↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
54/60

第54話「相場」

【グランゼ辺境 宿場テラ 申告台、月の十五日の朝】

手持ち …… 銀貨千二百四十七枚、銅貨十六(うち銀貨千枚は位の売却分)

共有財布 …… 銀にして九十八枚分(銭の数 百二十五枚)

申告件数 …… 三百十七件(うち労賃百二十八件)

人口 …… およそ二百四十六人

売掛 …… 一件(ヴァルデ男爵家/銀貨二十二枚)

未払い …… 二件(アルド・ヴァルデ/銀貨十三枚と銅貨二、グレン・ヴァルデ/銀貨二十四枚)

未払い …… 辺境伯 オットマー・グラウ(徴発 九件/銀にして二千九百六十一枚分/うち二千八百枚分は代官邸の倉および遊休地一帯・レイ・ヴァルデ宛て)

公示 …… グランゼ辺境伯の位(名義 オットマー・グラウ/代理 レーヴェン)/申告値 銀にして一万枚分・月の流通税 銀にして百枚分(当村へ納付/初月分 納付済み)

公示 …… 位の売買 一件(買主 オットマー・グラウ/代理 レーヴェン/銀にして千枚分/月の九日 テラ申告台)

公示 …… 人別改め 一件(辺境伯 代理 レーヴェン/札 二百四十四枚/受けぬ者 五人/月の十日)

公示 …… 徴発の償い(布告済み/台帳に載る物は申告値どおり共有財布から償う)

公示 …… 域内証文の公示義務(布告済み)

公示 …… 証文一件(ヴァルデ男爵家宛て/申告値 銀貨百八十枚/取り立てず・利も取らない)

公示 …… 証文一件(申告者 ヨエル/貸主 不明/証文上の名 グラウの十七)

公示 …… 取り消しの届 一件(ラウル・ヴェッセ/写しの名義の否認)

公示 …… 公示台帳の写し 五通(裏書=写した者の名・日・場所)

公示 …… 証文 三十一件(申告値 零/買主 本人/買い戻し済み)

公示 …… 買値 一件(グランゼ辺境伯の位/成立/朔日 テラ申告台)

公示 …… 監査方の報告 写し 一通(イルマ・ドレーゼ/先月の十日 テラ申告台/裏書つき)

公示 …… 西部詰所の布告 写し 一通(朔日施行/三条)

公示 …… 台帳建ての勘定(布告済み/一枚分=規定の重さの銀。ヴァルデ鋳は八割で受ける)

公示 …… 分銅の照合 一件(隣領徴税官 ハウゼン/王国規定により/裏書つき)

公示 …… 弁済 一件(借主 セリーヌ・ヴァルデ/貸主 中央商業ギルド連合/銀にして千枚分/朔日 西部詰所/貸主承諾つき)

保有証文 …… 一件(ヴァルデ男爵家宛て/額面 銀貨百八十枚/利は取らない)

預り …… 七十四件(銀にして百二十三枚分/うち一件 亭主の遺した銭・返すために貯めた分)


特記───「九十八枚分」


その朝、共有財布の木箱は、銀にして九十八枚分しか残っていなかった。持ち上げてみると、重さより先に軽さのほうが手に来た。


前日――月の十四日――峠でまた二件。麦粉の樽と、干し魚の束。償いは銀にして二十八枚分、また一行が控えに増えただけだった。


外は、夜明けの白い光に変わったばかりだった。市の立つ広場から、いつもなら聞こえるはずの荷車の軋みも、天秤の分銅を並べる音もしなかった。代官邸の方角からだけ、兵の交代を告げる乾いた足音が規則正しく響いていた。


板間の空気は、いつもより冷たかった。窓から差す朝の光の中で、卓の上の分銅が影を落としている。木箱の蓋を開けたまま、フィーネが銀貨の隙間から底の木目を覗き込んでいた。


