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第16話「守るコスト」

【グランゼ辺境 テラ村 街道口、早朝】

手持ち …… 銀貨百五十枚、銅貨十六

共有財布 …… 銀貨三十六枚

申告件数 …… 六十八件(うち労賃二十一件)

人口 …… およそ百七十一人


特記───「値のついた村に、値のつかない手が伸びた」


峠から戻った荷車は、行きより軽かった。


車輪の軋む音まで、いつもより甲高い。荷台を覆っていたはずの麻袋の山は、半分近く消えていた。むき出しになった板が朝日を弾き、やけに白く目に映る。


近寄ると、乾いた木の匂いに、鉄と血の匂いが混じって鼻を突いた。荷台の隅、擦れて裂けた麻袋の切れ端に、赤黒い染みが広がっている。


引いてきたのは若い衆のダンだった。荷車の陰にへたり込み、左腕に巻いた布を押さえている。布はまだ湿り、指の隙間から赤みがにじんでいた。周りに集まった村人は遠巻きに荷車を見るだけで、誰もすぐには近寄らなかった。


「峠の、曲がり際で」ダンは息を整えながら言った。「五、六人。棍棒と、短剣持ちに。麻袋を半分ばかり、置いていけって」


「置いてきたのか」


「置くしかなかった」声が裏返る。「大人しく渡さなきゃ、次は棍棒じゃ済まねえと、そう言われた」


損失は目算で、銀貨四十枚分というところか。腕の傷を見る限り、命までは取られていない。だがそれは、幸運が味方しただけの結果でしかない。次も同じ幸運が続くとは、誰にも請け合えなかった。


フィーネが人垣を割って駆けつけ、荷台を一目見るなり眉を寄せた。


「岩塩、二十貫は消えてる」指を折りながら口早に言う。「銀貨にして、四十枚見当。安くはないでしょ」


遅れてヴォルクが来た。ダンの腕を検め、傷の深さを確かめると、舌打ちを一つだけ落とす。


「浅い。骨は無事だ」それだけ言うと、立ち上がって峠の方角を睨んだ。「なんで、俺を呼ばなかった」


「呼ぶ暇なんぞ、なかったんですよ」ダンは俯いた。「向こうも、慣れた手つきで」


フィーネが荷台から水袋を取り、ダンの腕の布を解いた。傷口に乾きかけた血がこびりつき、水を含ませた布でぬぐうたびに、ダンが小さく呻く。新しい布を巻き直す手つきに、迷いはなかった。実家が没落する前、行商の荷にまつわる怪我人を幾人も見てきた手だ。


「次は、もっと浅くて済むとは限らないでしょ」布を結び終えながら、フィーネが低く言った。誰に向けた言葉でもなく、ただ事実を確かめる声だった。


村人のざわめきが、荷車を囲んで膨らんでいく。


「峠が危ないんじゃ、次の荷はどうすんだ」誰かが不安げに声を上げた。「まさか、もう回廊は使えねえのか」


問いに、すぐには答えが出なかった。


「代官の手勢は、こういう時、街道を見回ってたんだろう」別の誰かが言った。声の主は分からなかったが、何人もが同じ考えを胸に抱えている気配があった。「あの人でなしでも、街道が荒れりゃ自分の取り分が減る。だから、見回りだけはさせてた」


代官がいた頃、街道の安全は誰かの上納の副産物として、ついでに守られていたということか。悪政の裏にたまたまの秩序があった。皮肉だが、否定はできない。


老爺が煙管を口から離し、荷車の空いた部分をじっと見つめた。


「――台帳は、盗賊を追い払ってはくれんぞ」


代官邸の門前で聞いた台詞と、対になる言葉だった。あのときは、紙切れは飯を炊いてはくれん。今度は飯ではなく、命だ。台帳が富を村に巡らせても、峠を越える荷を守ることまではできない。今度は突っぱねる材料が、俺の側にない。


前世でも、似た壁を見た覚えがある。制度を敷けば富は回り出す。だが、回り始めた富を、制度そのものが守ってくれるわけではない。治安は、経済とは別枠の勘定だ。あの頃も、そこを後回しにした街がいくつも、痛い目を見た。今、目の前で同じ順番を踏みかけている。


