第13話「言い値で、頂きます」
【グランゼ辺境 テラ村 広場】
手持ち …… 銀貨二百七十四枚、銅貨十六
代官の動き …… 買い占め攻勢、継続中(麦・油・蠟・鍋・車輪ほか)
執行予定 …… 随意買取、市の立つ日に発動可
特記───「集めた獲物は、まだ誰のものでもない」
「――売れ。全部、あの男の言い値で売ってやれ」
朝の広場に、俺の声が響いた。
集まっていた村人たちが、顔を見合わせる。誰も、すぐには動かなかった。無理もない。三日前、代官の名代を名乗る男たちが村に入ってきてから、麦も油も蠟も、目についた物という物を言い値の倍で買い集めていった。ゲオルクの店の棚はもう半分以上が空だ。老爺の家からは、使い古した鍋まで運び出された。値をつけられるたび銀貨は増える。それでも誰の顔にも、安堵はなかった。冬が来る前に、この村から物が消えていく。それだけが目に見える現実だった。
「――正気か」
アーヴィンの低い声が、真っ先に空気を裂いた。
「麦まで売れば、この村は冬を越せん。蓄えは、去年の不作でただでさえ薄い。坊ちゃんが何を狙っているにせよ、村が飢えては元も子もない」
村長の目は、こちらを試すように据わっていた。この三日で村が受けた不安を、誰よりも肌で拾い集めてきた男の目だ。生半可な理由では引かない。
「これ、あの男の思う壺じゃないの」フィーネも一歩詰め寄ってくる。「買ったら買っただけ、あいつの得になるだけでしょ。何を考えてるの」
声の端に、いつもの棘とは違う色があった。実家が締め出されて潰れたときも、最初は誰かの言いなりで動いた結果だった。あのときの苦みが、今の警戒に重なっているのだと分かった。
「意味が分からねえ」ヴォルクが腕を組んだまま吐き捨てた。「敵に武器を持たせて、喜んで渡すようなもんだろうが」
集まった村人たちの間にも、低いざわめきが広がっていく。誰かが「坊ちゃんも、とうとう頭が回らなくなったか」と呟き、隣の者が慌てて袖を引いた。老爺だけは煙管をくわえたまま、口を挟まずにこちらの様子を窺っている。
三人の目が、順番に俺へ向いた。答えを急かす沈黙だった。だが、ここで筋道を明かせば、狙いは半分死ぬ。相手に伝わるからではない。伝わった瞬間、村人の顔から今の不安が消えてしまう。この三日間、村が本気で怯えていること自体が、罠の一部だ。
「三日後に分かる」
それだけを返した。フィーネが眉を吊り上げ、何か言いかけて、結局は口を噤んだ。ヴォルクは舌打ち一つで応えを呑み込んだ。信じているのではない。信じるしかないと諦めた顔だった。
ただ、無条件に売れと言うつもりはない。
「麦だけは、食う分を残せ」俺はアーヴィンに向き直った。「売るのは、余りと、使っていない物だけでいい。冬を越す分に、指一本触れさせない」
アーヴィンの表情が、わずかに緩んだ。反対を撤回したわけではない。だが、聞く耳を持ってもらえる程度の一手にはなったはずだ。村長は小さく顎を引いただけで、それ以上は言葉を継がなかった。
その傍らで、ソルが台帳を繰る手を止めた。
「……なるほど」
短い一言だけだった。それ以上は、何も説明しない。だが、視線が俺の目とかち合った瞬間、同じ絵を見ている確信があった。この村で、今、俺の狙いに触れているのはこの男だけだ。
「あんた、何を考えてるの」
フィーネがまだ食い下がってくる。答えないまま、俺は視線を村の向こう、代官邸の方角へ向けた。塀の向こうに、荷を積んだ荷車が吸い込まれていくのが見える。空になっていく店の棚と、膨らんでいく代官邸の倉。二つの動きが、同じ線の上にあった。
説明すれば、三人は安心するだろう。だが、その安心は村中に伝染する。伝染すれば、誰かの表情の緩みが、あの慇懃な男の目に留まる。ここから三日間、村の不安ごと賭け金にする。その孤独は、誰にも分けてやれない類のものだった。
