空の下の青
入学式当日。気温は然程ではないものの、午前中から既に夏の下準備といった日差しが照りつける。 歩けるようになるまでは、父に送ってもらうことにした。というのも、駅からの道のりは平坦なのだが、校門までの八十メートル弱の傾斜が中々の難所になると思われたからだった。
「スーツ着ると格好よかよ」
最寄りとなる駅前の一階で小さなテニスショップを営む父は、立ち寄ってから式に参加するという。
「そうか? 着なれんけん、なんだか落ち着かん……」
娘の新生活の門出とあって、しっかりと髪をセットして髭も剃った父は緊張していた。その様子に私の心は逆に解れる。
「じゃ、後でね」
黒のスクールソックスを引き上げて、同系色の膝のサポーターで口ゴムの部分をしっかりと押さえ込んだ私は、松葉杖を手にして年季の入った軽のドアを閉めた。そうして校門に立ち並ぶ先生と思しき人達に「おはようございます」と挨拶をして潜った。
男女共学の学び舎、筑清学園。 文武両道を重んじるこの学校は、創立から三年と日が浅い。なので、未だ校舎は新しい雰囲気が漂い、そこはかとなく透き通った空気すら感じる。
入学前、一番気に入ったところ。それは、テニス部がないこと。(嫌な思いばせんですむ)、そう思った。 紺のブレザーは志望していたところよりも可愛かったし、チェック柄のスカートは品があっていい。そうして澱んだ気持ちの中にも高鳴るものを忍ばせながら足を踏み入れると、平穏を脅かす鮮やかすぎる色が私の視界の隅に入って反射的に顔を向けた。
「なんで……」
言葉が熱を失って喉に張り付く。 あってはならない場所。選んだはずのない景色。 フェンスの向こう側、校庭の左奥に横たわるのは、あろうことか一面のハードコートだった。
人工的な青、それを縁取る深い緑。 全米オープンでも採用されるデコターフの均一な配色。それが、朝日を反射して私の頭の中を真っ向から暗くした。
(テニス部はないって、聞きよったのに……)
その高価すぎるコートの存在は、逃げ延びたつもりの私を待ち構えているようだった。まるで、世の中の悪意から監視されているようにも感じられた。 私は、震える体を引きずるようにして校舎へ向かった。
「ええっと、これから担任を務める鴨志田です。よろしくお願いしますねえ」
体育館で行われた式は、つつがなく終了して、それぞれのクラスに場所を移す。 式の間、答えのない問題を解くように頭をめぐらしていたけれど、壇上に腰掛け居並ぶ人の中に祖父の名前と姿を見つけて、一瞬だけ私は繁々と眺めていた。
その風貌は、母のたおやかさからは想像もつかないほど峻烈で、剃髪された頭部が威圧的なまでの厳格さを放っていた。けれど、その微動だにしない静謐な佇まいには、私の知る母の凛とした空気を感じることができた。
(外見、お祖母ちゃんに似とったっちゃろうか?)
そんなことを考えながら観察していた私だったけれど、祖父は一瞬こちらを見たきり、後はパイプ椅子に深々と腰掛けて腕組みしたまま目を瞑っていた。
「今後の予定ですが――」
眼鏡をかけた二十代後半ぐらいの男性担任は理科が担当とのことだった。 博多弁が出ないところをみると恐らく県外、それも九州以外の人なのだろう。何とも和む雰囲気と存在感の薄さが、中学の頃の強烈な担任を何故か思い出させる。
「二、三年生より若いからだそうです」
一年生の教室が最上階であることの理由を躱すように答えた先生だったけれど、実際には入試などの為に三年生の登下校が不規則になっていくことへの配慮であるらしい。そして、それは私にとって大変迷惑なことであり、案の定、初めて上る時には危うく転倒しそうになった。
〈大丈夫?〉
古賀原弥生さんという長い髪を一つに束ねた女子が私のことを後ろから支えてくれていた。
「あ、ありがとう……」
「気にせんで」
おとなしそうな雰囲気の彼女とは、短い会話をした。なぜだか、心の澱みを少しだけ薄めてくれるように感じられた。
(心機一転やね)
そうして窓際に位置する私は、反対側へ向けて小さく手を振った。廊下側の古賀原さんは、クラスメートだった。彫りの深い彼女の笑みに満足して、教壇に立つ先生の話を耳にしながら視線を外へと向けた。
青空が広がり、学校の周囲には、生命力豊かに樹木が生い茂っている。 この絶好のポジションからは、ちょっとした博多の街並も見下ろすことができて、福岡空港から飛び立つ飛行機も景色の一部となっていた。
(いい眺めやったとに……)
見ないようにしていたテニスコートが目に入ってしまった。
「テニスげな、ばり好かん」
人工的な色を見下しながら、私の高校生活が始まった。




