第14話「流れ始めた辺境」
【グランゼ辺境 テラ村 代官邸前、翌朝】
手持ち …… 銀貨七十四枚、銅貨十六
代官の座 …… 空席(欠員、上への報告待ち)
倉の中身 …… 麦・油・蠟・鉄・車輪(三棟分、処分未定)
特記───「席は空いた。値札は、まだ誰も書いていない」
代官邸の門が、朝から開け放たれていた。
昨日までは槍を持った見張りが両脇に立ち、村人を寄せつけなかった場所だ。今は誰もいない。門は軋んだまま風に揺れ、隙間から前庭の霜がそのまま見えている。踏み荒らされていない霜だった。誰も、まだ足を踏み入れていない。
村人は遠巻きに集まって、開いた門を見ているだけだった。老爺が煙管を口にくわえたまま、動かない。ゲオルクは腕を組み、視線だけを門の奥へ送っている。誰も、中に入ろうとしない。
「――若様が、お座りになるんでしょう」
背後から声が飛んだ。振り返ると、村の女房の一人だった。悪気のない顔で、当然のことを聞いている口調だった。
「置かない」
短く返すと、女房は不思議そうに首を傾げた。周りの何人かも、同じ顔をしている。空いた席には誰かが座るものだ、という考え方が、この村にはまだ根深く残っている。
ハウゼンが、帳面を小脇に抱えて歩み寄ってきた。旅装の折り目は昨日と変わらず几帳面で、表情もまた変わらない。
「代官の欠員は、上へ報告いたします」抑揚のない声だった。「後任の選任は、私の職掌の外であります」
「いつ決まる」
「早くて一月、遅ければ半年」ハウゼンは帳面を閉じ、初めてわずかに間を置いた。「――その間、この一帯の秩序をどう保つか。記録には残ります。それだけが、私に申し上げられることであります」
一月から半年。その空白の間に何が起きるか、ハウゼンは口にしなかった。だが、口にしないこと自体が、答えのようなものだった。
言い終えると、ハウゼンは一礼し、背を向けた。見送る言葉も、労いの言葉もない。荷は昨日と同じ、帳面と巻尺と印章箱だけだった。痩せた背中が、朝の街道を東へ遠ざかっていく。振り返ることは、一度もなかった。
「――んなら、誰が決めるんだよ」
村の男の一人が、ハウゼンの背に向かって声を投げた。答える者はいない。
「台帳が決める、って坊ちゃんは言うがよ」老爺が煙管の先をこちらに向けた。「紙切れは、飯を炊いてはくれんぞ」
「炊けるようにする」
「口で言うのは、誰でもできらい」
言い返す代わりに、老爺は鼻から煙を吐いた。信じていないというより、信じるための材料をまだ持っていない目だった。材料は、これから見せる。
俺は一歩、門をくぐった。霜を踏む感触が、靴底から伝わってくる。誰も踏み荒らしていない前庭は、静まり返っていて、逆に落ち着かなかった。玄関の扉には、代官家の紋章が彫られたままだ。持ち主を失った紋章が、朝日を受けて、やけに白く見えた。誰かがこの家に座ると決まった瞬間、この紋章にも新しい意味がつく。座らないと決めた今は、ただの木彫りの飾りにすぎない。
倉の方から、風に乗って饐えた匂いが流れてくる。三棟分の麦が、まだ査定も分配も決まらないまま眠っている。誰のものでもない富が、そこにある。
「――代官は置かない」
もう一度、今度は村人全体に向けて言った。
「この村を仕切るのは、これから台帳だ」
言葉の意味が、まだ誰の顔にも染みていなかった。台帳が代官の代わりになる、という発想自体が、この村にはまだ存在しない。老爺が煙管の灰を落としながら、片眉を上げただけだった。
「――台帳、ねえ」
老爺は、それ以上何も言わなかった。煙管の灰を指先で払い落とし、視線だけをもう一度、開いたままの門の奥へ戻す。腰を上げる素振りは、なかった。
倉の前で、フィーネとヴォルク、それにアーヴィンが待っていた。開け放たれた扉の奥から、麦の匂いと油の匂いが混じって漂ってくる。
奥へ足を踏み入れると、埃が舞い、鼻の奥がむずがゆくなった。積まれた油壺の一つに手をかけると、思っていたより重い。腕から肩へ、じわりと重みが伝わった。三日前まで、この重みは誰のものでもなかった。今は、羊皮紙一枚の申告値がなければ、動かすことすら許されない。
「――待たんかい」