その日から、村は売りに出た。
最初は恐る恐るだった。長年しまい込んでいた古い鍋、割れた壺、使い道のない反物。誰も本気で高値を期待してはいなかった。だが名代の男たちは、持ち込まれた物すべてに言い値の倍を弾んだ。二度目、三度目になると、村人たちの足取りは軽くなっていった。荷を担いで坂を下る足音が、朝から絶えなかった。
「割れた鍋まで、言い値の倍で買いよったわい」
老爺が煙管をふかしながら、しわがれた声で笑った。
「儂も驚いたわ。あんな穴の空いた鉄くず、燃やす薪にもならんと思っとったのに」
「うちの、十年売れ残ってた反物が……」ゲオルクが呆然とした顔で呟く。「あんなに嫌がってた在庫が、こんなに簡単に片づくとは」
隣で聞いていた女房が、亭主の脇腹を肘で小突いた。
「うちも、納屋の隅の古い鋤、持っていったらどうかね。もう何年も使ってないだろう」
「あれか。錆びて刃がろくに残ってないぞ」
「錆びてても、鉄は鉄だろうよ」
言い争いというほどでもない、ただの夫婦のやり取りだった。それでも周りの何人かが、鋤の値を巡る二人の顔を見比べて肩を揺らした。村の死蔵が、代官の欲を通して現金に変わっていく。皮肉な図だった。誰も冗談のつもりでは言っていない。だが、笑うしかない光景でもあった。
その輪から少し離れた場所に、ロランが立っていた。かつて代官の名代を気取り、この村に自らの空き地を安く申告して痛い目を見た男だ。売る側の列にも、買う側の列にも加わらず、ただ遠くから成り行きを眺めている。従者の姿はもう連れていなかった。目が合うと、ロランは何も言わずに視線を逸らした。一度、制度に噛まれた者の距離の取り方だった。何かを言いたげに口が動きかけたが、結局は喉の奥に呑み込まれた。
俺は高台から、ソルと並んで代官邸を見下ろしていた。塀の向こう、三棟並んだ倉のうち、一番奥の扉が開き、荷を呑み込み、また閉じる。その繰り返しが、朝から何度も続いていた。荷車の車輪が門を潜るたび、軋んだ音が風に乗って高台まで届いた。
「……三棟目の扉が、今日で四度開いた」
ソルが帳面に目を落としたまま言った。数字を数えているのだと分かった。指先が、開閉の回数を示す線を一本、また一本と加えていく。俺は何も返さなかった。答えは、まだ口にする段階ではない。
夜、フィーネが銀貨を数えながら、ふと手を止めた。
「……村の手元に、こんなに銀貨が回ったの、初めてかも」
呟いた声には、疑いよりも驚きが色濃く滲んでいた。買い占めが始まってからの数日、村に流れ込んだ銀貨の総量は、これまでのどの取引よりも多かった。
「代官の懐から出た金が、村に居座ってるってわけね」フィーネは硬貨の山を見下ろしたまま、独り言のように続けた。「……あんたが仕組んだの、これも」
「村人が売った。それだけだ」
「そういう言い方、ずるいと思う」
口ではそう言いながら、フィーネの指は硬貨を数える手を止めなかった。あの男は、村を痩せさせるつもりで、逆に村の手に現金を握らせている。まだ全体像は見えていない。だが、何かが狂い始めていることだけは、誰の目にも分かり始めていた。
市の立つ朝、広場に人が集まった。
ハウゼンが台帳を脇に抱え、変わらぬ無表情で立っている。バルドは手勢を数名従え、以前の慇懃さを崩していなかったが、頬の動きに余裕の薄さが見えた。村人たちは遠巻きに、台の周りを囲んでいた。老爺もゲオルクも、鍬を手にしたまま息を潜めている。
俺は袋を提げ、台の上に銀貨を並べていく。一枚、また一枚。硬貨の擦れる音が、朝の静けさの中で妙に大きく響いた。数える手を止めるつもりはなかった。九十九、百、百一――積み上げるほどに、広場の喧噪が遠のいていく気がした。数え終えた山は、二百枚。ちょうど手持ちの四分の三が、台の上で光っていた。積み上げた重みが、手のひらにまだ残っている。
「――随意買取だ」
