同じ数字を数え直していた。取られた分、償った分、残った分。三つの数字を並べるたびに、真ん中の欄がじわじわと膨らみ、両端の欄が細っていく。それだけの作業を、二晩続けて繰り返していた。ソルは何も言わず、その横で控えの表紙を木の棒で軽く叩き続けていた。数えることをやめない限り、まだ負けていないという顔だった。
十八日の朝、申告台に槍は並んでいなかった。
木箱を提げたレーヴェンが、ひとりで立っていた。灰緑の外套の裾に朝露が薄く光っている。兵の影も、荷車の轍もない。ただ懐から覗く真鍮の砂時計だけが、いつもと同じ場所にあった。
「未払いの総計を」
前置きも挨拶もなかった。ソルが控えを開き、木の棒の先で頁の行を示す。
「十一件。銀にして三千七枚分。うち二千八百枚分は、代官邸。持ち主は、この男だ」
木の棒の先が、俺を指した。レーヴェンはその指の動きを目で追い、それからようやく口を開いた。
「屋敷は、返す」
板の前がわずかにざわめいた。フィーネの筆が止まる。宿の主が、鍵束を握ったまま身を乗り出した。返す、という一言に、値切りも駆け引きもなかった。
「返すって」フィーネが筆を握り直しながら聞いた。「代わりに、何を寄越すの」
「何も」レーヴェンは短く答えた。「持てば、払い続けねばならぬ。買い戻されもする。持つ理由が、伯にはない」
フィーネは口をつぐんだ。損得だけで動く男の答えは、村の理屈と同じ形をしていた。敵の口からそれを聞かされる気分の悪さと、否定のしようのなさが、同時に顔に出ていた。
アーヴィンが控えの端を指でなぞりながら、小さく息を吐いた。
「屋敷は、村のものになるのでしょうか」
「ならん」ソルが答えた。「元の持ち主に戻るだけだ。台帳の名は、一度も動いていない」
アーヴィンはそれ以上聞かず、指を組み直しただけだった。
村長の顔に浮かんでいたのは、安堵ではなかった。屋敷一つが戻ったところで、この土地が抱えた問題の芯には触れていないと分かっている顔だった。控えを抱え直す腕の力だけが、その分だけ強くなっていた。
買うという道も、伯にはあったはずだった。だが買えば、レーヴェンが申告者になり、流通税を払い続けねばならず、しかも誰かがいつでも同じ値で買い戻せる。占拠を続ければ、未払いの行に載ったまま、伯の名を汚し続けるだけだった。どちらの道も、損でしかなかった。
代官邸の兵が、荷物をまとめて引き払っていく物音が、遠くから風に乗って届いていた。荷車に積まれる甲冑の触れ合う音が、間遠に続いている。
「残りは」ソルが続けた。「十件。宿、麦と干し肉、薪、峠の荷が七件。合わせて、銀にして二百七枚分」
レーヴェンは木箱の蓋を開けた。銀貨が朝日を鈍く跳ね返す。フィーネが村の鉄の分銅を秤の片方に載せ、もう片方に銀貨を積んでいく。二百枚を過ぎたところで竿がわずかに傾き、七枚を足したところで水平に止まった。大秤は要らなかった。二百七枚分なら、鉄の分銅だけで十分だった。前の二度とは違う静けさが、その分銅の軽さにあった。
秤が止まると、フィーネが銀貨を一枚ずつ木箱へ移し替えていく。乾いた音が、朝の板の上に規則正しく続いた。宿の主の分、麦の分、薪の分。控えの行を一つ読み上げるたびに、対応する銀貨の山が木箱の中へ吸い込まれていった。峠の荷を運んでいた東の商人が、噂を聞きつけて板の脇に立っていた。自分の名が呼ばれると、少し驚いた顔で進み出て、銀貨を受け取った。礼は言わず、ただ懐に収めてから深く一礼だけして去っていった。
薪を取られた老爺の分も、同じように渡された。老爺は銀貨を手のひらで転がし、重さを確かめてから懐にしまった。
「取られた分より」ぼそりと呟く。「気持ち、多いくらいじゃな」
「規定の重さだ」ソルが答えた。「多くも少なくもない」
老爺はそれ以上言わず、煙管の先で銀貨の入った懐を軽く叩いただけだった。