近づくなり、老爺が横合いから割り込んできた。手には、穴の空いた古い鍋を抱えている。
「これ、儂の鍋だ。返してもらう」
「三日前に売った鍋でしょ」
フィーネがすかさず突っ込んだ。老爺は一瞬、目を泳がせる。
「……売った、が」
「言い値の倍で、銀貨もらったでしょ」
「……そうだったわい」
老爺は鍋を胸に抱えたまま、渋々とその場に置いた。周りで見ていた誰かが小さく噴き出し、笑いが広がった。緊張の続いた朝に、久しぶりの緩みだった。
「あんな鍋、返してもらったところで穴は塞がらないでしょ」フィーネが片頬で笑う。「一度売った物は、今はレイの物。買い戻すには、また銅貨がいるの。そういう仕組み」
老爺はぶつぶつと文句を垂れながらも、鍋を諦めて列の後ろへ下がっていった。
「――で」フィーネが表情を戻し、俺に向き直る。「倉の中身、どうするつもり」
決めていないわけではない。だが、決めたことをそのまま告げても、この場は収まらない。
「売る。相場の七分で、月ごとに分けて」
「七分?」フィーネの声が跳ねた。「東へ持っていけば、コルムなら倍の値をつける。みすみす安く出すなんて、商売として最悪でしょ」
「東へ運ぶ手間と日数がかかる。その間、村は待つだけだ」俺は倉の麻袋に手を置いた。「安くても、今、村の中で回る方がいい。金は村を出た瞬間、村のための金じゃなくなる」
フィーネは唇を結んだまま、すぐには言い返さなかった。損得の勘定では、まだ得心していない顔だった。
「配らないの」ヴォルクが太い眉を寄せた。「人足は余ってる。今夜のうちに運び出せば、村の飯はすぐ変わるだろうが」
「それは前も言った」
「前と今は違う。今は、あんたの物だろうが。あんたが配るなら、略奪にはならねえ」
理屈は通っている。だが、その先にあるものが見えていない。
「配れば、一日で終わる」俺は倉の奥、積み上がった麻袋の山を見ながら言った。「タダで手に入った物には、値がつかない。値がつかない物は、二度と市に出てこなくなる。今日配って喜ぶ顔と、来年も再来年も物が回る村と、どっちを取る」
ヴォルクは何か言い返そうとして、口をつぐんだ。
「――村に配るのが、筋だと思うがな」
アーヴィンが低く続けた。低く抑えた声には、今度は懸念よりも、譲れない一線に近い響きがあった。
「代官の悪政に苦しんできたのは、この村だ。取り戻した富の使い道は、村が決めるべきではないのか」アーヴィンの目が、倉の奥へ向いた。「あの麦の何割かは、儂らが安値で取り上げられた分だ。今更、市で買い戻せというのか」
過去の申告値が、脳裏をよぎった。畑を安く取り上げられた村人の証言は、丘の上でも老爺の口からも聞いてきた。奪われた記憶が、まだ生々しく残っている。それでも、答えは変わらない。
「そのつもりだ」俺は頷いた。「だが、決め方が違う。誰か一人が配るんじゃない。市で、村人自身が買う。銀貨は、もうこの村に回っている」
三日間の買い占めで、バルドの銀貨が村中に流れ込んだ事実を、アーヴィンも知っている。それでも、まだ完全には腑に落ちない顔だった。
ソルが帳面をめくり、指先で表を叩きながら数字を示した。インクの染みた指先が、麻袋の山の上をなぞる。
「麦は月に二百貫、油は五樽、蠟は残った分から様子を見て出す」抑揚のない声だった。「三棟分を一度に出せば、値は潰れる。相場の七分、月ごとに分ければ、値崩れせずに回る。これが今、出せる最善の配分だ」
数字を見せられると、フィーネの眉間の皺が、わずかに浅くなった。それでも、組んだ腕はまだ解かれない。
「――それでも」フィーネが腕を組んだまま、じっと倉を見つめた。「倉を持ってるのは、今、あんた一人でしょ」
その一言が、腹に落ちた。誰も口にしなかった疑いを、フィーネがそのまま形にした。取り戻した富を独り占めしているように見える構図は、確かにそこにある。バルドが座っていた場所に、名前だけ変えて誰かが座り直す。それでは何も変わらない。答えは、既に決めていた。だが、言葉より先に、形で示す必要がある。
広場に、台帳を据えた台が運び出された。
昨日まで随意買取の緊張が張り詰めていた同じ台だ。だが今日、そこに立つのは俺一人だった。ソルが台帳を開き、木の棒を構える。
