第02話「視える値段」
【ヴァルデ家 送り状・道中控え】
発:ヴァルデ本邸 着:アウレリア王国東部辺境 グランゼ
随行:御者一(雇用、到着まで)
支給:路銀 銀貨換算で二週間分/辞令一式
道程:北回り街道、およそ十日の行程
グランゼ辺境概況(辞令より)
人口 …… 希少 税収 …… ゼロ
特記───「当面の援助はせぬものとする」
街道脇の一本杉が、幌の隙間を通り過ぎていく。
その幹に、文字が張りついた。
『杉(一本)/真価:材木として上等/世評:ただの道しるべ』
また視える。頼んだ覚えもないのに、目に入るものへ次々と値札が浮かぶ。木にも石にも、道端の轍にさえだ。世界そのものが帳簿になって、俺一人にだけ開かれているような具合だった。
覚醒したのは、昨日、鑑定の儀の広間でのことだ。兄の肩に浮かんだ光の一行を見た、あの瞬間から、この目は勝手に動き続けている。まだ一日と経っていない力に、使い方の心得も、消し方の作法もない。厄介なのは、これが俺の意思と関係なく動くことだった。見たくない時にも視えてしまう力は、武器である前に、まず面倒だ。
辺境に着く前に、これが人前で不用意に発動したらどうなる。「無能」の次に待っているのは、たぶん「気味の悪い三男」という新しい値札だ。今のうちに、輪郭だけでも掴んでおきたかった。
なぜ、今なのか。十七年、何の才も示さなかったこの身に、鑑定の儀のまさにその瞬間、こんな目が宿った理由は分からない。前世の知識が、この世界の何かと噛み合ったのか。それとも、ただの偶然か。手がかりらしい手がかりは、今のところ何一つない。
幌馬車の荷台は、二人がやっと向かい合える広さしかない。座面の革は使い込まれて、鞄と同じ匂いを放っている。前方の御者台では、家から借り出された年配の男が手綱を握り、鼻歌にもならない息を吐いていた。行き先が行き先だ。陽気に振る舞う理由は、この男にもないのだろう。
流されるだけでは能がない。俺は座り直し、今度は自分から目を凝らしてみた。狙うのは、前を行く隊商の荷馬車だ。
最初は、何も浮かばなかった。念じるほど遠ざかっていく感覚だけがあり、苛立ちが募る。前世でも、勘所を掴むまでに人一倍の回り道をした覚えがある。急くほど、数字は逃げるものだ。
肩の力を抜き、ただ眺めることに切り替えた瞬間――一拍置いて、積まれた麻袋のひとつひとつに、中身の質と隊商が申告するだろう値の見積もりが重なって浮かんでは消えていった。
大半は大差ない。だが列の一番端、小ぶりな袋だけ数字の開きが目立って大きい。質を偽り、安く申告する気の荷だ。理由までは、目は教えてくれない。すれ違いざま、荷馬車の御し手がこちらへ会釈を寄越した。人の好さそうな顔だった。あの袋の中身を、この男自身が知っているのかどうか、そこまでは目にも分からない。
隊商が過ぎ去ると、今度は街道沿いの畑に目を移した。実りの薄そうな畝で、農夫がひとり屈み込んでいる。目を凝らしても、そちらは沈黙したままだった。念じても駄目、放っても駄目。遠すぎるのか、それとも、こちらに気づいてすらいない者には、この目も素通りしてしまうのか。
試しに、道端の石垣にも目を向けてみる。今度はすぐに応えが返った。古びて見えても、積み方には存外手が込んでいるらしい。物は、どれだけ離れていても律義に答える。人だけは、勝手が違うようだった。まだ、この力の呼吸を掴みきれていない証拠だった。
なるほど、力の使いどころにはコツがいるらしい。掴もうとするほど逃げ、力を抜いた瞬間に落ちてくる。前世で扱っていた市場の相場と、似たようなものだと思う。
ふいに、遠い記憶が滲んだ。大崩壊の直後、まだ再建の途上にあった頃、俺たちは価値を測る術そのものを失っていた。帳簿の数字は誰も信じず、誰もが持ち物を実際より高く見せようとし、何もかもが疑わしくなった時代だ。信用という言葉そのものが、しばらく誰の口からも聞かれなくなった。
あの頃に比べれば、この目はまだ親切な部類だと思う。少なくとも、嘘はつかない。
試しに、間近にいる御者の背にも向けてみる。畑の農夫とは違い、今度は迷いなく応えが返った。至近距離だからか、それとも隣に座る者を無意識に気にかけていたからか――理由はまだ判然としない。
『御者/真価:手堅い手綱捌き/世評:ただの雇われ人足』