老爺が、卓の隅の椅子に腰かけたまま煙管を吹かしている。灰が卓の端に落ちても、拭う様子はなかった。誰よりも早く来て、誰よりも何も言わない朝だった。


「あと、これだけ」フィーネが木箱を傾けた。銀貨が縁に寄って、乾いた音を立てる。「四日前の、四割にも届かない」


「兵は六十人だ」ソルが控えの束を膝に置いたまま言った。木の棒の先で、頁の端を弾く。「今のままなら、あと二日か三日で底が抜ける」


「未払いは、九件」フィーネが控えを繰りながら読み上げた。「代官邸の倉。宿。麦と干し肉。薪。峠の荷が五件。合わせて、銀にして二千九百六十一枚分」


「向こうは、まだ払う気配もない」宿の主が呟いた。「払わない紙が、九枚積み上がっただけだ」


「積み上がるだけで終わるかは」ソルが答えた。「まだ、分からん」


フィーネが木箱の蓋を閉じ、その上に手を置いた。掌が、木目の割れ目に沿って止まる。


「一年前なら」フィーネが呟いた。「こんな数字、見るだけで胃が縮んだ。今は、縮む前に手が動く」


その手つきは、控えを繰るのに慣れきっていた。


自嘲でも、誇りでもない声だった。ただ、変わった自分を確かめているような言い方だった。


アーヴィンが、膝の上で指を組み替えた。組んだ指の関節が、いつもより白い。


「償うのを――」言いかけて、一度止まる。二晩前、同じ言葉を途中で止めたのと同じ場所だった。今日は、そこから先へ進んだ。「償うのを、やめませんか。取られた者には気の毒ですが、村が潰れては、誰も守れません」


誰も、すぐには答えなかった。窓の外で、兵の焚き火の燃え残りが小さく爆ぜる音がした。


宿の主が、鍵束を握ったまま口を開いた。気まずそうに、視線を卓の木目に落としたままだった。


「……俺は、もらった」ぼそりと言う。「もらった奴が言うのもなんだが」一拍置いて、顔を上げた。「財布が空になったら、次に取られた奴は、もらえねえ」


敵意で村を睨んでいた男の口から、村の側の心配が出た。宿の主自身、その落差に戸惑っているような顔だった。


「もらったなら」フィーネが筆の尻で秤の縁を軽く叩いた。「今度は、次に取られる誰かの分を心配する番でしょう」


宿の主は言い返さず、鍵束を握った手をひときわ強く握り直した。


「わたしは……」ゲオルクが、小さな声で切り出した。箒を握る手が、いつもより固い。「値を書き直せば、償いも減るのでしょうか」


「書き直せば」ソルが即座に返した。「次に取られたとき、その値しか戻らん」


ゲオルクは口をつぐんだ。書き直すという答えが、書き直した先の自分をどれだけ痩せさせるか、想像できてしまったという顔だった。


フィーネが控えを開き、何かを書こうとして、筆を止めた。数字を並べれば並べるほど、償い続けろとは言いにくくなる。それが分かっていて、それでも言葉を探している顔だった。筆先が帳面の上で、行き場を失ったまま止まっていた。


「私は」フィーネがようやく口を開いた。「償い続けるべきだと、思う。思うけど」


そこで止まった。続きを、数字が言わせなかった。控えの余白に、意味のない線を一本引いて、それだけで手を止めた。


「兵が六十だろうが」ヴォルクが柱に寄りかかったまま低く言った。「峠の改めだけでも潰せば――」


言葉が、途中で止まった。自分で止めた声だった。柱から背を離し、腕を組み直す。それ以上は続けなかった。


板間の全員が、それぞれ違う方向を見ていた。誰かが正しくて、誰かが間違っているという形の対立ではなかった。財布の底を見た者が、それぞれの持ち場から同じ穴を覗き込んでいるだけだった。


窓の外の霜は、まだ溶けきっていない。土に残った兵の足跡の形だけが、朝の光の中でくっきりと浮いていた。


フィーネが木箱の蓋を閉じる、乾いた音だけが響いた。板間の空気が、その音の分だけ重くなった気がした。


「払うのをやめた日」俺は言った。「この台帳は、奪われたことになる」


板間が静まった。


「峠を越える荷は、載せた値が必ず戻ると信じて来る」続けた。「村の中の物も、同じだ。取られて戻らないなら、載せる意味がない。載せる者がいなくなれば、市は閉じられなくても、死ぬ」


