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第01話「無能の値札」


【ヴァルデ男爵家 家門台帳・抜粋】

所領:アウレリア王国 西部辺境 ヴァルデ男爵領

歳入:往時の四割。負債、緩やかに増加


本日 ── レイ・ヴァルデ(三男・十七歳)鑑定の儀

戦闘適性 …… 無

魔法適性 …… 無

査定 ───── 「無能」

処遇 ───── グランゼ辺境への赴任(税収:ゼロ)




鑑定の水晶は、嘘をつかない。


そう言い切ったのは、王都から派遣された鑑定官だった。痩せた指で水晶を撫で、その光が俺の上で一度も色づかなかったことを、わざわざ二度、声に出して確かめた。広間の大理石は朝から冷えていて、靴の底からその冷たさが脛まで上ってくる。窓の高い位置から差す光の中で、無数の埃がゆっくり回っていた。


俺の前に、儀式を受けた者がいた。遠縁の少年だ。水晶に手をかざした瞬間、その表面が淡い緑に染まり、官が「魔法適性、中位」と告げた。途端に、広間の隅から拍手がこぼれた。少年の母が口元を押さえ、誰かが「将来が楽しみだ」と笑った。緑の光は、ほんの数秒で消えたのに、その温度だけが部屋に残った。


順番が回ってくる。俺は水晶に手をかざした。


何も起こらなかった。


「戦闘適性、反応なし。魔法適性、反応なし」


鑑定官の声には抑揚がなかった。事実を読み上げるだけの声だ。それでも広間に並んだ親族たちの間を、ざわめきが波のように渡っていく。誰かが袖で口元を隠した。その仕草のほうが、言葉よりもよほど雄弁だった。さっきの緑の光に向けられた温度と、同じ部屋とは思えなかった。


俺は水晶の前で、ただ立っていた。


正直に言えば、結果は最初から分かっていた。十七年、この身体で生きてきて、剣を握れば手首が泣き、詠唱をすればこめかみが鈍く痛むだけ。才能というものが俺の中を一度も通らなかったことを、誰よりも俺自身が知っている。


知っていて、それでも待っていたのだ。万に一つ、この国が「才能」と呼ぶ何かが、終わりの瞬間に光ってくれることを。


光らなかった。




水晶の光が消えると、父が口を開いた。


「結果は出た」


グレン・ヴァルデ男爵。俺の父にあたる男は、玉座のような大仰な椅子から立ち上がりもせず、手元の書類に視線を落としたままそう言った。歳入が往時の四割まで落ちた家の当主は、息子の鑑定の儀よりも、机の上の数字のほうに用がある。その横顔を見ていると、不思議と腹は立たなかった。立つべき熱が、どこか遠くにあるような感じがした。


「アルド。前へ」


呼ばれて進み出たのは、長兄のアルドだ。背が高く、肩には魔法の素養を示す淡い紋様が浮いている。二年前の鑑定で「上位」の判定を受け、以来この家の希望そのものとして扱われてきた男だった。


「父上」


「セリーヌ嬢との婚約、お前に移す。異論はないな」


広間の空気が、ほんの少し張り詰めた。


セリーヌ。その名前は、本来、俺のものだったはずだ。隣領の有力家から、ヴァルデ家の三男へ——三年前に結ばれた、家と家の約束。政略でしかなかったとはいえ、紙の上では確かに俺の婚約者だった令嬢。


そのセリーヌが、広間の端から進み出てきた。藍色のドレスの裾が、磨かれた床を滑る音がやけにはっきりと耳に届く。彼女は俺の前を通り過ぎる時、視線をほんの一瞬だけこちらに寄越した。


侮蔑ではなかった。憐れみでもなかった。ただ、もう関係のない人間を見るときの、あの空白の目だった。それが一番こたえる、ということを、彼女はたぶん知らない。


「謹んでお受けします」


セリーヌは兄の隣に立ち、頭を下げた。それで話は終わった。三年分の紙の約束が、文字どおり、たった一言で書き換えられていく。


胸の奥で、何かが薄い膜の向こうに引いていく感覚があった。悲しいはずだった。屈辱のはずだった。けれど、その感情は半歩遅れてやってくる。まるで、よく知っているはずの自分の声が、長い廊下の先から聞こえてくるみたいに。