長年、手を抜かずにやってきた人間の値だ。だが世間はそれを、ただの雇われとしか見ない。俺は密かに息を吐いた。この目は、値だけを教える。なぜその値になったかは語らない。まして、この先に何が待っているかなど、なおのこと知らせてはくれない。
値札は視える。危険は視えない。
「坊っちゃん」
御者の声に、我に返った。
「さっきから、外ばかり睨んで。気分でも悪いんですかい」
「いや」俺は首を振った。「景色が、思ったより悪くないと思ってね」
「こんな道のどこがです」御者は肩越しに笑った。「畑もろくにない土地ですぜ、この先は」
軽口だったのだろう。だが俺は、その一言に少し引っかかった。目に見える収穫だけで、土地の値を決めつける。世間はいつも、そうやって値札を貼る。
「御者殿は、長いのか。この道は」
「かれこれ十年ばかりですかねえ」男は苦笑いした。「若様の顔を拝むのは、今日が初めてですが」
「三男は、あまり表に出ないからな」
「そりゃそうでしょうよ」御者は前を向いたまま、それ以上は続けなかった。踏み込んでいい話と悪い話の境目を、この男はちゃんと弁えている。
「グランゼには、行ったことが」
「境まで、荷運びで二度ばかり」御者は手綱を握り直した。「村の中までは、さすがに」
「魔物か」
「魔物も、道の悪さもね」御者はちらりとこちらを窺った。「若様、お一人で大丈夫なんですかい」
「大丈夫かどうかは、着いてから決める」
そのとき、前方から声が届いた。怒声だ。複数、重なっている。
御者の顔から、笑いが消えた。
街道が緩く曲がる先、土埃の舞う中に人影が重なっていた。
御者が手綱を絞り、馬車が軋みながら止まる。俺は幌の隙間から様子を窺った。
男が五人、一人を取り囲んでいる。
遠目にも、事の次第は明らかだった。多勢に無勢。得物を握る手つきには、遊びと悪意が半分ずつ滲んでいる。
囲まれている方は、頭一つ大きい体格をしていた。垂れた獣の耳、指先まで伸びた鋭い爪――獣人だ。着ている物は継ぎだらけで、背負った荷の端から柄の折れた剣が覗いている。傍らには、割れた酒瓶が転がっていた。
よく見れば、その佇まいには妙な律義さがあった。着崩れた上着の下、腰に帯びた革帯の締め方だけは、やけに几帳面だ。荒くれた身なりの奥に、かつて型を仕込まれた者の名残が透けて見える。
「宿代を踏み倒した上に、盗みまで働いたそうじゃねえか」
囲む側の一人が、下卑た声で言った。得物を持つ手つきに、堅気の緊張はない。因縁のための因縁だと、遠目にも知れた。おおかた、宿の亭主から幾らか握らされて、体のいい厄介払いを請け負ったのだろう。
「盗んじゃいねえ」
獣人の声は低く、短い。弁解する気配すらなかった。それがかえって、囲む男たちの笑いを誘っている。
一人が背後から棍棒を振り上げた。乾いた音が続けて響く。獣人は爪で受け、体をひねって躱すが、数の利には抗えない。肩に一撃、続けて脇腹に蹴りが入り、片膝が地面へ落ちた。
「止めた方が」御者が声を潜めた。「巻き込まれちゃかないません」
分かっている。俺には割って入る力なんてない。剣も魔法も、この身には何一つ宿っていない。前世で培った知恵も、殴られている男の前では、なんの役にも立たなかった。
握った拳の中で、苛立ちだけが行き場を探していた。棍棒が、もう一度振り上げられる。
その一撃が落ちる寸前だった。
片膝をついたまま、獣人の姿勢が変わった。棍棒を握る腕を下から掴み、そのまま体ごと引き倒す。倒れた男の顎へ拳が跳ね、二人目の得物は爪の一閃で根元から弾け飛んだ。残る三人が怯んだ隙に、獣人は一人の襟首を掴み、地面へ叩きつけた。
十を数えるより早く、立っているのは獣人一人だけになっていた。防戦に見えていたものは、間合いを計るための我慢でしかなかったのだと、そこでようやく知れた。
男たちは呻きながら、我先にと逃げていく。土埃の中に、獣人が肩で息をしながら立っていた。切れた口の端から流れる血の匂いが、埃っぽい空気に混じる。それでも、その足取りに揺らぎはない。
折れた棍棒の破片が、風もないのに乾いた土埃と一緒に舞い落ちた。あれほどの数を相手にして、なお息一つ乱すまいとする構えだけは崩れていなかった。
気づけば、俺は馬車を降りていた。目が、勝手に彼へ向いている。土埃の中で視線がぶつかった、その至近距離のせいかもしれない。
一拍置いて、文字が浮かんだ。
『ヴォルク/真価:一軍の将にも足る器/世評:食い詰めの流れ者』