説教のつもりはなかった。ただ、この台帳が何のために立っているかを、もう一度並べただけだった。


「向こうは、市を閉じられない」ソルが木の棒で控えの表紙を軽く叩いた。「王命の特許だからな。だが、市を殺すことはできる。売る者も買う者もいなくなれば、閉じるまでもない」


アーヴィンが、組んだ指をほどいた。反論はしなかった。ただ、自分の言葉が板間の全員を怖がらせただけで、答えにはならなかったことを、静かに受け止めている顔だった。


老爺が、煙管の雁首を卓の縁に軽く叩いた。灰が落ちる音だけがして、言葉は最後まで出てこなかった。それでいい、という顔だった。


ゲオルクが箒の柄を握り直した。何か言いたげに口を開きかけたが、結局は箒を抱え直しただけで、椅子に座り直した。


宿の主が、鍵束を握った手を緩めた。腹を決めた、という表情ではない。ただ、この場で自分が言い返す番ではないと悟った顔だった。


そのとき、戸口が勢いよく開いた。冷たい風が、板間の魔灯石の光を一瞬揺らした。


「隣領の役人だ」ダンが息を切らして言った。「鼻眼鏡の」


特記───「相場」


昼過ぎの広場は、市の喧噪が半分止まったような静けさだった。値切る声も、荷車の軋みも、いつもより間遠になっている。広場に居合わせた者たちが、手を止めて申告台のほうへ耳を傾けていた。


申告台に着いたとき、ハウゼンはすでに帳面を開いていた。


痩せた体に、旅装のまま。鼻眼鏡の縁が、朝の光を細く弾いている。傍らには革袋がひとつ、規定の分銅を並べる巻尺がその脇に置かれていた。


「隣領徴税官、ハウゼンと申します」抑揚の薄い声で名乗った。「定期の照合に参りました。境界一帯の徴収記録との突合、その定めに基づいてでございます」


兵がいることにも、位の名義が変わったことにも、感想はなかった。用件だけを述べる声だった。


ソルが控えを開き、台の上に置く。ハウゼンは自分の分銅を袋から出し、村の鉄の分銅の隣に並べた。真鍮と鉄が、朝の光の中で違う色をしていた。控えの頁の折り目には、これまで何度も繰られた跡が白く筋になっている。ハウゼンは持参の控えを開き、村の控えと突き合わせながら、数値を自分の帳面の隅に書き添えた。誰に見せるためでもない、記録のための数字だった。


そこへ、ミラが荷紐を握ったまま駆け込んできた。


「峠の脇の牧、飼い葉を持ってかれた」息を弾ませて言う。「兵の馬の分だとよ」


新しい木札は、まだどこにも打たれていなかった。だが取られた事実は、もう動かない。


「値は」ソルが木の棒を控えに構えた。


「銀にして、二十七枚分」ミラが答えた。「牧の主が、自分で書いた値だ」


ソルが控えの余白に、新しい一行を引いた。徴発は、これで十件になる。フィーネが分銅を秤の皿に載せ、財布から銀貨を数えて牧の主の手に渡した。銀貨の縁が皿に触れる、軽い音が続いた。木箱の底が、また一段浅くなった。


牧の主は、受け取った銀貨をしばらく見つめてから、無言で懐にしまった。礼も、恨み言も口にしなかった。ただ、荷馬の手綱を握り直し、牧のほうへ戻っていった。その背を追う視線は、どこにもなかった。


ハウゼンは、その一連の手順を眺めていた。口は挟まなかった。控えを一枚めくり、巻尺の先で行を追う。歩測するような、一定の速さだった。麦の行、薪の行、代官邸の行。巻尺の先が止まるたびに、鼻眼鏡の奥の目だけが動いた。


