遺物の返還
「部活ば、入らんと?」
「んー、今からっていうのもね……弥生は?」
あれから一月が経ち、通院の回数も減って不安ながら松葉杖も必要なくなったころ。 すっかり仲良くなった彼女と下校するため、私は下足場で靴を取り出しているところだった。
「文化系には興味あるっちゃけどね。こんど見に行かん?」
「よかよ」
「やった。栞ちゃんとなら、どこでも楽しそう」
彼女は屈託のない笑顔で私の腕に触れる。その体温が、今の私の「普通」を象徴していた。そして、そんな他愛ないやりとりをしていると、背後から突き刺すような声が走った。
「中牟田やろ?」
振り返ると、そこにいたのはサッカーウェアを纏った長身の男子だった。 整った顔立ちに会心の笑み。
「やっぱり! 久しぶやなぁ」
私が答えに詰まると、その男子は前髪を持ち上げた。
「あ……」
小永吉慶太。 かつてジュニアの大会で「ギャップ萎え王子」などと揶揄されていた帽子のツバを後ろにしてプレーする一学年上の選手だった。 外見とは裏腹に、コート上では生理的に拒否反応を抱かせるほど低いパワーポジションで執拗に粘るスタイルと、インパクトの度に発する不快な大声が有名だった。そして、控えに回ることの多かった私は待ち時間の長さと騒音に精神を摩耗させられていた。
「この学校だったんですね」
「おお。にしても中牟田、ここはテニス部なかぞ」
「ええ、まあ……。先輩は、やってないんですか?」
「ん? ああ。今はサッカーばやりよったい。他のスポーツにも興味あったけんくさ」
歯切れの悪い会話。 テニスという共通言語の残滓に遭遇した嫌悪感。 そんな私の内心など推し量ることもなく、先輩は何かを閃いたように話す。
「お前、テニスやってないなら丁度よか。うちのサッカー部のマネージャーにならんね。今ちょうど探しとったとよ」
先輩は、私の困惑を無視して勝手な解釈を一方的に積み上げる。隣の弥生は、困惑した様子だ。
「お前なら選手ば見る眼も肥えとーやろし、何より、テニスしよらんなら暇やろ? 今からでも体験ば来い。悪いようにはせんけんくさ」
「いや、でも……」
先輩の声が下足場に反響するにつれて、息が詰まるような錯覚に陥った。望んでもいない「価値」を勝手に定義されて、私の「普通」が歪な形に書き換えられていくようだった。あの頃の、勝つために執着した日々を強要されているようで、視界が熱中症のようなぼんやりとした光景に歪んでいった。
「中牟田さん――」
そんななか、静かな直線的な声が膨張し続けていた先輩のノイズを鋭利に途切った。 透明で淀みのない響き。見れば、黒い布地のラケットケースを肩に掛けた男子がいた。間違いなく、あの日、あの公園で凸凹の壁を相手に正確なショットを打ち続けていた彼だった。そして、あの時には気づかなかった違和感が明確に一つ。それは、向かって右側の黒髪に混じったチョークの粉をなすりつけたような不自然で無機質な一束の白い髪だった。
「誰ね?」
水を差された先輩が不機嫌そうな声を出す。
「一年の甘露寺かなたと言います」
「友達か知らんけど、いま勧誘ばしとうけん待っとって」
その言葉を彼は完全に無視して、私を真っ直ぐに見据えた。
「中牟田さん。あの日、公園で落としてませんか?」
差し出された彼の手のひらには、使い込まれたピンク色のヨネックスの振動止めがあった。
「……」
ポケットに入っていたのは知っていた。いつ捨てようかと迷ってるうちに後回しにしていたものだ。まさか、こんなところで戻ってくるなんて。
「お前、俺を無視すんな」
自分が蚊帳の外に置かれたことで、先輩の表情がにわかに変化する。
「すいません。早く返してあげたかったので」
「なら、もうよかろうもん。またな、一年」
「先輩の話も終わったんじゃないんですか? 二人とも嫌がってますよ」
「は? なんいいよっとか」
「かなり迷惑そうだったから」
「……大概にしろよ、一年」
先輩の声が一段低くなり、下足場に明確な暴力の気配が充満する。
「言葉が足りませんでした。すいません」
彼は、そういう割には悪びれた様子もなく、肩に掛けたラケットケースを示して「テニスできるんですよね? 僕が勝ったら、許してもらえます?」と、言った。その声には、何の気負いもなかった。ただ「エラーを修正する」ような淡々とした響きだった。そして、それが小永吉先輩のプライドを完璧に逆撫でしてしまった。
「よかぞ。ちょっと待っとけ」
そう言うと、先輩は「ラケットば取ってくる」といって、大股に何処かへ向かって歩き出した。弥生の手の温もりが背中に伝わってきていた。事も無げに佇む彼を見て、私は始まりかけていた「普通」が掻き消されていく予感がした。