——ああ、これは。


その遅延の中で、俺はふいに、もう一人の自分を思い出していた。




鷹宮玲たかみや れい。それが、前世の俺の名前だ。


もっとも、俺の生きた時代は、この世界から測れないほど遠い未来にある。


かつて人類は、途方もなく精巧な金融の上に文明を築いていた。信用が信用を生み、数字が数字を膨らませ、誰もが、手にしたものを少しでも多く抱え込もうとした。富を握ること、離さないこと。それが、賢さと呼ばれていた。


それは、ある日崩れた。連鎖して、雪崩れて、誰にも止められなかった。後の世が「大崩壊」と呼ぶ出来事だ。富は一握りの手の中で凍りつき、流れを止めた血のように、文明そのものが壊死しかけた。


再建のために俺たちが選んだ思想は、たった一つだった。——価値は、流通してこそ価値だ。抱え込まれた富は、ただの死んだ重りでしかない。


俺は、その新しい経済の骨組みを設計する側にいた。人が二度と、富を握りしめたまま自滅しないための仕組みを。それがようやく根を張りかけた頃、俺の生は静かに終わり、気づけば、この身体に落ちていた。


——だから、この世界を見たとき、俺はすぐに分かってしまった。


身分が価値の入口を塞ぎ、貴族が土地と利権を一生握って離さない。才ある者も、生まれた場所が悪ければ飼い殺し。これは、俺の文明が崩壊の果てにようやく卒業した、あの「古い世界」そのものだ。いずれ同じように、自分の重みで軋んでいく世界。


そして今。その古い世界は、俺という一人の人間に「無能」の値札を貼り、誰も使わない辺境の倉へ、しまい込もうとしている。


死蔵だ。人を、そうやって腐らせていく。


ヴァルデ男爵家の三男、レイ。生まれ落ちたときから、玲としての記憶は俺の中にあった。だから俺は十七年、ずっと黙っていた。才のない三男が、おまけに妙に賢いとなれば、それは家にとって厄介でしかない。賢さは、使い道がなければただの危険だ。前世で嫌というほど見てきた。


その擬態も、今日で終わる。胸の膜の向こうで、玲の声がする。——お前、抱え込まれたまま腐るのか、と。




「レイ」


父が、初めて俺の名を呼んだ。


「グランゼ辺境を、お前に与える」


広間に、今度ははっきりとした笑いが起きた。押し殺した、けれど隠す気もない笑いだ。


グランゼ辺境の名前なら、俺も知っている。領地の最東端、ドラグ山脈の麓に貼りついた、やせた土地。塩を吹いた地面では作物が育たず、山からは魔物が下りてくる。人はとうに離れ、残った寒村が一つ、二つ。税収はゼロ。それどころか、討伐や治安維持で持ち出しになる、帳簿の上の純然たる赤字。


つまりこれは、領地の授与という名の、追放だった。厄介払いに、最も価値のない土地をくれてやる。死ねば手間が省け、生き延びても誰の目にも触れない。父の机の上の数字から、俺という赤字の一項目を消すための、きれいな処理。


「ご温情、痛み入ります」


俺は頭を下げた。声は、自分でも驚くほど平らだった。


「おや」と笑ったのは兄のアルドだ。「泣いて縋るかと思ったが。さすが無能、現実が見えていないのか、それとも見えすぎて諦めたか」


「アルド」と父が短く制したが、咎める響きはない。


俺は顔を上げて、兄を見た。肩の紋様。整った顔立ち。この家の希望。——その全部を、俺はただ、見た。


その瞬間だった。




視界が、ぶれた。


兄の姿の上に、見たこともない文字が、薄く浮かび上がったのだ。光でできた帳簿の一行のような、そういうもの。


『アルド・ヴァルデ/真価:中の上/世評:上位(過大)』


俺は息を呑んだ。


何だ、これは。


慌てて視線を動かす。父の上には別の一行が浮かんだ。セリーヌにも。鑑定官にも。広間に並ぶ親族の一人一人に、まるで値札のように、文字と数字がついている。世間に高く奉られた者ほど、その真価との差が、寒々しく開いている。不当に安く見積もられた者も、いる。


頭の奥で、玲の声が、はっきりと言った。——これは、目利きだ。いや、もっと正確に言えば。


物の、人の、土地の、「本当の値段」と、世間が貼った値札との、その差を映す目。


戦闘でも、魔法でもない。鑑定の水晶が一度も反応しなかったのは当然だ。あの水晶は剣と魔法の才しか測れない。俺の中に芽生えたこの力は、この国の貴族が「才能」と呼ぶ物差しの、外側にある。