ゲオルクが、遠巻きにその様子を見ていた。箒を担いだまま、口の中で何かを数えているような唇の動きだった。声には出さなかった。


「徴発、十件」ハウゼンが読み上げた。「未払い、銀にして二千九百八十八枚分――そのうち二千八百枚分は、代官邸の倉および遊休地一帯」


「兵のための徴発は」俺は聞いた。「王国の規定では、どう償うことになっている」


ハウゼンは帳面から顔を上げた。


「規定により」乾いた声だった。「兵のための徴発は、後日、その地の相場をもって償うもの、とされております」


一拍、置いた。鼻眼鏡を指の背で押し上げる。


「この地の相場は」続けた。「……こちらにしか、書いてございません」


板間から連れてきたソルの控えを、ハウゼンは一行ずつ巻尺の先でなぞった。麦の値、薪の値、飼い葉の値。この村が自分たちの手で決めた数字が、そのまま王国の物差しに引き上げられていく音を、その場の全員が聞いていた。


「照合いたしました」ハウゼンは筆を執り、控えの端に自分の名と日付を書き入れた。「相違ございません」


その一行が、紙の上にしばらく残った。集まっていた村人の間から、押し殺したような息が漏れた。誰かがようやく、詰めていた息を吐いたのだった。


「辺境伯が」ヴォルクが低く割って入った。「そんな規定は知らんと言ったら」


ハウゼンは筆を置き、顔を上げた。


「王国の規定です」抑揚のない声だった。「辺境伯の規定ではございません」


ヴォルクが、腕組みをほどきかけて、また戻した。柄に添えていた指の力が、わずかに緩んだのが分かった。それ以上、言葉を継ぐ者はいなかった。


「取り立ては」ハウゼンが続けた。「私の役目ではございません。照合し、記録し、王都へ上げる。それだけでございます」


兵の一人が、湯気の立つ茶碗を運んできた。ハウゼンに差し出す。ハウゼンは軽く頭を下げたが、手には取らなかった。


「規定により」茶碗を見つめたまま言った。「査定の相手方からの供応は、受けられません」


兵は茶碗を持ったまま立ち尽くし、それからそのまま下がっていった。ハウゼンはもう茶碗のほうを見なかった。湯気だけが、しばらく卓の脇に立ち上っていた。


「越境の記録は」ハウゼンが控えを閉じながら言った。「規定により、写しをこちらにも頂戴いたします」


「用意する」ソルが答えた。


ハウゼンは帳面を革袋にしまい、分銅を丁寧に包み直した。真鍮の分銅が布の中で触れ合い、小さく澄んだ音を立てる。長居をする男ではない。用が済めば、すぐに去る。それも規定のうちだった。


去っていく背中を見送りながら、フィーネが呟いた。


「あの人が来ると、いつも、うちの言い分が一段重くなる」


「重くなったんじゃない」ソルが控えを閉じた。「初めから、そこにあった重さだ。認めてもらっただけだ」


宿の主が、鍵束を鳴らしながら聞いた。


「それで、あの家宰は払うのか」


「払わせるための紙じゃない」ソルが答えた。「払わなかったという事実を、動かなくするための紙だ」


宿の主はそれ以上聞かず、鍵束を握り直して申告台の脇へ戻っていった。


ゲオルクが、箒を担いだまま近づいてきた。


「あの……」掠れた早口で言う。「うちの麦の分は、本当に戻ってくるのでしょうか」


「麦の分は、もう戻っている」俺は答えた。「戻らないのは、向こうの名のほうだ」


ゲオルクはよく分からないという顔をしたが、それ以上は聞かずに頭を下げ、店のほうへ戻っていった。


フィーネはそれ以上は言わず、控えを胸に抱え直した。日は、すでに中天を過ぎようとしていた。


アーヴィンが、遠くからその一部始終を見ていた。控えの端を指でなぞりながら、ぽつりと言う。


「規定というものが、こちらの味方をする日が来るとは、思っていませんでした」


「味方じゃない」ソルが答えた。「向こうに都合が悪いだけだ。次は、逆に牙を剥くかもしれん」


「写しを、配る」控えを閉じながら言った。「枚数を決めよう」


特記───「あの名前で、買わせる」


夕方までに、写しの行き先と運び手を決めた。誰がどの道を行くかは、ミラとダンが引き受けた。残るのは、書く仕事だけだった。


夜、フィーネの納屋の二階には、蝋の匂いが満ちていた。梯子の下から、干し草の匂いが微かに上ってくる。魔灯石の白い光の下で、セリーヌが羽根筆を握っている。紙の端を指で一度揃えてから、控えを写し始めた。羽根筆の穂先が紙を擦る音だけが、しばらく部屋を満たしていた。