「なぜ払う」ヴォルクが柱代わりの支柱に肩を預けたまま聞いた。「取ったまま、放っておく手もあったろう」
「伯の名が」レーヴェンは砂時計に触れずに答えた。「財務府へ上がる写しに、払わぬ者として載る。……伯は、それを好まれぬ」
隣領の徴税官が、王都へ上げると言った、あの照合の写しだった。まだ王都の板に載ったわけではない。だが、載ることはもう動かない事実として、この場の全員に伝わっていた。
「載ってからでは」ソルが控えの表紙を木の棒で叩きながら言った。「遅い、ということか」
レーヴェンはそれに答えなかった。答えないことが、答えだった。フィーネがそれを聞いて、控えの隅に短く一行だけ書き足した。数字にならない仕事の重さを、書き足す手の速さが物語っていた。
「取っても」レーヴェンは続けた。「安くはならぬ。値は、そちらが先に書いてある」
言い値で買ったのと同じだ、と言っているのだった。奪った物にも、台帳に載った瞬間から値がつく。取る前に取り分を考えていた男が、取った後の値を計算し直して、損だと判じただけだった。
「奪えば」俺は言った。「買ったことになる」
レーヴェンは、それを否定しなかった。
「……そのようだ」
短い一言だった。悔しさも、負け惜しみもそこにはなかった。ただ、数字を確かめ終えた者の声だった。
宿の主が輪の外から進み出て、腰の鍵束を握り直す。レーヴェンは合図一つで兵を退かせ、宿の鍵束がもう一つ、宿の主の手に戻された。乾いた金属の音が、朝の板の前に短く響いた。宿の主はそれを両手で包み、何も言わずに一礼だけして戻っていった。
勘定が締まった。控えの上で、辺境伯の未払いの行が、線一本で消される。ソルの木の棒が、その線をなぞって止まった。
ヴォルクが柱代わりの支柱から背を離し、レーヴェンの前まで歩いた。
「槍を三十本並べて、結局これか」
「これだ」レーヴェンは短く答えた。「他に、何を望んだ」
ヴォルクはそれ以上言わなかった。相手の答えに、突く隙が見当たらないという顔だった。腕を組み直し、柱へ戻っていく足取りに、朝より幾分軽さがあった。
広場の音が、少しずつ戻ってきていた。荷車の軋みが一つ、離れた場所で鳴り始める。市を止めていた緊張が緩み、いつもの朝の続きが動き出す気配だった。フィーネが控えを閉じ、それを合図にしたように、周りの村人たちも自分の商いへと散っていった。
「兵の寝る場所が」レーヴェンが言った。「要る」
特記───「六枚」
丘の麓、代官邸から見て北へ半里ほどの荒れ地に、レーヴェンは兵を連れて向かった。枯れ草が膝の高さまで伸び、風が渡るたびに乾いた音を立てる。誰も手を入れていない土地だった。
「この一角を」レーヴェンが枯れ草の茂みを指した。控えの写しを持ったソルが同行していた。「随意買取で」
申告者は老爺だった。ずっと昔、値もつかないと思って安く書いたまま忘れていた土地だと、後で聞いた。煙管を吹かしながら現れた老爺は、板に記された値を見て、灰を落とすのも忘れていた。
「銀貨、六枚かい」
「規則どおりだ」ソルが答えた。「安く書いた者は、安く買われる。それだけだ」
老爺は煙管の雁首を軽く叩き、それから声を上げて笑った。
「六枚で、兵が買えたわい」
その一言に、周りにいた村人の何人かが釣られて笑った。朝からずっと張っていた空気が、そこで一度だけ緩んだ。
「六枚で売れるもんが」老爺が煙管を吹かしながら続けた。「儂の畑の隅にも、まだあるかもしれんのう」
老爺の隣に住む男も、同じように忘れていた裏の空き地を、その日のうちに申告し直した。まだ値もつかない土地に値をつける真似を、老爺に教わったばかりの手つきでやってのけた。ソルが控えにその一行を書き足しながら、木の棒の先で頁を軽く弾いた。
「死蔵の土地が、動き出すか」ソルが呟いた。「悪いことじゃない」