「――何をする気」フィーネの声に、警戒の色が混じった。
答える代わりに、俺は台帳の前に立った。
「『代官邸の倉および遊休地一帯』」羊皮紙に、自分の名を記す。「申告値、銀貨二千八百枚」
広場が、静まり返った。
「……本当に」ソルが顔を上げ、初めて確かめる目でこちらを見た。「その額で書くのか」
真価どおりの額だ。安くも、高くもない。誰かに買われれば、そのまま失う額でもある。失うのを恐れて安く書けば、この台帳が初日から嘘をつくことになる。それだけは、避けたかった。
「その額でいい」
ソルの木の棒が、羊皮紙の上を滑った。乾いた音とともに、印が押される。数字が、確定した。
「流通税は、申告値の百分の一。月に一度」ソルが淡々と読み上げる。「――月、銀貨二十八枚」
村人のざわめきが、広場に広がった。銀貨二十八枚という額の重さに、誰もが息を呑んでいる。
「その税は」俺は続けた。「村の共有財布に入る。俺の物じゃない」
ヴォルクの目が、じっとこちらを見ていた。理屈で追いかけているのではない。以前、飯の喩えで死蔵の仕組みを飲み込んだときと同じ、腹で測る目だった。
「……つまり」ヴォルクがゆっくりと言葉を探す。「あんたが一番、重い荷を背負ったってことか。誰よりも」
「そうだ」
「誰でも、この額でお前から買えるってことか」
「そうだ」
「――俺でもか」
「銀貨二千八百枚、用意できるならな」
ヴォルクが喉の奥で笑い、口の端をわずかに緩めた。剣を抜いて敵を圧倒するときとは、また違う類の笑い方だ。理屈を追い越して、腹で納得した顔になっていた。
フィーネは、何も言わなかった。一瞬、顔から血の気が引くのが分かった。この額なら、誰かが金さえ積めば、レイから倉ごと奪える。商人の頭がまず弾いた計算は、そこだったはずだ。だが、次の瞬間、その顔がふっと緩んだ。奪われる恐れより先に、別の意味に気づいた顔だった。抱え込む側に自分から回った男が、誰よりも重い値札を自分の首にぶら下げている。かつて、実家の反物と香辛料も、誰かの都合ひとつで市場から締め出された。抱え込む側の理不尽を、フィーネは誰よりもよく知っている。その男が、自分から一番重い荷を背負って見せた。フィーネは口を開きかけ、結局、何も言わずに視線を逸らした。
列の後ろから、震える声が上がった。
「――あの」
ゲオルクだった。俯きがちに一歩前へ出て、台帳を指さす。
「うちの店、前は銅貨二十で書きました。あれ……書き直せますか」
「いくらにする」
「銀貨三枚、で」
震える声だったが、目はまっすぐ台帳を見ていた。隠す理由が消えた店主が、初めて自分の値で立った瞬間だった。ソルが黙って羊皮紙をめくり、新しい数字を記す。乾いた音が、また一つ鳴った。
その音を合図にしたように、列が伸び始めた。ゲオルクの女房が畑の値を銅貨九から銅貨十六に書き直し、老爺は結局、鍋の隣に転がっていた欠けた砥石を銅貨三で申告した。隣村から嫁いできたという若い女房が、嫁入り道具の織機を銀貨一枚で申告すると、周りから小さなどよめきが上がった。額の高さにではない。長年しまい込んでいた嫁入り道具に、自分の手で値をつけたこと自体に、誰もが息を呑んでいた。羊皮紙にインクの染みる音、印章の押される音、列に並ぶ足音が、少しずつ重なっていく。
列の伸びを見届けながら、俺は目を閉じ、意識を村の輪郭全体へ広げた。丘も畑も、代官邸の塀も、村外れの小屋も、まとめて一つの対象として捉える。輪郭の曖昧な広さに、抵抗が押し返してくる。集中を保ったまま、その抵抗を押し切った。
視界の端に、文字が滲んだ。
『テラ村一帯/真価:値を自ら決める者たちの土地/世評:代官を失った、辺境の村』
初めて丘の上でこの土地を見たときの評は、まるで違っていた。あのときの世評は、税収ゼロ、無価値の辺境だった。今、世評の欄が動いている。真価が変わったわけではない。世間の見る目の方が、初めて動き始めていた。
桁の大きさより、その一点が胸に残った。
申告の列が伸びる一方で、広場のもう一角には、違う列ができていた。ソルが決めた配分にしたがって、麦と油が量りにかけられ、銀貨と引き換えに村人の手へ渡っていく。