風が峠の方から吹き下ろしてきて、ダンの傷口の布を揺らした。冷たい風だった。夏の名残の匂いに、もう秋の乾いた気配が混じっている。


誰が、街道を守る。金は、どこから出す。


問いは、村人の誰かではなく、自分の中から先に立った。答えは、まだ持っていなかった。


その夜、村長宅の板間に、いつもの顔ぶれが集まった。灯りは炉の火だけで、集まった顔の半分が影に沈んでいる。薪がじりじりと音を立てて焼け、時折り小さく爆ぜた。ソルが帳面を膝に広げ、木の棒の先で数字をなぞっていた。誰も、すぐには口を開かなかった。峠で流れた血の匂いが、まだ誰の鼻の奥にも残っているようだった。


「俺が行く」


真っ先に口を開いたのは、ヴォルクだった。


「明日から、俺が街道に張りつく。峠から村まで、目を光らせてりゃ」


「一人でか」フィーネがすぐに切り返す。「街道は、峠から村までどれだけあると思ってるの。あんた一人じゃ、抜け道の数にすら追いつかないでしょ」


ヴォルクは何か言い返そうとして、口を閉じた。峠の稜線、街道の曲がり、獣道まで頭の中で辿ったのだろう。太い腕を組んだまま、しばらく黙り込む。


「……確かに、な」低く落とした声には、悔しさが滲んでいた。「一人じゃ、届かねえ範囲がある」


自分から気づいたのは、意外だった。腕っぷしだけの男ではない。守るべき線の広さを、頭のどこかで測れる男だった。


「なら、護衛をつければいい」俺は言った。「荷ごとに、何人か護衛をつける」


「それには、金がいるでしょ」フィーネが即座に食いついた。「護衛料を取るつもりなら、商人は北回りに逃げるだけ。うちを通す理由がなくなる。それじゃ、値上げしたのと同じでしょ」


一理ある。回廊の利点は、日数の短さだけだ。その上に護衛料まで乗せれば、天秤が傾く商人も出てくるだろう。


「若い衆を、護衛に回すのか」アーヴィンが低く割って入った。「今は畑の刈り入れ時だ。人手を割けば、畑が回らん。冬を越す分の麦が減る」


「柵より先に、道と水だ」ガンツが太い指で床を叩いた。「峠の見通しが悪すぎる。曲がり際が、幾つもある。あそこに、見張り台を立てりゃ、五、六人でも十分に目が届く」


見張り台、という言葉に、部屋の空気がわずかに動いた。武で塞ぐのではなく、見る場所を作る。石工らしい発想だった。だが、石を積むにも人手が要る。今すぐ間に合う話ではない。


「見張り台は、いい」俺は頷いた。「だが、それは明日から作れるものじゃない。今、明日からの荷をどう守るかが先だ」


「共有財布は」ソルが帳面から顔を上げずに言った。「銀貨三十六枚。九人分の日当を払い続ければ、二月ともたない」


数字が、部屋の空気を一段冷やした。守る人手を増やすほど、守るための金が減っていく。矛盾した勘定だった。


「なら、護衛なんぞ、諦めるしかねえのか」ヴォルクが低く唸った。


「諦めれば、次はもっと取られる」俺は言った。「奪われた分は、村の外へ出ていく。守る金も、村の外へ出ていく。どちらも出ていく金なら、取られる方を選ぶ理由はない」


理屈は通っている。だが、口にした自分でも、まだ財布の底が見えているわけではなかった。


「奪われた分は」列の端から、控えめな声が上がった。ダンの母親だった。「村の財布から、出してもらえんでしょうか。あの子が怪我までして」


もっともな訴えだった。だが、頷くわけにはいかない。


「出さない」


はっきりと言うと、場の空気が凍った。


「制度がなかった。だから、払わない」俺は続けた。「昨日までは、荷を守る仕組み自体がなかった。仕組みのないところで起きたことに、後から値をつけるわけにはいかない。だが、これからは違う。次からは、払う」


冷たい言い方だと、自分でも分かっていた。ダンの母親は、何か言いたげに口を開きかけ、結局、唇を結んで俯いた。誰も、それ以上は言葉を継がなかった。板間に、炉の薪が爆ぜる音だけが響いた。