隣家の男は筆を持ったことがなく、フィーネが代わりに欄を埋めた。申告値は銀貨四枚。老爺の土地よりさらに安かったが、男はそれでも満足げに頷いていた。
「書いとけば」男が言った。「いつか誰かが買いに来るかもしれん」
老爺は、まだその場を動かず、煙管を吹かしながら隣人の手つきを面白がって眺めていた。陽が少し高くなった頃、その一言を聞いて、また煙管の灰を落としながら笑った。二人分の笑い声が、朝の板の前にしばらく残った。徴発の重さを引きずっていた広場の空気に、久しぶりに軽い音が混じった瞬間だった。周りで見ていた村人の何人かも、つられて口元を緩めていた。
銀貨六枚が老爺の手に渡ると、レーヴェンは自らその場に立ち、申告台に向かって声を上げた。
「申告者、オットマー・グラウ。代理、レーヴェン。申告値、銀貨六枚」
フィーネが筆を執り、名義の欄にそのまま書き込む。
「月の流通税は」フィーネが言った。「銅貨六」
ミラが荷紐を締め直しながら、噴き出すのを堪えきれなかった。
「銅貨六枚のために、家宰様が自分で並ぶのかい」
レーヴェンは表情を変えなかった。並ぶことに、恥じる理由がないという顔だった。
「銅貨六枚」フィーネがもう一度、確かめるように繰り返した。「毎月」
「規則どおりだ」レーヴェンは同じ言葉を返した。「そちらが定めた」
フィーネは筆を控えに戻し、それ以上は何も言わなかった。自分たちの規則に、当の敵が律義に従っている光景は、勝ちとも負けともつかない、妙な後味を残した。
兵の一人が、荒れ地の中央に杭を打ち込む。木槌の音が、乾いた土に短く響いた。天幕の布が風を孕んで膨らみ、頂に辺境伯の旗が立てられる。銀貨六枚の荒れ地の上に、その旗だけが妙に大きく見えた。枯れ草を踏み分けて杭を運ぶ兵の靴音が、いつもの行軍の足音より、幾分か軽く聞こえた。
昼過ぎ、兵たちが天幕の間からぽつぽつと市へ下りてきた。パンと干し肉を買いに来た兵の一人が、ゲオルクの店の前で立ち止まる。ゲオルクの箒を握る手が、一瞬固くなった。
「……いくらだ」兵が聞いた。
「銅貨で、十二」ゲオルクは早口で答えた。値を上げも下げもしなかった。声は震えていたが、数字だけは正確だった。
ヴォルクが店の脇から、それを見ていた。
「昨日まで取ってた連中に」低く言う。「同じ値で売るのか」
「同じ値で売るから」俺は答えた。「取れなくなる」
売る側が値を吊り上げれば、買う側はまた取る理由を見つける。同じ値で売り続けることが、取ることの割の合わなさを支え続ける唯一のやり方だった。ヴォルクは腕を組んだまま、それ以上は言わなかった。
ゲオルクがパンを渡すと、兵は懐から銅貨を出し、数え間違えないように一枚ずつ卓の上に並べた。ゲオルクがそれを受け取り、店の木箱に落とす。乾いた音が一つ、店先の箱の中で鳴った。
別の兵が、干し肉を求めて列に並んだ。ゲオルクの手はまだ少し震えていたが、値を告げる声はさっきより落ち着いていた。三人目が来る頃には、箒を握っていた手も、いつもの商いの手つきに戻っていた。
宿の主が、店先を通りかかりながら足を止めた。
「よく、売る気になったな」
「売らなきゃ」ゲオルクは箒を握り直した。「損するのは、うちだけです」
宿の主はそれ以上何も言わず、頷いて去っていった。徴発される側にいた者同士が、今は同じ理屈で立っていた。
ミラが荷台の陰からその様子を眺め、フィーネに耳打ちした。
「あの店主、存外、肝が据わってるじゃないか」
「据わってるんじゃない」フィーネが答えた。「据わったふりを、続けてるだけ」
フィーネは控えを開き、筆の先で銅貨の入りの行をなぞって数え直した。
「兵の分だけで、一日に銅貨二十は店を回る」筆の尻で帳面を叩きながら言う。「流通税だけでも、馬鹿にならない額よ」
