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幻痛

「行きたくなか。なんで、ついていかないけんとよ」

「やね。でも、勝手に帰るわけにもいかんし‥‥…」

 小声で文句を言う私のことを弥生が宥める。

(コートにげな、入りたくなか) 

 校庭に一面だけある不自然に高価なテニスコート。見るのも嫌なのに、まさか足を踏み入れることになるなんて思わなかった。グチャグチャな心の前には、サッカーウエアとブレザー姿が視界の中心でげんなりもする。

 小永吉先輩は、手にするブリジストンラケットを小さく振っている。小脇のダンロップフォートの新缶が潰れそうだ。その、隣の縦も横も見劣りする彼はというと、使用許可を取りつけてあるというコート中央の出入口の鍵を手に線細くも颯爽と向かってる。袖口や裾なんかが少し余っているのが見えて、幼さが増して映った。そして、そんな彼が、どれほどのプレーをするのかということだけは、本能的にも気になった。

(きぶん、悪うなる……)

 コートへ足を踏み入れた途端、埃っぽいような塗料のような、そんな独特な臭いが鼻腔を刺激した。オムニコートで練習する時間が長かった私にとっても記憶が蘇る臭い。ここには、まだ大切なものがあるように感じてしまう。この空間には、私を成長さてくれるものがあるように幻痛で右脚が疼いてしまう。

(絶対に、嫌)

 そんな不明瞭なことの為に復帰を目指したりなんかしない。次に何かあったら、私は二度と立ち上がれない。

 弥生と二人、サイドフェンスに寄り掛かった。デコターフの硬質なざらつきが、重い息を小さく吐かせる。

「ごめん、ちょっとお願い」

 先程まで身に着けていたブレザーと同系色のネクタイを彼が預けてきた。驚きつつも私は反射的にそれを受け取っていた。抗議しようとしたけれど、片膝を突きながら見覚えのあるシューズに履き替えていく姿に思わず口を噤んでしまった。

(なん……) 

 まるっきり違う、その様子。気高さがありありとしていた。先ほどまでの小生意気な雰囲気から一変、近寄り難くも魅入ってしまうような、研ぎ澄まされたプレーヤーの動作だ。これほどまでに人の空気は変われるものなのだろうか。テニスに対する次元の違う取り組み方が現れているようだった。


 プシュ、ポン、ポポン……


 見れば、先輩が缶の蓋を開けて逆さに振っていた。黄色い球体は、真空という檻がよほど窮屈だったのかコートへ降下して不規則に転がっていた。

「3セットマッチでよかか? アップは3分ぐらいでよかろ」 

 大きく肩を回しながら先輩が問う。思案顔をした彼が「はい」と答えた。

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