第03話「無主の地」
【グランゼ辺境 テラ村 着任記録】
着任:ヴァルデ男爵家三男 レイ・ヴァルデ
随行:御者一(契約は本日まで、着任後ただちに帰路へ)
テラ村概況(辞令・目視による暫定)
人口 …… 届出上「希少」 実数、未確認
税収 …… 届出上ゼロ
代官 …… バルド(本日、村に姿なし)
特記───「詳細は現地にて確認せよ。以上」
歓迎の言葉はなかった。俺を出迎えたのは、戸口の隙間からこちらを窺う視線と、視界の端に滲んだ数字だけだった。
井戸端で水桶を抱えていた女が、目が合った拍子に体を固くした。至近距離のせいか、逃げ場のない一瞬だったからか――一拍置いて、文字が浮かぶ。
『女/真価:働き詰めの手/世評:年貢の頭数』
女は俺の身なりで何かを察したらしく、桶を抱えたまま踵を返し、路地の奥へ消えていった。戸口の陰から覗いていた別の誰かも、同じように値の低い気配だけを残して引っ込んでいく。歓迎どころか、好奇の色さえろくに見当たらなかった。
――ここまで、十日かかった。
北回り街道を、幌馬車に揺られ通しての十日だ。ヴォルクと別れた日を一日目に数えるなら、今日でちょうど十日目になる。道中で視えた値札はどれも、世間の評価と中身の食い違いばかりだった。あの、朽ちた道標の奥に眠る気配も、まだ胸の底に引っかかったままだ。だが今は、目の前の村が最優先だった。
あの男は今頃、どの街道を歩いているだろうか。雇うと決めたわけでもない相手のことを、こうも気にかけている自分に、我ながら戸惑う。だが、あの真価を放っておくのは、あまりに惜しい。惜しいと思うことこそ、この目に与えられた、最初の仕事のような気がした。
標柱を過ぎてからも、道のりは長かった。木々はとうに途切れ、両脇に広がるのは白く塩を吹いた土地ばかりだ。畑らしい畑は見当たらない。荒れた畝の跡だけが、かつて誰かがここを耕そうとした証のように残っていた。
やがて幌の隙間から、屋根の連なりが覗いた。テラ村だ。想像していたよりも小さい。数えるほどの煙突から、心許ない煙が立ち上っている。近づくにつれ、道端に立つ杭が目についた。何かの標識だったのだろうが、文字はとうに読めない。折れて放置された荷車の残骸も、轍の脇に転がったままだった。
村の入り口には、朽ちかけた木の門柱が二本、傾いだまま立っていた。かつては扉もあったのだろう、蝶番の跡だけが残っている。今はもう、誰かを迎えることも拒むこともない、ただの飾りだった。
テラ村は、思っていたよりずっと静かだった。静かすぎた。
鶏の声も、犬の吠える声もない。家畜のいない村を、俺は今日まで見たことがなかった。乾いた土埃が、風もないのに道の上でわだかまっている。軒を連ねる家々は、半分近くが鎧戸を閉じたままだ。開いている店先も、覗く客の姿はない。井戸端に据えられた木桶は縁が欠け、底に罅が走っている。誰かが繕おうとした跡はあるが、それきり放置されたらしい。軒先に吊るされているはずの干し野菜も、麦の穂を編んだ魔除けも、どの家にも見当たらなかった。豊かでなくとも、暮らしの気配というものがあるはずだ。ここには、それがほとんど残っていなかった。
馬車が止まったのは、村の入り口に立つ井戸の前だった。
「ここまでですかい」御者は手綱を置き、荷台を振り返った。「契約は、着くまで。ここから先は、若様お一人で」
分かっていたことだ。だが、いざ言葉にされると、腹の底が少し冷える感覚があった。
「世話になった」
「なに、こっちも路銀分は働きましたんで」御者は荷を下ろしながら、ふと手を止めた。「若様、本当にお一人で大丈夫なんですかい。せめて、村の誰かに話を通してから――」
「案ずるな。ここは、俺の領地だ」
「そういう坊ちゃんに限って、危ない橋を渡るんですよねえ」御者は肩の埃を払いながら、独り言のように零した。「うちの旦那様も、昔はそういう無茶をなさる方でしたが」
「父上が?」
初耳だった。父の若い頃の話など、屋敷で聞いたことは一度もない。
「へえ。もっとも、今の旦那様からは、想像もつかんでしょうがね」御者は苦笑いを浮かべ、それ以上は続けなかった。
御者はしばらく黙っていたが、やがて荷台の隅から、布に包んだ何かを取り出した。