息が止まった。
世間の値は、ゼロに等しい。ただの厄介者、食い詰め者。だが真価は――この数字が正しいなら――一軍を任せるに足る。値札と中身が、これほど食い違う人間を、俺はまだ見たことがなかった。
さっき目に留まった、几帳面な革帯の締め方を思い出す。誰に見せるでもない律義さだ。戦う力も魔法の才も持たず、鑑定の水晶に一度も色づかなかった俺と、根のところは変わらない。中身のどこにも、正しく値を付ける者の目が、これまで届いていなかっただけだ。
頭の奥で、遠い記憶が疼いた。玲の声だ。――抱え込まれた場所で、才は腐る。使われない力は、あってもないのと同じになる。大崩壊の前、あの文明も同じ過ちを重ねていた。使える者を使わず、肩書きだけで人を並べ替えていた。挙句、崩れる時は一斉に崩れた。
これは、俺と同じだ。生まれの値札一枚で、中身を見られることもなく仕舞い込まれる。
「なんだ、坊主」
振り向いたのは、獣人――ヴォルクという名らしい男だった。値を知られたことなど知る由もなく、胡乱な目で俺を見ている。「見世物じゃねえぞ」
「いや」俺は、浮かんだ文字を視界の隅へ押しやった。「見事な腕だと思っただけだ」
「腕っぷしだけは、な」
ヴォルクは唾を吐き捨てるように言うと、折れた剣を拾い上げ、荷にくくり直した。その手つきに迷いはない。何度も繰り返してきた仕草だった。柄には、擦り切れた紋章の跡がある。かつて、どこかの家に仕えていた印だ。今はもう、誰の紋も名乗っていない。
「元は、騎士か」
ヴォルクの手が、一瞬止まった。
「――よく分かったな」
「剣の扱いに、型がある。我流じゃない」
「昔の話だ」ヴォルクは短く言うと、それ以上は語らなかった。触れられたくない古傷なのだろう。俺も、それ以上は踏み込まなかった。
「怪我は」
「これしき」ヴォルクは肩を回し、痛みを確かめるような仕草を見せてから、何でもないというように顎を上げた。「坊主に心配される筋合いはねえよ」
「なぜ、囲まれていた」
「因縁だ。宿の亭主が、俺の面が気に食わなかっただけのことよ」ヴォルクは肩をすくめた。「獣人が金を持ってりゃ、盗んだと決めてかかる連中だ。今に始まったことじゃねえ」
理屈も証拠もいらない、世評だけの断罪。俺の「無能」と、根っこは同じだ。
「名は」
「ヴォルクだ。それがどうした」
「レイ」名乗ってから、続けた。「これから、グランゼ辺境へ行く。もし人手が足りなくなったら、頼みたい」
「雇うつもりか」ヴォルクは片眉を上げ、俺の身なりを上から下まで眺めた。悪くない身なりだが、供も護衛もつかない三男坊。値踏みされているのは、今度は俺の方だった。「悪いが、旦那に払える額じゃ、俺は動かねえぞ」
「今は、路銀すら心もとない」正直に言った。「だから、今日は雇えない」
ヴォルクは、意外そうな顔をした。見栄も張らず、体面も繕わない返事が、予想外だったのだろう。
「――変わった坊主だ」
「グランゼだ。覚えておいてくれ」
ヴォルクは、その名を口の中で一度だけ繰り返した。覚える気があるのかないのか、仏頂面からは読み取れない。
俺はそれだけ言うと、踵を返した。縁というのは、こういう頼りない形で結ばれるものかもしれない。今はまだ、名前と行き先を交換しただけの、ただの通行人同士だ。
馬車に戻りかけた俺の背に、声が飛んだ。
「――礼くらい、言っておくか」
振り返ると、ヴォルクはばつが悪そうに顔を背けていた。
「なぜ礼を言われる。俺は見ていただけだ」
「馬車を止めて、見ていてくれた奴なんぞ、久しくいなかったのでな」
それだけ言うと、ヴォルクは大股で歩き去っていった。振り返りもしない背中を、俺はしばらく目で追っていた。
「坊っちゃん、行きますか」
御者に促され、馬車に乗り込む。座面に腰を下ろすと、さっきまでの土埃の匂いが、まだ鼻の奥に残っている気がした。
一軍の将にも足る器。世界のどこにも、値札を貼り替える気配のない才能だ。
いつか、あの男を雇える身になったら――そう思う自分に、少し驚いた。昨日までの俺は、誰かを拾い上げる側になるなど、考えたこともなかった。無能と断じられ、抱え込まれるだけの側だった俺が、今日は誰かの真価を見定める側に立っている。その落差が、妙におかしかった。
日が傾き始めた頃、街道は緩やかな上りに変わった。木々が減り、代わりに岩肌の目立つ丘が両脇に迫ってくる。畑は疎らになり、やがて完全に途切れた。土そのものが白く塩を吹いている場所さえあった。