外の風が、戸口の隙間からひゅう、と鳴る。誰も次の案を出せないまま、しばらくの沈黙が続いた。


沈黙を破ったのは、俺自身だった。


「――荷を、台帳に載せる」


四つの視線が、こちらに集まった。


「マレアへ運ぶ荷は、出発前に申告させる。護衛料は、その申告値の百分の一」


流通税と同じ利率だ。数字を新しく作らない。村人が覚える手間を、増やさない。


「安く申告すれば、護衛料は安い。だが、もし守り切れなければ、共有財布から戻る額も、その安い申告値どおりだ」俺は続けた。「高く申告すれば、護衛料は上がる。その代わり、失った時の戻りも厚くなる」


「さっきの岩塩なら」ソルが帳面の余白に木の棒を走らせる。「銀貨四十枚と申告すれば、護衛料は銅貨四枚。奪われれば、戻りも銀貨四十枚」


「安く見せかけて、護衛料だけ浮かそうって奴が出るでしょ」フィーネがすぐに口を挟んだ。


「出るだろうな」俺は頷いた。「だが、それをやった商人は、奪われた時、安い申告値でしか戻らない。得をするのは、奪われなかった時だけだ。賭けだ」


フィーネの眉が、すっと動いた。


「――それ」しばらく黙り込んでから、口を開く。「随意買取と、同じ理屈じゃない」


「そうだ」


安く申告すれば安く買われる。それが、これまでの台帳の理屈だった。今度は、安く申告すれば安くしか戻らない。裏と表が違うだけで、骨組みは同じだ。値をごまかせば、得をする側にも損をする側にも回らない。フィーネはしばらく口を開かなかった。損得の勘定が頭の中で音を立てて組み上がっていく様子が、視線の動きだけで伝わってくる。


「筋は、通ってる」やがて、フィーネはそれだけ言った。反論の言葉は、続かなかった。


ソルが帳面をめくり、新しい欄に線を引いた。


「護衛の長は」ソルが顔を上げる。「誰にする」


答えは、決まっていた。


「ヴォルク」


「俺か」ヴォルクが片眉を上げる。


「報酬は、現金じゃない」俺は言った。「約束していた通りだ。自由市の百分の三を、あんたの持ち分にする」


街道で拾った縁だった。銭もないまま口約束だけで結んだ雇用が、今、初めて紙の上に形を持つ。ソルが羊皮紙を広げ、木の棒の先を墨に浸した。


「――名は」


「ヴォルク」


短い返事だった。ソルの棒が羊皮紙の上を滑る。乾いた音が、板間に響いた。


『護衛長 ヴォルク/持ち分 百分の三』


刻まれた文字を、ヴォルクはしばらく見下ろしていた。何かを言いかけて、口をつぐむ。太い指が、無意識に羊皮紙の縁をなぞった。爪の先が、乾いたインクの上をかすめる。


騎士の紋を失い、名乗る家もないまま流れてきた男だ。街道の因縁から拾い上げてこの方、名は「坊主」「あんた」としか呼ばれてこなかった。今、初めてその名が、村の帳面に――誰の記憶にも消えない場所に、刻まれた。


「――何か、あるか」


「いや」ヴォルクは羊皮紙から目を離さないまま、短く答えた。「別に」


それだけだった。だが、その声は、いつもの伝法な調子より少しだけ低かった。かつて仕えた家の紋章が刻まれていた柄の跡を、俺は思い出した。あの紋は、擦り切れて消えたきり、二度と戻らなかった。今、代わりに刻まれたのは、家名ではなく、この男自身の名だった。誰かに与えられた席ではなく、自分で稼いだ一行だ。


「明日から、護衛は九人」俺は場の空気を変えるように続けた。「村の若い衆から六人、流入者から三人。日当は自己申告制、これまで通りだ」


翌朝、広場に台が出た。護衛志願の列が伸びる中、ダンが胸を張って木の棒を握った。


「一日、銀貨一枚で」


広場が、一瞬静まった。


「お前、それだけ働けるのか」ヴォルクが太い声で割って入った。「昨日、峠で荷を半分持っていかれた口だぞ」


ダンの顔が、みるみる赤くなる。


「石積みなら」横からガンツが口を挟んだ。「そいつの倍は出す。だが、荷を守る話とは、別だろうがよ」


どっと笑いが起きた。ダンは首をすくめ、木の棒を握り直すと、「銅貨八」と小さく書き直した。緊張の続いた広場に、久しぶりの緩みが差した。


列の後ろから、首に枷の痕を残した男が進み出た。井戸の修復を手伝っていた一人だ。震える手で木の棒を受け取ると、迷いのない字で「銅貨五」と書いた。誰も茶化さなかった。値を書く手つきに、もう怯えの色はなかった。