「屋敷の爺さんから、道中これをと。若様には内緒で渡せと言われとりましてね」
包みの中身は、干し肉と、使い込まれた火打ち石だった。屋敷で唯一、俺に茶を運んでくれた老従僕の顔が浮かぶ。あの男だけは、俺の値札を見て態度を変えたことがない。
「持ち帰れば、お前が叱られるのか」
「いんや」御者は初めて笑った顔を見せた。「言われた通りに渡せなんだら、あっしの方が叱られますんで」
――せめて、静かな田舎で骨を休められればと思っていた。だが、この静けさは、休息とは似ても似つかない質のものだった。
御者は最後にもう一度頭を下げると、馬首を返した。轍を辿り、来た道を戻っていく背中は、じきに土埃へ紛れて見えなくなった。
馬車の音が完全に消えると、辺りは奇妙なほど静かになった。風の音すら、この村では控えめだ。十七年間、常に誰かの目があった屋敷の暮らしから、こんなにも呆気なく切り離されるとは思っていなかった。
不安がないと言えば嘘になる。それでも、胸の奥に別の感触があるのも確かだった。誰にも値踏みされない、初めての場所に立っている。それだけで、息の仕方が変わる気がした。
残ったのは、俺一人と、値札の見えない村だった。
村の中心へ向かって歩き出す。
井戸端で網を繕っていた老爺に、声をかけてみた。
「代官どのの館は、どちらに」
老爺は手を止め、俺を上から下まで眺め回した。値踏みする目つきに、身分を確かめる用心深さが滲んでいる。
「……お前さん、新しいご領主かい」
「レイ・ヴァルデだ。今日から、ここの主だ」
「そうかい」老爺はそれだけ言うと、また網へ目を戻した。「館は、村外れの高いとこだ。すぐ分かる。……あそこだけは、いつも立派だからな」
最後の一言に、皮肉とも諦めともつかない響きがあった。
「代官どのは、館に」
「今日は、留守だ」老爺は面倒くさそうに答えた。「月に何度か、街の方へ出かけなさる。羽振りのいい取り巻きと、な」
それだけ言うと、老爺はもう口を閉じ、網に目を戻した。それ以上は聞いても無駄だろうと、直感が告げていた。
村の中心だったと思しき広場には、屋根の落ちた井戸小屋と、使われなくなって久しい共同の竈が残っていた。かつては、ここで誰かが火を囲んでいたのだろう。今は、灰の跡すら風化している。
広場の隅、朽ちかけた掲示板に、色褪せた布告が一枚だけ貼られていた。近づいて読むと、達筆だが尊大な字で、流通税の増額と、無許可の取引を禁じる旨が記されている。差出人の名は、バルド。日付は、半年も前のものだ。それ以来、新しい布告は一枚も貼られていないらしい。何を布告する必要もないほど、村はすでに従順になったということだろう。
歩き出してすぐ、開いたままの店先が目に入った。品数の乏しい棚の奥で、痩せた店主が帳面をつけている。声をかけると、男は顔を上げ、すぐにまた俯いた。
「何か、入り用でしょうか」
「この村のことを、少し聞きたい」
「……お代官様のことは、何も存じません」男は帳面をめくる手を止めないまま、目を伏せて早口に言った。「言えることなど、ございませんもので」
聞いてもいないことを、先回りして拒まれた。よほど、口にするだけで危ういのだろう。
「代官の名は出していないが」
男の手が止まった。しばらくの沈黙の後、絞り出すような声が返ってきた。
「……去年、隣の畑を随分安く取り上げられたとかで。文句を言った男は、次の年から姿を見ません。それだけです」
それだけ言うと、男は帳面に目を戻し、二度と顔を上げなかった。
礼を言って歩き出すと、路地の奥で、母親らしき女が子供の手を引いて家の中へ引っ込むのが見えた。子供の方は物珍しそうにこちらを振り返っていたが、すぐに袖を強く引かれ、戸の内側へ消えていく。
閉まる音が、やけに大きく響いた。
老爺の言った通り、村外れの高台に、周囲から浮くように瀟洒な館が建っていた。白壁、手入れの行き届いた庭木、光を弾く窓硝子。村の家々が土壁と藁葺きばかりだというのに、そこだけ別の土地から切り取ってきたようだった。庭には、水を大量に使う花まで植えられている。この乾いた土地で、それがどれほど贅沢なことか、値札を見るまでもなく分かった。門の脇には見張りらしき男が一人、槍を持たず、退屈そうに欠伸を噛み殺している。厳重な備えが要るほどの脅威が、この村にあるとは思えない。だとすれば、あの槍は誰かに見せるためのものだ。