「馬鹿にならないから」ソルが控えの脇から言った。「向こうも、飯を買う側に回ったんだ。買う側は、市を潰せない」
フィーネはそれ以上言い返さず、帳面の隅にその数字を書き足した。銅貨二十枚分の流通税が、槍三十本よりも確かに村の側に効いているという、妙な事実だけがそこに残った。
荷を担いだヨエルが、兵の天幕の前を通りかかった。兵の一人が視線を上げたが、何も言わなかった。ヨエルも足を止めず、そのまま市の方へ歩いていった。首の枷の痕を隠すこともせず、隠す必要も感じていないという歩き方だった。天幕の陰から、その背をガンツが黙って見送っていた。石粉のついた手が、一度だけ固く握られ、それからゆっくりとほどけた。
夕暮れが近づく頃には、荒れ地の天幕にも竈の煙が上がり始めていた。パンを焼く匂いと、兵たちの粥の匂いが、風に乗って市場の側まで流れてくる。誰かが夕餉の支度をする物音は、昨日までの静まり返った代官邸の焚き火とは違う響きを持っていた。杭に結んだ手綱の先で、荷馬が一頭、のんびりと草を食んでいる。銀貨六枚の土地に、いつのまにか村の日常と同じ音が根を下ろしていた。
夕方近く、レーヴェンがまた板の前に姿を見せた。今度は木箱を提げていなかった。懐から出した羊皮紙を一枚、脇に挟んでいる。
特記───「人は、載らぬ」
日が傾き、板の周りに落ちる影が長くなっていた。ソルとフィーネが、控えの数字を突き合わせている。
「共有財布」フィーネが木箱の蓋を叩きながら言った。「銀にして千二百五十九枚分。銭の数、千二百八十六」
「未払いの行は」ソルが控えを閉じた。「消える。代わりに、徴発十一件。返却一件、支払い十件、銀にして二百七枚分」
数字が、静かに帳面へ収まっていった。歓声を上げる者はいなかった。財布が増えたことよりも、消えた行の重さの方が、まだ全員の中に残っていた。
「申告件数は」アーヴィンが控えを覗き込みながら聞いた。
「三百二十」フィーネが答えた。「隣の男の分と、兵の天幕の土地の分で、二増えた」
「労賃は動かん」ソルが付け足した。「値をつけただけの行だ」
宿の主が、鍵束を懐にしまいながら板の隅から言った。
「代官邸は、これからどうなる」
「元通りだ」俺は答えた。「台帳の名は、最初からここにある」
宿の主は、自分の鍵束と手の中の鍵束を見比べるようにしてから、それ以上は聞かなかった。フィーネが控えを閉じ、木箱の重みを両手で確かめるように持ち上げた。銀貨の音が、蓋の下で低く鳴った。
視線が、自然と板の上の一行に集まった。位の行だった。日暮れの薄い光の中で、その墨だけが妙に濃く見えた。
秤の目盛りを見るときの感覚が、ふいに喉の奥から迫り上がってきた。板の文字の輪郭が、一瞬だけ揺れて滲む。
『グランゼ辺境伯の位/真価:人の上に座る椅子。座る下から人が立てば、ただの木/世評:銀にして一万枚分の栄誉』
奪えば、買ったことになる。市の中では、力は値を下げられない。台帳に載った物は、取った瞬間から言い値がつく。そこまでは、今日の勝ちだった。
だが、真価の後半が引っかかった。座る下から人が立てば、ただの木。椅子の下にいるのは、人だ。人は、この台帳のどこにも載っていない。
「奪えぬことは」レーヴェンが板の前に立ち、脇の羊皮紙を取り出した。「分かった」
言葉が、そこで一拍途切れた。
「……台帳に載るものは、な」
続けて、静かに言い添えた。
「人は、載らぬと聞いた」
誰も、すぐには答えなかった。ソルの木の棒が、控えの上で止まったまま動かなかった。村の原則を、そのまま逆手に取られたのだと、その一言だけで分かった。
レーヴェンは羊皮紙を板に当て、兵に釘を打たせた。乾いた音が二度、夕の広場に響いた。
「札を受けた者のうち、十五から四十の男は」レーヴェンが読み上げた。「来月朔日より、北の山の普請に就くこと。年に九十日。辺境伯の権による」