遠く、山肌に貼りつくように屋根がいくつか点在している。あれが、辺境に残された最後の人の営みなのだろう。煙突から立ち上る細い煙だけが、そこに人が生きている証だった。
「この辺りから、もう領内ですよ」
御者の声に、外を見た。グランゼ辺境の領境は近い、と言った通り、やがて古びた標柱が見えてきた。
『アウレリア王国 グランゼ辺境 これより』
文字は掠れ、風雨に晒された縁が丸く削れている。長い間、手入れらしい手入れをされていない証拠だ。それでも、この一本の柱の向こうから、俺の領地が始まる。父の采配一つで押し付けられた土地だが、生まれて初めて「自分のもの」と呼べる場所だった。
標柱の先で、街道が二つに分かれている。一つは、俺たちがこのまま進むべき道――多少荒れてはいるが、轍の跡もはっきりした道だ。
もう一つは、道と呼ぶのもためらわれる代物だった。
苔むした石畳が、雑草の間から覗いている。道標は朽ち果て、彫られていたはずの文字はほとんど読めない。木々が両側から覆いかぶさり、山そのものが、この道を隠そうとしているように見えた。
俺は馬車を降り、その道へ近づいてみた。石畳は、思いのほか幅が広い。荷馬車が二台、余裕をもってすれ違えるほどだ。これほどの造りを持つ道が、ただの獣道であるはずがない。
朽ちた道標に手を伸ばす。表面は苔と湿気で柔らかくなり、指先が沈むように木肌へめり込んだ。それでも芯までは腐っていない。ただの朽木ではなく、かつては人の手で護られていた木だ。
「あっちは獣道です」御者が手綱を引きながら言った。「大昔の街道の成れの果てだとか。今じゃ魔物の巣で、進むだけ無駄ってやつでさぁ」
成れの果て、か。
俺は、朽ちた道標へ目を凝らした。
文字は、浮かばなかった。
代わりに視界の隅で、何かが揺らいだ。文字になりきれない、輪郭だけの気配だ。石畳の下、土に埋もれた部分に、途方もない何かが眠っている――そんな予感だけが、はっきりと胸に残った。
理由は分からない。この目は、値は見せても、なぜとは教えない性分らしい。
「――行かないのか。その道」
「へえ、あんな所」御者は苦笑した。「命が惜しけりゃ、な。魔物も出りゃ、地崩れも起きる。何十年も前に、通る者がいなくなったそうで」
世評は、ゼロどころか負債だ。誰も通らず、誰も値を見ない、忘れられた道。
だが、俺の中で疼くこの予感が正しいなら。
馬車は、迷いなく本道を選んで進んでいく。俺は座面から身を乗り出し、消えていく分かれ道を、見えなくなるまで目で追っていた。
夕陽が、朽ちた道標の影を長く伸ばしている。答えは、まだ何一つ出ていない。
その日の野営は、街道脇の窪地で焚いた小さな火だけが頼りだった。御者が手際よく組んだ薪に、火打ち石の火花が飛ぶ。乾いた枝が爆ぜる音を立てて、じきに小さな炎が根付いた。
山を渡ってくる風が、時折り火を煽った。土埃ではない、湿った緑と土の匂いがする。ヴァルデ本邸の庭では、一度も嗅いだことのない匂いだった。
硬いパンをかじりながら、俺は今日一日で視えたものを、頭の中で並べ直す。
杉の木。隊商の荷。御者の手綱捌き。そして、ヴォルクという名の、ゼロと破格の間で引き裂かれた男。
すべてに共通するのは、世間の値と、本当の値の、埋めようのない隔たりだった。
その隔たりの中に、まだ誰も気づいていない何かが眠っている。今日、道の分かれ目で視えかけたあの気配も、きっと同じだ。
火の向こうで、御者はすでに毛布にくるまり、寝息を立て始めていた。長旅に慣れた男の眠りだ。俺だけが、焚き火の爆ぜる音を聞きながら、まだ頭の中で今日の値札を並べ続けている。
眠れない夜は、前世でもよくあった。あの頃は、数字が勝手に頭の中で動き出す夜だった。だが今は、動かす元手も、動かす仕組みも、まだ何一つ手元にない。ただ、視る目だけがある。
それでも十分だった。実家を発ったのはまだ今朝のことなのに、あの広間の冷たい大理石も、父の乾いた声も、もう随分と遠い。追われた身のはずが、無能の三男坊だった頃より、よほど息がしやすかった。
ヴォルクにも、あの朽ちた道にも、いずれまた関わることになる気がした。理由のない確信だが、悪くない予感だ。
火が爆ぜる音を聞きながら、俺は目を閉じた。
明日には、グランゼの土を踏む。