俺はバルドを見据えた。
「あんたの申告値、銀貨二百枚。言い値で、頂きます」
バルドの口元が、ふっと緩んだ。
「これはこれは。倉と土地でございましょう」両手を広げ、鷹揚な仕草を見せる。「どうぞお持ちください。あんな空き倉一つ、惜しくもございません」
まだ、何も分かっていない顔だった。この三日、自分がどれだけの物をあの倉に運び込んだか、頭のどこかで数えていないのだろう。数えていれば、その笑みは出てこない。
「――申告の記載を、確認いたします」
ハウゼンが台帳を開き、指でなぞった。ページをめくる音だけが、しばらく広場に響いた。抑揚のない声が、静かに続く。
「『代官邸の倉および遊休地一帯』。品目の内訳は、記載されておりません」
バルドの頬から、笑みがすっと引いた。
「記録に、内訳の記載はございません」ハウゼンは帳面から顔を上げなかった。「一括として記録されております。記録に無いものは、無いものとして扱う――それが規定であります」
沈黙が、広場に落ちた。
品目を分けずに一括で申告したのは、バルド自身だ。麦の量を書けば死蔵の規模がばれる。だから丸めた。中身を隠すためにそうしたはずの一行が、今、中身ごと差し出す枷に変わっている。この三日、あの男が買い集めた麦も、油も、蠟も、車輪も、すべてあの倉に運び込まれていた。買えば買うほど、渡す中身が太っていく。自分の攻撃が、自分の差し出す獲物を肥やしていたのだ。
バルドの喉が、大きく上下した。
「――そんな、馬鹿な」
台の周りで、村人たちの間に低いどよめきが走った。老爺が煙管を握ったまま身を乗り出し、ゲオルクは口を半開きにして立ち尽くしている。三日間、恐々と売り続けてきた自分たちの手が、今、何を引き寄せていたのか。誰もが同時に気づき始めていた。
手勢の一人が、剣の柄に手をかけて前に出ようとした。だが、そこにヴォルクが立ちはだかった。剣は抜かない。ただ、両腕を広げて道を塞いだだけだった。獣人の耳が、ぴくりと動く。相手の踏み込みの気配を、誰よりも早く読んだ動きだった。
「抜くなよ」ヴォルクの声は低く、静かだった。「抜いたら、あんたらが悪者になる。今のところ、まだ違う」
手勢の男は、剣の柄から手を離した。踏み出しかけた足が、そのまま止まる。にじり寄っていた他の男たちも、ヴォルクの構えのない構えに気圧されたように、じりじりと後ろへ下がった。武の男が、武を使わずに詰めを支えた瞬間だった。
視界の端に、文字が滲んだ。
『代官邸の倉および遊休地一帯/真価:銀貨二千八百枚相当。村を十年養い、なお蔵に残る麦。加えて、この三日で運び込まれた油、蠟、鉄、車輪/世評:代官の私財、銀貨二百枚』
十四倍。だが胸に残ったのは、桁の大きさではなかった。この富が、十年もの間、誰の役にも立たずに凍りついていたという一点だった。
「――中を、確かめさせてもらう」
俺の言葉に、倉の扉が軋みながら開かれた。
積み上がった麦袋が、扉の奥まで続いていた。三棟とも同じだった。手前は新しい油の壺と鉄の道具、この三日で運び込まれたばかりの物だと一目で分かる。奥へ進むほど埃を被り、麻袋の目が黒ずみ、虫の湧いた古い層が沈んでいる。饐えた麦の匂いと、新しい油の匂いが入り混じって、鼻の奥に張りついた。誰も、しばらく声を出さなかった。
老爺が一歩進み出て、麦を一掴みすくった。指の間から、ぱらぱらと粒が零れ落ちる。乾いた音が、静まり返った倉の中で妙にはっきり聞こえた。
「――何年分だ、これは」
誰かが呟いた。それ以上の言葉はいらなかった。
ゲオルクが、震える手で油の壺の蓋を持ち上げ、中を覗き込んで、また静かに戻した。何も言わなかった。言葉にする代わりに、蓋を戻す手つきが、いつもよりずっと丁寧だった。