そして、前世の俺が、設計した経済の中で、誰より頼りにしていた目でもあった。真価と、つけられた値の、ズレ。そのズレのある場所にこそ、儲けと、歪みと、変えるべきものが、すべて眠っている。


「……何か言ったらどうだ、レイ」


兄の声で我に返る。俺は浮かんだ文字を、誰にも気づかれぬよう視界の隅に押しやった。これは、軽々しく口にしていい力じゃない。賢さは使い道がなければ危険だと、さっき自分で思ったばかりだ。


「いいえ。ただ、ありがたく頂戴いたします、と」


俺は静かに微笑んだ。その微笑みの意味を、この場の誰も読めなかったはずだ。読める情報を持っているのは、今この広間で、俺一人だった。




広間を辞して、長い渡り廊下に出た。


外の光が、磨かれていない床のところどころで鈍く跳ねている。この家は、見えるところだけを取り繕って、見えないところから傷んでいく。前世で凍りついていった富を、いくつも思い出す眺めだった。


廊下の角を曲がろうとして、俺は足を止めた。柱の向こうから、父の声がしたのだ。相手は、家令のものらしい低い声。


「グランゼまでの路銀は二週間分で十分だ。それ以上は無駄になる」


「……お館様。万一、辺境で名を上げるようなことがあれば」


「無能にできることなど、たかが知れている」父の声は、苛立ってさえいなかった。乾いた事務処理の声だ。「魔物に食われるか、村人に見捨てられるか。どちらにせよ、一年もせぬうちに台帳から消える。今期の損失として処理しておけ」


家令が何か答えた。聞き取れなかったが、抗弁ではなかった。


俺は柱の陰で、その会話を最後まで聞いていた。怒りは、やはり半歩遅れてくる。代わりに先に来たのは、奇妙なほど澄んだ感覚だった。冷たい廊下の空気が、肺の奥まですっと入ってくる。


——「今期の損失として処理しておけ」、か。


ヴァルデ家は、もとから貧しい家ではない。領を東西に貫く街道沿いに関所を構え、行き交う隊商から通行料を取って栄えた家だ。だが俺が物心つく前に、その交易権は中央の商業ギルド連合に巻き上げられていた。表向きは「街道整備の委託」、中身は利権の譲り渡し。流れていた金が、より大きな手の中へ吸い込まれた。それだけのことで、家は坂を転げ落ちた。


溜め込んだ者が肥え、流れの止まった場所が枯れる。前世で見た光景と、寸分違わない。違うのは規模だけだ。


それでも、と思う。損失として切り捨てられた在庫が、実は誰も値を知らない優良資産だった、という話を、前世の俺は何度も拾ってきた。投げ売られた瞬間こそ、買い手にとっては最大の好機だ。そして今、その投げ売り品は、俺自身だった。




与えられた部屋に戻ると、机の上に辞令と、餞別代わりの硬貨が無造作に置かれていた。


俺は椅子に腰を下ろし、試しに、目利きの力をもう一度呼んでみた。さっきは勝手に発動したが、今度は自分の意思で。視線を、机の隅の銀の燭台に向ける。


『古銀の燭台/真価:地金として相応/世間の値:装飾品として安値』


文字が、すっと浮かんだ。なるほど、と俺は呟く。見た目につけられた値ではなく、本当の値と、その差まで教えてくれる。商売の半分は、この差をどちらに転がすかで決まる。その半分を、この目は最初から握っている。


次に、置かれた硬貨を一枚つまんだ。


『銀貨(ヴァルデ鋳)/額面:銀貨一枚/真価:その八割(含有銀、規定割れ)』


思わず、笑いそうになった。家の通貨まで、こっそり目減りさせているのか。額面という「申告された値」と、中身の真価が、二割ずれている。歳入が四割まで落ちた家が、最後にやることはいつも同じだ。見えないところを、少しずつ削る。父が気づいていないわけはない。気づいていて、止められないだけだ。


扉が、控えめに叩かれた。入ってきたのは、老いた従僕だった。湯気の立つ碗を盆に乗せ、何も言わずに机の端へ置く。この家で、明日出ていく三男に茶を運んでくる人間が、まだ一人だけ残っていたらしい。


