増悪の再現性
「ふぅ……」
松葉杖をもたれ掛けさせて、冷たい空気に似合わない日差しのなかで伸びをした。
聴こえてくるのは、雀の囀りと遠くのエンジン音。
午後の一時は、先ほどからする耳障りなものとポケットの遺物さえなければ、心地の良いものだった。
(しゃーしかね)
それは、やって来て直ぐ目に入った壁打ち場からだった。あそこは平日の昼間、サボリと思われるサラリーマンがストレス発散とばかりにボールを打っていることが多い。今では遠く、一瞥で済ませている空間だ。それなのに、見てしまっている。
(ほんとに打ちよう……)
先程から聞こえてくる音が余りにも正確で、確かめてみたくなってしまったのだ。ここに限ったことを言えば、私が一番上手いはず。けれど、その私でさえあれだけ一定のリズムで打ったことはない。理由は、あそこは無いよりはマシという程度の代物で、壁は凸凹、足場も小石や砂埃があって途切れないようにさせるので精一杯なのだ。だから、あの音を保つ為には、ピンポイントのコントロールと安定した球威、そしてスイングの絶対的な再現性が要求される。
(凄か……)
気付けば、私は吸い込まれるようにして見ていた。テニスシューズにジーンズ、腕まくりしたトレーナー。熱くなって脱いだんだろう、錆びたフェンスの網目にパーカーと思われるものを突っ込んで打つ少年の姿があった。年下だろうか。華奢な後ろ姿と、二ヶ月弱とはいえ白くなってきた私と比べる必要がないほどに透明な肌が際立っている。
(上手すぎるやろ)
少年は、素振りをしているようだった。
スタンスを決めたまま動くことなく、フォアハンドストロークのモーションをリズムよく繰り返している。
(なんなん、あれ……)
理解できない状況を目の当たりにして、私は暫し茫然となった。
(契約選手……?)
私の心を揺さぶったもの。それは、黒いガットに引かれている線だった。ステンシルマークと呼ばれる、バボラというメーカーのダブルラインの横線。数量は別にしても、無償提供を受けられるモブのプレーヤーではない証。テニスショップで塗って貰ったものかもしれない。ガット張りに出すとサービスしてくれるショップもあるからだ。だけど、あの上手さからして契約選手だっていうことは十分に有り得る。
(契約、か……)
ずっとヨネックスを愛用してきた私が、メーカーの人から「高校でレギュラーになったら契約してあげる」と言われたのを思い出して、悔しさから歯軋りのような音が出そうになってしまう。でも、よく見ると少年の使っているラケットが最新のモデルじゃないことに気付いた。あれは、少し前のモデルだったはず。
(契約しよったら新しいのば支給されるけん、それ使うと思うんやけどね。切られたんかな?)
成績不振。あるいは素行不良。
「ん?」
そんなことを考えながら見ていたら、彼はラケットヘッドを突き立てるようにして蹲った。打ってもらえなかったボールが捲れ上がったフェンスを通り越して、角度を変えながらやってきた。けれど、そんなことよりも私は彼の方が気になった。
(心配やね……)
凝視する私は次第に不安に駆られて、手探りで掴んだ松葉杖で腰を浮かした。すると、ほぼ同時に少年はゆっくりと立ち上がり、両手を広けて深呼吸の動作を繰り返す。そうして、落ち着きを取り戻したのか周囲を見回したあと、振り返って言った。
「そこの君、ボールお願い!」
澄んだ声で放たれた言葉。我に返った私を瞬時に卑屈にさせるのに十分な言葉。
あそこに立つことのない私に、屈託のない笑顔でボールを寄越せと言うのか。
心配した思いが掛け合わさって、負の感情が鬱蒼としていく。
「よかよ。そげん欲しいとやったら……」
松葉杖の一本を手にして勢いよく立ち上がり、彼を背にしてゴルフクラブに見立ててフルスイングした。けれど、「っ!?」無様に地面を叩いた衝撃から、手首に痺れが走った。視界では、力なく転がるボールが砂場のへりにぶつかり戻ってくる。
「惨めやね……」
物理的な痺れよりも、八つ当たりすらまともに出来ない自分の不甲斐なさに、全身を熱いような冷たいような感覚が這っていく。私は、痛む手首を庇いもせずに松葉杖を両脇に抱え込むと、逃げるようにして、その場を後にした。