「一袋、銅貨十四」計量役の男が声を張ると、老爺の女房が懐から銀貨を数えて差し出した。三日前、代官の名代から言い値の倍で鍋や反物を買い取っていった、あの銀貨だ。今、その同じ銀貨が、麻袋を肩に担いで戻っていく女房の背中に乗っている。
ゲオルクも列に並び、油壺を両手で抱えて量りに載せた。値を聞くと、一瞬だけ躊躇い、それでも銀貨を数えて差し出す。躊躇いの理由は、値ではなく、買う側に回ることへの馴れなさだと分かった。
麻袋を肩に担ぎ直す音、量りの針が触れ合う音、銀貨が木の台に落ちる乾いた音――それらが、途切れることなく夕方まで続いた。誰もが、売る側であり、同時に買う側でもあった。
日が傾く頃、ソルが計量帳を閉じ、木の棒で最後の数字を弾いた。
「麦と油の実入り、銀貨百二十枚」
三日前、あの男が村から搾り取ろうとした銀貨が、形を変えて、村を一周し、こちらの手元へ戻ってきていた。
夕刻、広場の申告台にはもう誰もいなかった。ソルが台帳を閉じ、最後の集計を読み上げる。
【グランゼ辺境 テラ村 広場、夕】
今日の申告 …… 十二件から四十一件
流通税収入(村の共有財布) …… 銀貨三十三枚
手持ち …… 銀貨百六十六枚、銅貨十六
特記───「値がついた分だけ、この村は増えた」
数字の羅列が、それだけでは何も語らない。だが、村を見渡せば、意味はすぐに分かった。夕暮れの空の下、家々の煙突から、いくつもの煙が立ち上っている。丘の上からこの村を初めて見下ろしたとき、数えるほどしかなかった煙が、今日は指では足りないほど立っていた。竈にかけられた鍋から、炊けた麦の匂いが風に混じって流れてくる。どこかの戸口から、子供のはしゃぐ声が漏れ聞こえた。
前世でも、似た数字を何度も見た。会議室の壁一面に映る指標が、台帳の代わりに富の動きを示していた光景は、今も覚えている。数字が上向けば拍手が起き、誰かが次の議案へ進んだ。だが、その数字の先で、実際に誰かの竈に火が入るところまでは、一度も見届けられなかった。制度を設計する末席にいただけの男の目には、そこまで届く距離がなかった。今、目の前でその火が上がっている。煙の一筋一筋に、名前も顔もある。
「――今日、儂の家でも、麦を炊いた」
アーヴィンが隣に立ち、静かに言った。
「去年より、火の数が多い。村がこんな夕方を迎えるのは、久しぶりだ」
短い言葉に、村を背負ってきた男の実感が滲んでいた。頷く以外に、返す言葉はなかった。
「あんたの申告、まだ信じられないけど」フィーネが横から荷袋を担ぎ直しながら、ぼそりと言った。「……悪くない、かもね」
「わあってねえ癖に。悪くないどころか、大したもんだ」
ヴォルクが割って入り、フィーネがすぐに睨み返す。いつもの応酬に、周りから小さな笑いが漏れた。
ソルが台帳を仕舞いながら、誰に言うでもなく呟いた。
「――四十一件。明日には、もっと増える」
指先のインクの染みが、夕日に薄く光っていた。増えた数字の分だけ、この男の帳面の重みも増していく。それを厭う色は、その横顔のどこにもなかった。
風向きが変わり、東の街道から砂埃の匂いが混じってきた。目を上げると、峠の方角に人影があった。
一人二人ではない。二十人ばかりの一団が、荷を背負い、村へ向かって歩いてくる。売りに来た足取りでも、買いに来た足取りでもなかった。もっと重く、もっと定まった歩みだった。背負った荷は行商のそれより大きく、鍋や布にくるんだ道具らしき影が、輪郭からはみ出している。子供を肩車した男の姿も、列の後ろに見えた。
先頭に、ずんぐりと背の低い影がある。山のような荷を背負い、それでも足取りは崩れていない。土埃を蹴立てる足音だけが、他の誰よりも重く、規則正しく地面を叩いていた。
村人たちも、遠くの一団に気づき始めていた。老爺が煙管を口から離し、目を細めて峠の方を見る。ゲオルクは店先から出てきて、額に手をかざした。誰も、声を上げようとはしなかった。
フィーネが目を細め、呟いた。
「――あれ、何しに来た顔だと思う」
答えは、すぐには浮かばなかった。だが、その歩みを見ているうちに、一つの言葉だけが胸に落ちてきた。
「――あれは、住みに来た顔だ」




