喪失と欠落
「なごう、なりそうやね……」
「そうやね」
右へ左へと首を捻る動作を、私達は繰り返していた。コート中央、ネットを挟んで直線と放物線に入れ替わる黄色い軌跡。真横から眺めている私の首の筋肉は、微かな疲労を訴え始めていた。
彼のサービスゲームから始まった。
デュースを繰り返す中で訪れた、アドバンテージ・サーバー。スタートから膠着状態といっていい展開だった。
逆さ帽子こそないものの、サッカーで鍛え上げられた強靭な下半身が上乗せされた先輩のプレー。見覚えのある低いパワーポジションと、地を這うようなストップ&ゴーのフットワーク。インパクトの度に響く「セイ!」という大声と共に高々と打ち上げるディフェンシブなテニスは、ブランクを感じさせずに健在だった。
(あげん体の切り返しに磨きが掛かっとったら……ああ、もう!)
先ほどから、どうしても見ているだけということができない。ただの「観客」に成り下がりたいのに、頭の中で勝手に「観測者」としての稼働を始めてしまう自分に腹が立つ。
ディフェンス主体だった私は、現役の頃から他のプレイヤーの動作を執拗に観察していた。それは、弱点を割り出した方が返球までの思考が単純になるからだ。クローゼットに積み重なったテニスノートには、対戦相手のストロングポイントとウィークポイントがびっしりと書き綴られている。どうすれば、相手のエラーを引き出せるか……それが私の生命線だった。
だからこそ、どうしても先輩の立場で「次」を考えてしまう。拾い続ける。相手に無理な攻撃をさせて自滅させる。もし、あの先輩の集中力が散漫だったり、やる気がなかったりすれば、こんなふうに考えずに済んだのにと苦々しく思う。
なにより、彼のプレーが観察を止めさせてくれない。
――――バンッ!!
瞬間、鼓膜を弾くような乾いた衝撃音が響いた。
(なん、今の……)
打った本人は、小首をかしげて小さくフォアハンドの素振りをしている。納得していないことは、眉間に皺が寄っているので明らかだ。
繰り返されたロングラリー。
それを一瞬で断ち切った打ち込み。
互いの僅かな甘さを拾い合うだけの低速なやり取りだっただけに、その暴力的な「奪い方」に唖然とした。
彼は、先輩がテイクバックからラケットを引っ張り出そうとした瞬間には、もうベースラインの内側へポジションを上げていた。そして浮き球とでも言わんばかりに、乗り込むようにしてドライブボレーを打ち放った。
格段に上がった球威。別次元の躍動感……なのに、あのショットの何が気に入らないというのだろうか。繰り返しフォームチェックする姿に「高望みにも程がある」と、呆れを通り越して怒りにも似たものを覚えてしまった。
彼は、先輩や私と同じように、フォアは片手、バックは両手でドライブを主体としていた。三人の中では、先輩のフォアの握りが最も厚くて軟式テニスのよう。対して私のフォアはセミウエスタン。恐らく、彼に近い。
けれど、その「フォーム」は全くの別物だった。壁打ちという限られた空間でも正確だったけれど、実際のコートでは際立つほどのフォームの美しさだった。子供達のお手本になるような理想的なスイング。私の短いフォロースルーとは比べ物にならないほどのラケットワークの長さとフィニッシュの安定感。ブレる、ということが全くない。
それに、ボールに辿り着くまでのフットワークに一切の無駄がなかった。動く度にコートからエネルギーをもらっているようだった。まるで、彼が走っているのではなくて、コートの方が足下へ滑り込んでくるようにさえ見えていた。
そして、違和感の正体が、やっと分かった。
彼はセーブしていたのだ。完全に様子を見ていたのだ。
観察していて気づいたこと。
彼には、勝ちたいという気概が見えない。
たしかに、彼が小生意気なことを言って始まった試合。上達とは無関係の試合。それでもコートに立った以上は、プレイヤーとして勝ち負けを意識するのは当然のはず。なのに、自分のショットにしか興味がない、自分のプレーにしか興味がない、そんなふうに見えていた。だから、あの僅かなミスでさえ、わざとなんじゃないかと疑っていた。
「これからたい!」
小刻みに足を動かして言う先輩に、彼は我に返ったように朗らかに返事をした。
「はい!」