「代官殿」ソルが台帳を閉じ、淡々と続けた。「買い占めに使った額を、こちらで概算した。言い値の倍で三日買い続ければ、村一つ分の値打ちなど、あっという間に喰い潰れる。手元に残る銀貨は、もう底が近いはずだ」
バルドの顔が、初めて青ざめた。反論の言葉を探す素振りさえ見せなかった。数字を突きつけられて言い返せないのは、この男自身が誰より、値の重みを知っているからだ。
「加えて」ハウゼンが帳面のページをめくった。「年に二度の搬出の記録が、今年はまだ届いておりません。規定に基づき、記録の不整合を上へ報告いたします」
搬出。その一言に、バルドの体から力が抜けていくのが見えた。上納が滞れば、この男の首がどうなるか。倉の富が代官の私財ではなく通過点だと知った、あの夜の板間を思い出す。上へ流す量が絶たれた今、この男を待っているものは、俺たちの詰みよりも重い。倉を失い、元手を使い果たし、上納すら出せない。三つの喪失が、同時に一人の男へ折り重なっていた。
慇懃さが、ようやく崩れた。バルドは襟巻きを握りしめ、肩を落とした。だが、這いつくばりはしなかった。この男なりの、最後の一線だった。
「……分かっておらぬ」
低く、掠れた声だった。
「若様は、何を敵に回したか、分かっておらぬのだ。この程度の駒、上はいくらでも替えが利く。次に来るのは、私のような小心者とは違う」
負け惜しみではなかった。警告だった。目の奥にあったのは怒りより、諦めに近い色だ。ハウゼンは表情一つ変えず、帳面を閉じた。
「――記録は、以上です」
味方の顔は、一切見せなかった。称賛も慰めもない。ただ、量るべきものを量り終えた者の顔だった。それでいい。この男が最後まで秤のままでいてくれたことが、今回の詰みを盤石にした一番の理由だ。
この三日、誰にも筋道を明かせなかった孤独が、今になってようやく肩から下りていく。信じてくれと言葉にできないまま、村を、仲間を、賭けの材料にしていた重みだった。フィーネが横に並び、何も聞かずに、ただ肩を軽く叩いた。それだけで十分だった。
前世で、似た問いに何度もぶつかった。死蔵を暴いて満足しても、上に流れる仕組みそのものは変わらない。だが今、目の前で、凍りついていた富が動き出している。あの頃見届けられなかったものの続きを、ようやくこの手で見ている気がした。
麦袋を積んだ荷車が、代官邸の門から次々と出ていく。夕日が、列の先を赤く染めていた。空になっていく倉の奥から、村の広場へ向かう荷車の轍が、幾筋も刻まれていく。
アーヴィンが荷車の列を見つめ、静かに口を開いた。
「――倉が空になる日を、儂は見るとは思わなんだ」
短い一言に、村を背負ってきた男の重みがあった。
「ま、あんたの読みが当たったってことね」フィーネが荷の縁に腰かけ、足をぶらつかせながら笑った。「次から、ちゃんと説明しなさいよ。心臓に悪いから」
「あの男に伝わっちゃ意味がない」
「分かってるわよ、それくらい」フィーネは荷袋の口を結び直しながら、ふんと鼻を鳴らした。「でも、次は先に一言くらいちょうだい。売れって言われた瞬間の村長の顔、見せたかったわ」
ヴォルクが荷車の轅を担ぎ、俺の方を見た。
「――商人」
一瞬、聞き間違いかと思った。ヴォルクはすぐに顔を背け、それきり言い直しはしなかった。呼び慣れない言葉を、無理やり口にした後の照れ隠しだった。
ソルは黙々と、空になっていく倉の輪郭を帳面に書き留めている。指先のインクの染みが、夕日にわずかに光った。書き終えると、帳面を閉じる前に一言だけ付け加えた。
「――上納が止まったと分かれば、必ず誰かが数えに来る。ここからは、帳尻の合わない相手じゃ済まない」
短い忠告だった。だが、聞き流せる響きではなかった。
代官の座は、今日から空いている。この辺境の実権を、次に誰が握るのか。答えは、もう決まっていた。
「――この村の値段は、これから俺たちが決める」
短く言い切り、俺は倉の方角に背を向けた。