「五通、追加する」ソルが宛先を数え上げた。「王都の財務府――ベルトラン宛て。マレア。ミラの隊商。西部詰所」


「あと一通は」フィーネが聞いた。


「北だ」ガンツが石粉のついた指で、卓の上の地図をなぞった。「石工衆の伝手を使う。グラウの山の、隣の谷だ」


「危なくないの」フィーネが眉を寄せた。手に持った筆の先が、卓の上で止まっている。「あの山の、お膝元でしょう」


「隣の谷は」ガンツが答えた。「まだ、グラウの手が届いてない。石を運ぶ道が、違う」


石粉のついた指が、地図の谷筋をもう一度なぞった。確かめるような、慎重な動きだった。


ガンツはそれ以上説明しなかった。聞き返す声は、なかった。


「十通も」フィーネが筆の尻で帳面を叩きながら言った。「蝋も紙も、只じゃないのよ」


「安く済ませて」ソルが木の棒を控えに戻した。「後で読めなかったら、意味がない」


フィーネはそれ以上は言い返さず、蝋の塊を蝋燭の火にかざした。溶ける端から、甘い匂いが立った。


セリーヌの筆が、未払いの行を写す途中で止まった。辺境伯の名を書く欄だった。しばらく紙を見つめてから、口を開いた。


「……この名を、わたくしが書くのですね」


それだけだった。誰かに答えを求めた声ではなかった。俺も、それ以上は聞かなかった。


連合の駒として、この名へ渡されるはずの位を抱えていた手が、今はその名を、払わない者として書き記している。その皮肉を、口には出さなかった。


前の世で、力のある者が、市が運んでいたものを力で取ったことがあった。取られた倉には、次の荷が来なかった。取った者は、空の倉と、空の道を抱えて終わった。


セリーヌの筆が、また動き出した。裏書には、自分の名と日付、それに「テラ申告台にて」の一行を添えた。同じ手順を、五枚分。麦の値も薪の値も、未払いの行も、寸分違わず写し取っていく。


「これで、写しは十通」フィーネが帳面の控えを数え終えた。「一つの村が持つには、多すぎる数よね」


「多いんじゃない」ソルが言った。「一枚しかない紙が、いちばん危ない。十枚あれば、どれか一枚が焼かれても残る」


「共有財布は」フィーネが控えを見ながら言った。「銀にして七十一枚分」


「写しを配っても」ソルが木の棒を控えに置いた。「財布は増えん」


「知らせが増えるだけ」フィーネが呟いた。「知らせが、腹の足しになればいいけど」


その軽口に応じる声はなかった。応じられるほど、場は軽くなかった。


セリーヌの筆先が、蝋燭の芯の音に合わせて動きを止めた。指先の墨が、紙の端に薄い染みを作っている。それでも手を止めず、次の一枚へ向かった。


納屋の二階に、しばらく沈黙が落ちた。窓の外では、兵の焚き火がまだ小さく赤い。


俺は懐から、革袋をひとつ取り出した。手に持つと、思ったより重い。掌に食い込む革紐の感触が、位を売ったあの日と同じだった。位を売った、あの千枚だった。


「これを、財布へ入れる」


フィーネの筆が止まった。ソルが顔を上げる。ガンツも、丸めかけた地図から手を離した。


「その千枚は」フィーネが聞いた。「位を売った金でしょう。次に何かあったとき、それがなくなってるのよ」


俺は答えなかった。革袋の重さを、もう一度、両手で確かめただけだった。革の縫い目が、掌の皮膚に浅く食い込んでいる。


「……借りにはならんな」ソルが言った。「返す当てがあるなら、それは」


「預りだ」俺は答えた。「返してもらう当ては、ある」


当ての中身は言わなかった。フィーネはまだ納得しきれない顔をしていたが、それ以上は問い詰めなかった。ソルもそれ以上は聞かず、木の棒で控えの新しい行を示した。


フィーネが筆を執り、その行を書き入れた。


――預り……レイ・ヴァルデ/銀にして千枚分。


袋の口を開け、銀貨を木箱に移していく。乾いた音が、重なって続いた。一枚ごとに積み上がる音の高さが変わり、木箱の底が銀に隠れたところで、最後の一枚が落ち、音は不意に止んだ。