それだけの文だった。短く、迷いのない字だった。
板の前に集まっていた村人の間から、声を上げる者はいなかった。若い男の隣に立っていた母親らしき女が、その腕を無言でつかんだ。手を握る力だけが、声より先に伝わっていた。フィーネの筆が、控えの上で止まったまま動かない。誰の目にも、布告の意味だけは正確に届いていた。
石粉のついた手が、控えを持ったまま止まった。
「グラウの山だ」
ガンツの声は低く、それきりだった。北の石切り場で聞いた噂の名が、今、目の前の羊皮紙に書かれていた。ガンツはそれ以上何も言わず、控えを胸に抱え直しただけだった。石粉のついた手の甲に、夕日の色が薄く差していた。
八十七の印を刻まれた男たちの顔が、頭の中を一つずつ通り過ぎていった。村の、働ける手のほとんど全部だった。
レーヴェンは真鍮の砂時計を懐から出し、板の縁に置き、返した。
その一瞬だけ、砂の落ちる乾いた音が、板の前に聞こえた気がした。
【グランゼ辺境 宿場テラ 申告台、月の十八日の夕】
手持ち …… 銀貨二百四十七枚、銅貨十六
共有財布 …… 銀にして千二百五十九枚分(銭の数 千二百八十六枚/うち千枚分はレイ・ヴァルデの預り)
申告件数 …… 三百二十件(うち労賃百二十八件)
人口 …… およそ二百四十六人(兵は数えない)
売掛 …… 一件(ヴァルデ男爵家/銀貨二十二枚)
未払い …… 二件(アルド・ヴァルデ/銀貨十三枚と銅貨二、グレン・ヴァルデ/銀貨二十四枚)
公示 …… グランゼ辺境伯の位(名義 オットマー・グラウ/代理 レーヴェン)/申告値 銀にして一万枚分・月の流通税 銀にして百枚分(当村へ納付/初月分 納付済み)
公示 …… 位の売買 一件(買主 オットマー・グラウ/代理 レーヴェン/銀にして千枚分/月の九日 テラ申告台)
公示 …… 人別改め 一件(辺境伯 代理 レーヴェン/札 二百四十四枚/受けぬ者 五人/月の十日)
公示 …… 徴発の償い(布告済み/台帳に載る物は申告値どおり共有財布から償う)
公示 …… 徴発の照合 一件(隣領徴税官 ハウゼン/王国規定により/裏書つき)
公示 …… 徴発 十一件(返却 一件/支払い 十件・銀にして二百七枚分/月の十八日 テラ申告台)
公示 …… 遊休地一角(申告者 オットマー・グラウ/代理 レーヴェン/申告値 銀貨六枚)
公示 …… 辺境伯の布告 写し 一通(夫役/来月朔日より)
公示 …… 域内証文の公示義務(布告済み)
公示 …… 証文一件(ヴァルデ男爵家宛て/申告値 銀貨百八十枚/取り立てず・利も取らない)
公示 …… 証文一件(申告者 ヨエル/貸主 不明/証文上の名 グラウの十七)
公示 …… 取り消しの届 一件(ラウル・ヴェッセ/写しの名義の否認)
公示 …… 公示台帳の写し 十通(裏書=写した者の名・日・場所)
公示 …… 証文 三十一件(申告値 零/買主 本人/買い戻し済み)
公示 …… 買値 一件(グランゼ辺境伯の位/成立/朔日 テラ申告台)
公示 …… 監査方の報告 写し 一通(イルマ・ドレーゼ/先月の十日 テラ申告台/裏書つき)
公示 …… 西部詰所の布告 写し 一通(朔日施行/三条)
公示 …… 台帳建ての勘定(布告済み/一枚分=規定の重さの銀。ヴァルデ鋳は八割で受ける)
公示 …… 分銅の照合 一件(隣領徴税官 ハウゼン/王国規定により/裏書つき)
公示 …… 弁済 一件(借主 セリーヌ・ヴァルデ/貸主 中央商業ギルド連合/銀にして千枚分/朔日 西部詰所/貸主承諾つき)
保有証文 …… 一件(ヴァルデ男爵家宛て/額面 銀貨百八十枚/利は取らない)
預り …… 七十五件(銀にして千百二十三枚分/うち一件 レイ・ヴァルデ 銀にして千枚分/うち一件 亭主の遺した銭・返すために貯めた分)
特記───「人は、載らぬ」