館の隣には、石造りの倉が二棟並んでいる。扉には、重い鉄の錠前が下がっていた。近くを通りかかった村人は誰も彼も、倉の方角を見ようとしなかった。目を逸らすというより、最初から視界に入れない、という慣れた仕草だった。触れてはいけないものとして、村の暮らしの中に組み込まれているらしい。
試しに、遠目から倉へ目を凝らしてみる。物には、距離は障りにならない。一拍置いて、答えが返ってきた。
届け出の上では、空。だが目に映るのは、隙間なく積まれた荷の気配と、びくとも動かなそうな錠前の重さだった。穀物か、織物か。品目までは判然としないが、量だけは疑いようもない。倉の裏手、雑草に埋もれた広い区画にも目をやると、同じような食い違いが黙って返ってきた。肥沃な地味を、不毛の荒れ地という札の下に隠した土地だ。
喉の奥に、苦いものが上がってきた。怒りではない。既視感だ。
大崩壊の前、俺たちの文明もこうだった。持てる者は数字を偽り、抱え込むほど得をする仕組みの中で、価値を殺し続けた。届出の姿と、真の中身が違う――それは、崩壊した文明の作法と、寸分違わなかった。
ここにも、同じ病が巣食っている。
証拠はない。力もない。だが、この村を覆う静けさの正体は、はっきりと見えた気がした。テラ村は、貧しいのではない。搾られているのだ。
日が傾き始めた頃、俺は村外れの丘に登っていた。歩いて見た端々だけでは、この村の全体像がまだ掴めない。ならば一度、自分の目で測り直したい。そう思っての、単純な足の向きだった。選んだのは、代官の館とは反対側――村を見下ろせる場所だった。
丘の上には、先客がいた。さっきの老爺だ。網ではなく、今度は煙管を吹かしている。
「ここは、眺めがいいでな」老爺は俺を一瞥すると、短く言った。「代官様の館より、よっぽどいい場所だ。……もっとも、誰も気づかんが」
「あの道のことを、知っているか」俺は、山肌に消えていく旧街道の跡を指さした。「街道の入り口で見た、あの朽ちた分かれ道だ」
老爺は煙管を持つ手を止め、しばらく黙り込んでから、ようやく口を開いた。
「あれか。……儂の親父がまだ若い時分は、あそこを商人が行き来しとったそうだ。今の街道の、半分以下の日数で、海の向こうまで届いたとか何とか」
「儂も、爺様から聞いた話でしかねえが」老爺は煙管をふかし、遠い目をした。「あの道の先の町じゃ、テラの塩を積んだ隊商が、毎月のように行き来しとったそうだ。今よりずっと、村にも活気があったと聞く」
「今と比べて、豊かだったのか」
「豊かというより……にぎやかだった、ってだけの話だ」老爺は自嘲するように鼻を鳴らした。「今のテラ村を見りゃ分かるだろう。豊かだった証なんぞ、とうの昔に食い潰されちまった」
食い潰した、という言葉の選び方に、老爺なりの含みがある気がした。だが、それ以上は問わなかった。
「今は」
「魔物が溢れてな。何十年も前に、誰も通らんようになった」老爺は煙管の灰を落とした。「もう、忘れた道だ。忘れられて、ちょうどいいと思っとる奴もおるがね」
「誰が」
老爺は答えず、館の方角へ、黙って顎をしゃくった。
それだけ言うと、老爺は煙管をしまい、丘を下りていった。俺はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
老爺の後ろ姿が、丘の下へ消えていく。振り返りもせず、煙管の煙だけを残していった。あの背中も、村の誰もが纏っている諦めを、同じように背負っている。
だが、諦めと無知は違う。あの男は、この土地の値打ちを、体の芯では覚えている。ただ、それを言葉にする気力を、とうに失っているだけだ。
風が、麓から吹き上げてくる。乾いた匂いの中に、微かに湿った土の気配が混じっていた。遠く、ドラグ山脈の稜線が、夕陽を受けて橙色に染まっている。山肌に刻まれた谷筋の一つが、おそらくドラグ峠――幻の回廊の通り道だ。地図の上でしか見たことのない名を、今はこの目で追える。国境の向こう、東海連合の潮の匂いまでは、さすがに届かないが、その先に何があるのかを、俺は既に知っている。