礼を言うと、従僕は曖昧に頭を下げ、視線を落としたまま「道中、お気をつけて」とだけ言った。その背に、目利きの一行が浮かぶ。


『老従僕/真価:篤き忠/世評:無し』


真価は確かにあるのに、世間がつけた値は、ゼロ。誰にも見出されないまま、この家の隅でしまい込まれてきた忠義。これも一つの、死蔵だ。碗を手に取ると、てのひらに熱がじんわり伝わってきた。安い茶葉の、それでも淹れたての匂いがする。この家で口にする最後の一杯が、いちばん温かいというのも、悪くない皮肉だった。


商人の目だ、と俺は思う。間違いなく。剣も魔法も使えない。身を守ることも、誰かを殴ることもできない。けれど、この世界に貼られた値札の「嘘」だけは、誰よりも早く、正しく見抜ける。


ふと思い立って、碗の水面に映った自分の顔へ、目利きを向けてみた。


一行が、浮かびかけて——途中で、霞んだ。


『レイ・ヴァルデ/真価:算定不能/伸び代:────』


算定不能。他人の値はあれほど無遠慮に弾き出すくせに、自分のことだけは、はっきりした桁を出さないらしい。


笑えた。だが、悪くない。値が決まっていないというのは、まだ、どうとでもなるということだ。「無能」と貼られた俺の本当の値段は、この国の誰にも——どうやらこの目にすら、まだ決められていない。


なら、自分で決めるまでだ。


俺は硬貨を置き、最後に、辞令へと手を伸ばした。




羊皮紙には、グランゼ辺境の概況がそっけなく記されている。面積、人口、年間税収——その全部に、ゼロか、あるいは赤字を意味する記号が並んでいた。父の筆跡で書かれた一文が、最後にあった。「当面の援助はせぬものとする」。


部屋の外では、すでに荷馬車の支度をする使用人の声がしている。明日の朝には、俺はこの家を出る。たぶん、二度と戻らない。


不思議と、足は重くなかった。むしろ、長く履き続けた窮屈な靴を、ようやく脱げるような心地さえあった。前世の俺は、握って離さないことを賢さと呼ぶ世界の片隅で、仕組みを直そうともがいて、力尽きた。今度は、誰の許可もいらない。


そう思いながら、何の気なしに、辞令の上に視線を落とした。


その瞬間だった。


グランゼ辺境、と記された地名の上に、また、あの光の一行が浮かんだ。さっき燭台や硬貨に見えたのと、同じ形のもの。


俺は、それを見て、動けなくなった。


『グランゼ辺境/世評:価値ゼロ/真価:────』


世評と真価の差を示す桁を、俺は二度、数え直した。指が、ひとりでに辞令の縁を握っていた。羊皮紙が、かさりと音を立てる。


——嘘だろう。


この、やせ地が。誰も欲しがらない、捨て値の土地が。


土地の値は、ふつう三つで決まる。何が採れるか。誰が住むか。安全か。グランゼは、その三つともが最低だった。世間がゼロと値付けしたのは、正しい。少なくとも、古い物差しで測る限りは。


なら、俺の目に映ったこの桁は、その物差しが測れない何かを、価値として勘定している。父も、兄も、王都の鑑定官も、誰一人として帳簿に書けなかった何かを。


それが何かは、まだ視えない。この目は値を示すだけで、理由までは語ってくれないらしい。答えのありかは、たぶん、この紙の上にはない。


——なら、行って確かめるしかない。


誰の手も及ばない、何もない土地。誰も欲しがらず、誰も握りしめていない。だが、何もないということは、裏を返せば——俺の知るあの仕組みを、何の柵もなく、ゼロから建てられるということだ。


奇妙だった。さっきまで、これは追放だと思っていた。捨てられたのだと。それが今は、自分一人だけが値札を読み違えた市場へ、たった一人で踏み込んでいくような、そんな高揚に変わっている。誰も値を知らず、囲い込みもせず手放したものほど、拾った者の儲けは大きい。前世で何度も拾い上げた、いちばん単純な真実だ。


そして今回、その品を押し付けられたのは、真価を見抜く目を持つ、この俺だった。


窓の外で、馬が一頭、低くいなないた。明日の朝が、急に待ち遠しくなっていた。


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