「これで」フィーネが木箱の蓋に手を置いたまま言った。「五日は、越せる」


「五日じゃない」俺は言った。「取らせるだけ、取らせろ。取った分だけ、あの名前で買わせる」


ガンツが地図を丸め、封をする蝋を垂らした。北へ向かう写しの蝋は、まだ柔らかかった。


【グランゼ辺境 宿場テラ 申告台、月の十五日の夜】

手持ち …… 銀貨二百四十七枚、銅貨十六

共有財布 …… 銀にして千七十一枚分(銭の数 千九十八枚/うち千枚分はレイ・ヴァルデの預り)

申告件数 …… 三百十七件(うち労賃百二十八件)

人口 …… およそ二百四十六人

売掛 …… 一件(ヴァルデ男爵家/銀貨二十二枚)

未払い …… 二件(アルド・ヴァルデ/銀貨十三枚と銅貨二、グレン・ヴァルデ/銀貨二十四枚)

未払い …… 辺境伯 オットマー・グラウ(徴発 十件/銀にして二千九百八十八枚分/うち二千八百枚分は代官邸の倉および遊休地一帯・レイ・ヴァルデ宛て/ハウゼン照合・裏書つき)

公示 …… グランゼ辺境伯の位(名義 オットマー・グラウ/代理 レーヴェン)/申告値 銀にして一万枚分・月の流通税 銀にして百枚分(当村へ納付/初月分 納付済み)

公示 …… 位の売買 一件(買主 オットマー・グラウ/代理 レーヴェン/銀にして千枚分/月の九日 テラ申告台)

公示 …… 人別改め 一件(辺境伯 代理 レーヴェン/札 二百四十四枚/受けぬ者 五人/月の十日)

公示 …… 徴発の償い(布告済み/台帳に載る物は申告値どおり共有財布から償う)

公示 …… 徴発の照合 一件(隣領徴税官 ハウゼン/王国規定により/裏書つき)

公示 …… 域内証文の公示義務(布告済み)

公示 …… 証文一件(ヴァルデ男爵家宛て/申告値 銀貨百八十枚/取り立てず・利も取らない)

公示 …… 証文一件(申告者 ヨエル/貸主 不明/証文上の名 グラウの十七)

公示 …… 取り消しの届 一件(ラウル・ヴェッセ/写しの名義の否認)

公示 …… 公示台帳の写し 十通(裏書=写した者の名・日・場所)

公示 …… 証文 三十一件(申告値 零/買主 本人/買い戻し済み)

公示 …… 買値 一件(グランゼ辺境伯の位/成立/朔日 テラ申告台)

公示 …… 監査方の報告 写し 一通(イルマ・ドレーゼ/先月の十日 テラ申告台/裏書つき)

公示 …… 西部詰所の布告 写し 一通(朔日施行/三条)

公示 …… 台帳建ての勘定(布告済み/一枚分=規定の重さの銀。ヴァルデ鋳は八割で受ける)

公示 …… 分銅の照合 一件(隣領徴税官 ハウゼン/王国規定により/裏書つき)

公示 …… 弁済 一件(借主 セリーヌ・ヴァルデ/貸主 中央商業ギルド連合/銀にして千枚分/朔日 西部詰所/貸主承諾つき)

保有証文 …… 一件(ヴァルデ男爵家宛て/額面 銀貨百八十枚/利は取らない)

預り …… 七十五件(銀にして千百二十三枚分/うち一件 レイ・ヴァルデ 銀にして千枚分/うち一件 亭主の遺した銭・返すために貯めた分)


特記───「あの名前で、買わせる」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。