制度は、できた。だが、まだ一度も試されていない。


翌々日、岩塩の第四陣が、護衛九人を連れて峠へ発った。


見送りに出た村人は、心なしか多かった。老爺は煙管を吹かしながら、荷車の列が見えなくなるまで動かなかった。荷台に積まれた麻袋には、羊皮紙の申告値が一枚、括りつけられている。銀貨四十枚。数字を村人の誰もが目にできる形で晒すのは、初めてのことだった。


先頭に立つヴォルクの指示は、短く、迷いがなかった。曲がり際ごとに二人を配置し、荷車の前後を挟む。一人を高台に上げ、見通しを確保する。号令の一つ一つが、迷いなく喉から出てくる。獣人の耳が、風向きを読むたびにぴくりと動いた。


峠の中程、道が細くなる場所で、それは起きた。木々の匂いに、かすかな油の匂いが混じった、その直後だった。


木立の陰から、五人ほどの影が飛び出してきた。棍棒を振り上げ、荷車へ突っ込んでくる。


「――前と後ろ、閉めろ!」


ヴォルクの声が、峠に響いた。九人が、示し合わせたように二手に割れる。前を塞いだ三人が盾のように並び、後ろの二人が荷車の脇を固めた。ヴォルクが一人、飛び出してきた男の得物を叩き落とし、腕を捻り上げる。抵抗する間もなく、男は地面に膝をついた。


争いは、長くは続かなかった。一人が倒れれば、残りの足が止まる。数を頼みにした襲撃者は、統率された九人の壁の前で、あっという間に浮き足立った。


「――退け!」


叫び声とともに、影は峠の奥へ逃げ去っていった。荷車の周りに、九人が立っている。誰一人、欠けていなかった。傷を負った者もいない。


「――全員、無事か」ヴォルクが太い声で確かめる。九つの頷きが返ってきた。誰かが、詰めていた息を吐き出す音が重なった。


日が傾く頃、荷車は無傷のまま村へ戻った。峠での出来事は、噂となって先回りしていたらしい。広場に迎えに出た村人の目に、これまでとは違う色があった。老爺が煙管を手にしたまま、ヴォルクの一団を目で追い、何も言わずに小さく顎を引いた。ゲオルクは店先から飛び出し、九人の顔を一人ずつ数えるように確かめている。誰も、剣を抜いたことを褒めそやしはしなかった。ただ、無事に戻った顔ぶれを、確かめずにはいられない目だった。


フィーネが駆け寄り、荷台に括りつけた申告書を確かめた。数字が減っていないことを見て取ると、詰めていた息を吐き出す。「――ちゃんと、戻ってきたんじゃない」独り言のような声だった。ソルは何も言わず、帳面に「損失なし」とだけ書き加えた。一文字の軽さが、これまでの帳面とは違う夜の重みを物語っていた。


逃げそこねた男が一人、峠に転がっていた。腕を捻られたまま、動けずにいる。その懐から、短剣が覗いていた。


拾い上げてみると、刃に錆一つなく、鉄の匂いが鼻を突いた。柄に巻かれた革は、まだ新しい匂いを残している。他の男たちが取り落としていった得物にも、同じ型の短剣が交じっていた。すべて、同じ拵えだった。


懐を検めると、銀貨が数枚出てきた。縁が、まったく擦れていない。指先を滑らせると、角の鋭さがそのまま皮膚に食い込んだ。


視界の端が、滲んだ。


『真新しい短剣/真価:一月前に鍛えられた、揃いの兵器/世評:野盗の得物』


一人一人が別々に拾い集めた得物ではない。誰かが、まとめて誂えたものだ。


ソルが銀貨を手に取り、陽にかざした。指先で、縁の刻印をなぞる。


「――見覚えがある」ソルは、それだけ言った。「だが、まだ言わない。確かめる」


それきり、口を閉じた。帳面にも書き留めず、ただ懐にしまい込む。その沈黙の重さが、逆に何かを語っていた。


峠を渡る風が、木立を鳴らした。荷車の轍が、来た道より深く土に食い込んでいる。


――野盗は、こんな物を持たない。

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