どこかで、鳥の声が一つ上がった。今日、この村に来て初めて聞く生き物の声だった。塩を吹いた土地の匂いに混じって、青くさい草の匂いが鼻先をかすめた。丘の上だけは、村の沈黙から切り離されているようだった。
眼下に広がるテラ村は、こうして見下ろすと、なおのこと小さかった。数えるほどの屋根、細く伸びる道、その向こうに霞む塩の荒野。世間の目には、これで全てだろう。だが同じ景色が、俺の目には違う輪郭を見せ始めていた。
目を凝らす必要すら、なかった。今日一日、絞るほどに逃げていったはずの力が、ここでは向こうから流れ込んでくるようだった。
まず浮かんだのは、山肌に消える旧街道の続きだ。
『回廊(旧街道)/真価:二大経済圏を最短で結ぶ道/世評:魔物の巣、忘れられた道』
村を挟むように広がる、痩せた土地にも目をやる。
『テラ村一帯/真価:いかなる商業法にも縛られぬ空白地/世評:税収ゼロ、無価値の辺境』
二つの文字が、視界の中で重なった。
捨てられた道と、捨てられた土地。世間はそう呼ぶ。だが真価は、まるで違う言葉を語っていた。一つは、大陸の東西を最短で結ぶ道。もう一つは、どんな商業ギルドの規約も、どんな身分の縛りも届かない、まっさらな盤面だ。
指先が、世界の重さを測り直しているようだった。前世でなら、この二つを並べて見せるだけで、投資家が列を成しただろう。
無主の地。誰にも省みられていないからこそ、誰の手垢もついていない。
前世で、俺たちが新しい経済を打ち立てた場所も、最初はこうだった。誰も見向きもしない、価値の死んだ土地。だからこそ、古い仕組みのしがらみもなかった。何もないということは、誰にも縛られていないということだ。
ここでなら、できる。理屈ではなく、腹の底からそう思えた。
胸の内に灯った高揚は、だが長くは続かなかった。この地図を絵に描いた餅で終わらせないためには、動かす元手がいる。今の俺には、それがない。
懐に手を入れると、路銀の感触が、朝よりも頼りなくなっている気がした。数えればまだ数日分は残っているはずだが、心許なさは数字だけの問題ではないらしい。
丘を下りる頃には、日はすっかり沈んでいた。テラ村に、灯りはまばらだった。数えるほどの窓に、頼りない橙色の光が灯っているだけだ。あの立派な館だけが、遠目にも煌々と明るい。
夜気が、昼間の熱をあっという間に奪っていく。頬に触れる風は、もう冬の気配を含んでいた。
懐から取り出した革袋の中身を、指先だけで数えてみる。銀貨が数枚と、銅貨がわずかだ。ヴァルデ本邸を発つ時、これで二週間は保つと言われていた額だった。だが、実家に戻る当てのない土地では、二週間という数字の意味が、まるで違って響く。
金がない。人望もない。信用は、これから作るしかない。無い無いを数え上げれば、きりがなかった。だが、前世でも似たような場所から始めたことがある。何もないところに価値を見出し、育てる仕事だ。
まず、要る。動かすための、最初の一滴が。
種銭だ。
遊休地か、回廊そのものか。あるいは、まだこの目にも視えていない何かか。答えはまだ絞れない。だが、視るべきものは、この目が既に教えてくれている。足りないのは、それを動かす最初の一手だけだ。
路銀は、あと数日で底を突く。それまでに、この土地の何かを、金に変える算段をつけなくてはならない。
村の灯りを数えながら、俺は今夜の寝床――村長の家だという、館よりずっと小さな建物へ向けて、足を速めた。
村長の家は、他の家よりいくらか大きい程度で、館の華美さとは無縁の質素な造りだった。窓から漏れる灯りが、戸口までの短い道を仄かに照らしている。
戸を叩くと、しばらくして中から足音がした。閂の外れる音に続いて、戸の隙間から、警戒に強張った目がこちらを見た。歓迎の言葉を期待するほど、俺も甘くはない。それでも、今夜眠る場所が要ることに変わりはなかった。
「ヴァルデ家から遣わされた、新しい領主だ。一晩、世話になりたい」
戸の向こうで、息を呑む気配があった。返事はまだない。
待つ間、俺は夜空を見上げた。屋敷の庭からは見えなかった星が、ここでは驚くほど近くに瞬いている。豊かとは言えない土地だが、空だけは誰の値札もついていないらしい。




